一日目 悪戯好きの花子さん
私は震える足を気のせいだと思い込んで階段をのぼる。怖くない、怖くなんかない、と暗示をかけて歩いていると突然目の前の床から女の子が生えてきた。……生えてきた?
「うわあああ!?」
噂の校舎に入って数秒、情けない悲鳴を早くもお披露目してしまった。床から生えてきた女の子は一瞬目を丸くして私顔負けの情けない叫び声を上げた。するりと床から抜け出してすぐ近くにあった女子トイレへと駆け込んで行ってしまった。……出会い頭にあんな大きな声を浴びせたのだから怖がらせてしまったのかもしれない。少し申し訳なくなって後を追った。他の所と変わらず埃っぽいトイレに足を踏み入れると、手前から二番目の個室から声が聞こえた。
「えっと、ごめんなさい、急に大声上げちゃって」
「私こそごめんなさい……まさか人間だとは思わなくって……橘だと思っていた……」
消え入りそうな声で少女は呟く。すみません、と何度も謝る彼女の声が可哀想に聞こえてきた。
「私は大丈夫。少し驚いただけで、気にしないで」
そう言うと個室がキィと音を立てて少し開かれた。涙目でこちらをおずおずと見上げている。できるだけ優しく微笑んでみせると、彼女は怖がるように扉にしがみついた。……怖がってしがみつきたいのは私なんだけどもなぁ。
「本当? 怒ってない?」
「うん、全然」
怒っては無いけど怖い、とは言えない。少女はパッと明るく笑って飛び出してきた。サラリと短い髪を揺らして真ん丸の目を嬉しそうにキラキラ輝かせて私を見上げてくる。よく見れば普通の女の子みたいだ。恐怖が引っ込んだ隙に小さな冷たい手が私の両手をしっかりと握った。
「よかった。皆、私を見ると逃げちゃうんだ。貴方は違うんだね」
キャッキャと楽しそうにはしゃいでいる。さっきまでの怯えっぷりはどこにいったのだろう。……私も人のこといえないけども。
彼女は、遊ぼう遊ぼう、と私の手を引いてトイレから出る。意外にもその力は強くて、私は簡単に引き摺り出された。手はしっかりと握られたまま、彼女はご機嫌な声で何をしよう、と話してくる。周りを歩く学生が嬉しそうな笑顔を浮かべて私と彼女を見てきた。
「ねぇ花子ちゃん、花子ちゃん。その子はだぁれ?」
「この子は、えっと……」
えぇっと、と困ったように私を見上げてくる。そうだった、まだ名前を言っていなかったなぁ。
「柏井っていうの。よろしくね」
「柏井ちゃん! そう、柏井ちゃんって言うのね。うふふ、よろしくね」
学生は手を振って去って行く。私もその背中に手を振った。
ふと私は気になった。さっきの子、この子のことを花子ちゃんって言わなかった……? トイレと花子といえば、もしかして。
「トイレの、花子さん……?」
「なぁに?」
私の花子さんのイメージからかけ離れた少女が私に微笑みかける。ただの無邪気で明るい女の子みたいなのに。花子さんのイメージの要素の欠片もない。赤いスカートでもおかっぱでもないんだもの。セーラー服でショートヘアの可愛らしい子なだけだ。
ぽかん、としていると彼女はくつくつと悪戯っぽく笑って私を見つめた。
「びっくりした? よくね、らしくないって言われるの」
「うん、花子さんっていうと、もっとこう……」
「こう?」
ふわ、と目の前の少女が煙に包まれる。さっとそれが晴れると、先程とは全く異なった少女が現れた。赤いスカートに真っ黒のおかっぱ。猫のように鋭い目がこちらを射抜くように見据え、ニタリと口の端を吊り上げる。ぞくりと冷たいものが背中を這い上がった。怖くて声も出ない。
すると目の前の彼女は、ふふ、と笑って元の姿に戻った。
「怖かった? でもあれじゃあ、ありきたりだからイヤなんだよね」
「う、うん、そうだね。イメージ通りだね」
「それに可愛くないしね。私だって可愛くしたいし、トイレに引き籠るのもイヤなんだよ。なのに皆あんなイメージ作っちゃって、ひどいよねぇ」
腕を組んで白い頬を可愛らしく膨らませる。こう見るとただの中高生みたいだ。ツーン、と拗ねている彼女の頭を撫でた。
「私はこっちの花子ちゃんがいいな」
「……イメージが崩れるって怒らないんだね。私、優しい人は大好きだよ!」
嬉しそうに目を細めて言う。拗ねて膨らんでいた頬も元通りに戻っていた。花子ちゃんは組んでいた腕を解いて私の手を握る。そして、上機嫌な笑顔を浮かべて私を見上げた。
「ありがとう、柏井! お礼にいつでもどこでも悪戯してあげる」
「ふふ、お礼になってるのかなぁ、それ。花子ちゃんは悪戯が好きなの?」
「うん! でもよく橘に怒られちゃうの。橘が些細なことでびっくりし過ぎるだけなのに」
橘? さっきも聞いた気がする。彼女の友達なのだろうか。
「橘っていう男の子がいるの、私の友達。でもね、意地悪で小心者なの。美術室によく居るんだよ」
まるで心を透かし見たのだろうか、彼女は私が欲しかった解答を口にした。少しばかり得意げだった笑顔はころりと変化し不安げに私を見上げた。繋がれた手には力が込められ、どこにも行かないでと言っているかのようだった。どうしたの、と問うよりも早く、彼女は口を開いた。
「行っちゃイヤだよ。今日は私と遊ぶ約束なんだから」
「そうだったの?」
「今したの! ねぇ、柏井はなんでここに来たの? 遊びに来てくれたの?」
花子ちゃんは話題を変えようと必死に声を上げる。余程私のことを気に入ってくれたのだろうか。嬉しいような、でもお化けに好かれるのは少し気味の悪いような、不思議な感じだ。
「えっと、七不思議を探しに来たの」
「七不思議? じゃあ尚更今日は橘の所なんて行っちゃダメだよ。アイツも七不思議の一つなんだから」
「どうして尚更ダメなの?」
そう問うと、彼女は目を真ん丸にしてこちらを見つめた。そしてすぐに呆れ切った声で、柏井ったら何にも知らないんだね、と言う。私の手を握る小さな手にまた力が入る。花子ちゃんはまっすぐこちらを見てはっきりとした声で言った。
「七不思議に一日で全部遭遇すると、こちら側に引き込まれるんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ! もー、そういうのもちゃんと調べて来てよね」
「ごめんね、教えてくれてありがとう」
頬を膨らませる彼女に礼を言うと、彼女は手を放してくれた。片方の手は握ったままで、ねぇ遊ぼう、と手を引いて歩き出した。
二つの足音以外にも色んな音が聞こえる。どこかから鳴る楽しそうなピアノ、空っぽなのに騒ぎ声のする教室、人の姿なんて見えないのに私のすぐ隣を通り抜ける足音と喋り声。小さな恐怖心は煽られるばかりで、徐々に成長していった。ぴた、と花子ちゃんは足を止めて振り返った。
「大丈夫、柏井。怖くないよ。私がついているじゃない。悪さする奴は皆追い払ってあげるから、安心して」
花子ちゃんはこちらを見上げて恐怖を吹き消すような明るい笑顔を見せた。
彼女に手を引かれるまま誰もいないにぎやかな廊下を通り抜ける。一つの教室の前で足を止めると、彼女はカラカラと戸を開けた。中はしんと静まり返って誰も居ない。彼女は教室の中に足を踏み入れた。私もその後ろについて中に入り込む。彼女は真ん中あたりの椅子に腰掛けると、小さな机を挟んだ正面の椅子を指差した。座って、ということかな。正面に座ると彼女は一枚の紙を取り出した。鳥居の下に並ぶ五十音とはい、いいえの文字。まさか、これは。
「これって、こっくりさん?」
「そう、狐狗狸さん。お狐様をよぶおまじない。やろ、やろ」
幼い子がままごとに誘うかのように明るく弾んだ声で私に言う。こっくりさんって、あのこっくりさんしか知らない。十円玉に指を乗せてこっくりさんに来てもらって色々見てもらって、帰ってもらうやつ。でも上手くいかなかったら帰ってもらえなくて呪われる、あのこっくりさんだろうか。
「花子ちゃん、そういうのはやっちゃダメだよ……!」
「そうだよ花子。それでよばれる私や他の霊の身にもなりなさいな」
すぐ背中から声がする。驚いて振り返ると、そこには一つの影が立っていた。白い着物に身を包み、白い髪をふわりと揺らしている。赤い目は狐のように細められ、私を見下ろした。
「おや、珍しい。人間か」
「こっくりさん……?」
「うーん、まぁ狐は狐だね。狐狗狸さん、なんて名前ではなくて白狐と言うのだけど」
「お狐様はね、ちゃんと耳と尻尾もあるんだよ。ほら!」
花子ちゃんは椅子から飛び降りると、その人のすぐ後ろに立った。もふもふとした白の尻尾に彼女が抱き付くと、綺麗な髪と一体化していた耳がぴょこ、と動いた。お狐様、と呼ばれたその人は呆れたように笑って、花子ちゃんの頭を愛でるように優しく撫でた。
「花子の友達かい?」
「柏井は今日初めて来てくれた子なんだよ。私の新しい大切な友達!」
「へぇ、いいねぇ。だけど花子、そろそろこの子帰さないと、この子の家の人が心配してしまうよ」
「そっか……柏井、また明日来てくれる?」
お狐様の言葉に少し項垂れた花子ちゃんは不安そうにこちらを見上げてぽつりと尋ねる。私は勿論、と頷くと彼女は嬉しそうに目を輝かせた。そしてお狐様の尻尾を手放し、私に抱き付いた。
「やった! じゃあ私、明日も待っているから、ちゃんと来てね、約束だよ」
「うん、わかったよ」
「さて、私も戻ろうかな。じゃあね」
ひらりと手を振ると、お狐様は薄れて消えてしまった。完全に消えてしまうのを見送ると、花子ちゃんは私の手を取り、帰ろう、と言った。
二人で教室を後にし、また廊下を辿って行く。階段を降りて行く途中、一つの鏡と目が合った。その中にいる私は妖艶に微笑んでみせたように見えた。……気のせいだろうか。
「ねぇ花子ちゃん、この学校の七不思議はどんなものなの?」
「この学校の七不思議かぁ。橘なら全部わかるんじゃないかな」
花子ちゃんはこちらを見て少し寂しそうに眉を下げた。手に込められた力が少し強くなった気がする。
「柏井は七不思議を全部見たら来なくなるの?」
「来てほしいの?」
「来てくれると嬉しいな。だって私、柏井のこと大好きだもん」
照れたような、幼さが残る笑顔を向けられ、私も思わず微笑みかけた。きっと来ると、と言うと花子ちゃんは目を明るく輝かせた。
しばらく歩いて行くといくつも並ぶ下駄箱が見えてきた。じゃあね、と手を振ると花子ちゃんも大きく手を振った。
花子は少女の去って行った先をじっと見つめながら手を振っていた。寂しそうな顔をしながら俯いたが、突然口元に弧を描いた。ご機嫌な様子で小さく歌を歌いながら再び階段を昇って行く。ふわりふわりとスカートの裾を揺らしながら歩く様子は踊っているようだった。
「花子、何かいいことでもあった?」
「うん、友達ができたの。橘もきっと気に入るよ。明日、たぶんそっちに行くと思うよ」
「君のお気に入りならきっといい子だろうね。楽しみにしているよ」
橘、と呼ばれた少年は目を細めてひらりと手を振った。花子も手を振り返し、また軽やかに歩いて行った。少年はご機嫌な彼女の背中を優しい目で見送っていた。そして彼も口元に笑みを浮かべてどこかへ歩いて行った。