表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熊伍郎カフェ  作者: 万葉
1/1

中間管理職―藤田亨―

 彼の住んでいた町は都会からほど近く、けれど小さな町だった。家から外へ出るとすぐ、小さなゲ-ムセンタ-がある。休日だというのに人っ子一人おらず、平日の夕方ごろに近所の小中学生が何人か利用する、さびれたところだ。そこから彼の足で大体100歩、古い駄菓子屋があった。ふと足を止めて懐かしいお菓子のいくつかを手に取る。ソ-ダ味の小さなグミ、口の中でぱちぱちと弾け、溶けていく菓子。一つ十円の、コ-ラ味の飴。中には当たりはずれがあり、当たりが当たった時はうれしかったものだと、無表情だった顔を綻ばせた。小さな物音がし、奥を覗いてみるとそこには背中を丸くして小さく座る婆さんがいた。こっくり、こっくりと船を漕ぐその平和な様子に、一抹の幸せと寂しさを感じ、力なく笑んで菓子を戻した。


 おかあさーん、ねぇ、お母さん?ねぇってばぁ!

 俺今度あのアニメのゲ-ム買ってもらうんだ!

 いいなぁー

 お前この前あれ買ってもらったばっかだろ

 キーンコ-ンカ-ンコ-ン・・・


 人が息づく音が、今も昔も変わらずこの町にはこだましている。ふと何かがこみあげてきて、彼は通りすがった小さな公園のブランコに座った。

 熱い何かが頬を伝って、白い砂を黒く染めた。

 ーキィ、キィ。

 座ったブランコをわずかに揺らすと、どこかが擦れる、そんな音がした。

 中間管理職とは辛いものだ。上司からはこづかれ、部下からは疎まれる。彼、藤田亨ふじたとおるは、上手くいかない毎日に目に見えない何かをすり減らして、それでも笑顔でなんとかやってきた。決して仕事が人よりできるわけでもない彼は、誠実に、着実に仕事やそれに付きまとう人間関係に向き合い、時に裏切られ、疲れていた。

 今度の三連休は、山へ行こう。誰もいないどこかでひっそりと佇んでいたい。

 そんな気持ちが出てきたころには空は朱から紺へと塗り替えられていた。



 僅かに湿った土を踏み締める。小さく細い枝が折れる音が時折聞こえ、男が歩いた痕跡を確かに残していた。電車で数駅、それ程有名でない山は、昔遠足で登った事のある山だった。それ程高くもなく、山道は適度に整備されており登り易い。登山用でない運動靴にリュック、ジャージと言う格好でも登れる、藤田にとっては手頃な山は適度な疲労を彼に与えていた。


「…お?」


 整備された山道より二又に分かれる、人が通って出来た細い道。それは彼の記憶にない道だった。けれど不思議と目に止まり、惹かれた。覗き込み、遠くに掘建小屋を見つけた彼はそちらへと足を向けた。

ーたまの冒険もいいだろう、と。

 じゃり、じゃり、と僅かに湿った砂利道を歩く。少ししか歩いていないのに、目の前には先ほどまで見えていなかった滝が轟々と音を立てて流れ落ちている。跳ねる水滴が射し込む光に照らされ、七色の虹を浮かび上がらせる。幻想的な情景に藤田は暫し呆けた。


「こんな…所が…」

「気に入ったかい?」


 振り向くと居たのは口髭を蓄えた藤田より年上に見える、がっしりとした体格の男。ともすると威丈高な印象を与えるが、顔には柔和な笑みをたたえていた。


「こんな所があったんですね…」

「…そうだね。でもいつも来られる所じゃない」

「そうですね、中々来られないです」


 男性はそうじゃないんだけど、と小さく呟くと踵を返した。


「お腹が減っていたらあの小屋に来るといい。カフェをやってるんだ」


 どれくらいの時間か、藤田は見るともなく滝を見つめた。水の飛沫が心を洗ってくれるような、そんな気がした。そしてふと気がついた後、先程の男性が入っていった小屋へと向かった。


ーからんからん


 どこか懐かしい響きとともに木造のドアが開く。


「ーいらっしゃい。来たね。生憎、メニューはないんだ。コーヒーとお茶とジュース、どれがいい?」


 カウンターごしに男性は笑顔で言う。荷物を降ろし、手頃な席に腰掛けながら、コーヒー、とぶっきらぼうに言うと藤田は小さく息を吐いた。直ぐに汗をかいた透き通ったグラスが手元に置かれる。一口飲むと、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。


「美味い…」

「疲れてる人程そう言う。ゆっくりしてってくれ」


 深い茶色の、大きな木目が目に止まる壁と、大木がそのまま梁になったような印象を受ける、屋根までの構造が一目瞭然の天井。凝ったインテリアがある訳ではない。自然をそのまま家にした、というような内装は藤田の心を落ち着かせた。そして店主が自ら豆を挽く音やお湯を沸かす音もまた、心地良かった。


「お待たせしました」


 その声と共に出されたのは一杯の珈琲と、淡い茶色の、ひび割れた楕円の物体。それは藤田には郷愁を引き出させるに足るものだった。


「カルメ焼き…」

「あり合わせで悪いが…おまけなんで苦手なら食べなくていい」


 藤田の呟きに、店主は苦笑して返した。

 記憶より小さいそれを手にとって齧ると、さく、という音とともに優しい甘さと少しの苦味が口の中に広がった。


「懐かしい…」

「だろう?」


 悪戯が成功した子供のようにくしゃりと店主は笑った。一口齧って珈琲を口に入れると、深い香りが鼻腔を満たした。それはカルメ焼きの優しい、素朴な甘みと見事に調和して、無くなるまで休まずにカルメ焼きと珈琲を交互に口にした。カルメ焼きはすぐになくなり藤田は少しばかり残念に思い、そこでやっと手を止め、余韻を楽しんだ。しかしすぐに温かな珈琲が未だカップの半ばから湯気に乗せた香りで存在を主張した為、またカップを手に取った。それを啜ると、僅かな酸味と深い苦味が懐かしさで弾んだ心を落ち着かせた。

 何にも邪魔されない、自然に囲まれた空間。それは藤田が望んでやまないものだった。それを堪能し、満足してほうっと深く息を吐くと、心のなかにあったずしりと重い何かが、綺麗な景色と、清涼な空気、そして懐かしくも美味しい菓子と日頃からよく飲んでいる、美味い珈琲により少しずつ解されていった事を感じた。


「…頑張れそうだ」


 我知らず、するりと言葉が口を出た。


「それはよかった。あまり無理はせずにな。…たまには逃げる事も大事だ」


 店主の言葉に、自分は逃げたくてここへ来たのだと気づかされた。それでも、もう少しだけ、という気持ちが生まれた今、藤田は晴れやかに笑った。


「そうだな…。ありがとう」


 清々しい気持ちを持って藤田は店を出た。店主独りきりになった筈の空間に甲高い声が聞こえた。


「人間ってのは難儀なモンだね。嫌な事からは逃げればいいのに」

「そうもいかんのだろ、人の子は」


 来た小道を歩き、もう一度美しい景色を見やろうと藤田は振り向いた。そこには滝はなく、生い繁った草木が歩いてきた小道を掻き消すように植わっていた。不思議に思い、目を擦ると遠くに大きな黒い熊が人間臭くぺこり、とお辞儀するのが見えた。呆然とそちらを見ていると熊の去ったそこには崩れかけの物置き小屋と思しきものが見えるだけだった。


 物置小屋のドアノブには、随分古い意匠で「熊伍郎カフェ」と書いた木片がぶら下がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ