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【冬富士の記憶】

作者: 鵜野森鴉

厳冬期の富士山は、ヒマラヤよりも過酷だった。

この物語はフィクションです。

実際の登山は、マナーを守り安全第一を心掛けましょう。



御殿場口、太郎坊洞門、午前二時。

週末であれば、冬富士の魅力に憑りつかれたクライマーが数人は居るのだが、

この日は平日。この彼の他に人影は無い。

ヘッドランプを頼りに、漆黒の闇へ歩みを進めていた。

三十分後、大石茶屋前を通過。

雪は固く締っていて、アイゼンの喰い付きはよい。


夜明けまでに宝永山の上部へ到達しなければ、容赦のない爆風が襲ってくる。

彼は冬富士で最大の試練は、雪でも氷でもなく、風であることを知っていた。

特に、三月から四月にかけての富士山は、下界では考えられない爆風が、

この白い魔境を支配しているのである。


週末から続いている晴天のおかげで、トレースは消えることなく残っていて、

暗闇の中でも道に迷うようなことはなかった。

見上げた星々が瞬いているのは、上空の風が強い証拠だった。


彼は次郎坊上の小屋を風よけにして、行動食を温かい湯で流し込んだ。

胃袋が熱くなり、そこからエネルギーが湧き出す感覚を感じていた。

振り返ると、空と地上の間にオレンジ色のラインが引かれ、ラインの上部に

澄んだブルーの領域が、ゆっくりと、ゆっくりと広がっていく。

もうじき夜が明ける。

彼は立上がり、モルゲンロートに染まり始めた山頂へと歩みを進めた。


七合目、砂走館。

夜明けとともに眼を醒ました暴力的な風が、彼を麓へ押し返すかのように暴れていた。

彼は堪らず屋根だけの小屋に身を寄せて、風の機嫌を伺った。

風は一定の周期で、暴れては休むリズムを繰り返していた。

風が休む一瞬に歩を進め、スピッツェを打込み、アイゼンを蹴込んで次に訪れる爆風に備える。

落石があっても避けることは出来ない。

気休めのヘルメットと、背中のザックだけが身を守る手段であった。


七合八勺にある赤岩館に到達すると、風の機嫌は良くなり、静寂の時間が長くなった。

彼は、今日は山頂まで到達できそうだと思った。

だが、冬富士はここからが登山であって、決して侮ってはならない。

長田尾根にある記念碑は、名強力の長田輝雄氏が富士山頂観測所の交代勤務の登山中に

爆風によって吹き飛ばされ、殉職されたのを期に建立されたのだ。

富士の強力と言えば、日本一の強力である。

その名強力でさえ冬富士に散った。

記念碑には巨大なエビの尻尾が、幾重にも纏わりついていた。


彼は大弛沢を歩くか、長田尾根をよじ登るか暫く考えたが、長田尾根に決めた。

そして最初の一歩を踏み出そうとした時、何処かに隠れていた爆風達が彼を揺すった。

片足立ちの不安定な体制で風の襲撃を受けた彼は、バランスを崩し、青白く鈍い光を

放つ蒼氷に投げ出された。

滑落したのである。


彼は一瞬、自分の身に何が起こったのか判らなかった。

ただ、物凄い速度で景色が横に流れ、身体の左側全体に衝撃を感じていた。

「滑落!」

そう気付いた瞬間、頭で考えるよりも早く身体が動いた。

身体を捻り、ピッケルのピックを氷面に突き立てたが、風に磨かれた氷面はピックを弾き返す。

彼は全体重をピックに乗せた。

「止まれっ」

祈りにも似た叫び声を出した。


氷を砕き割る破壊音を発しながら彼の身体は速度を落とし、やがて止まった。

しかし、彼は動かなかった。いや、動けなかった。

怪我は軽い打身以外無かったが、冬富士で最も警戒しなければならい滑落をした事に動揺した。

そして運良く止まったことに安堵した。


彼は落ち着きを取り戻し、顔を上げた。

記念碑から二十メートル程、滑り落ちていた。

下を見ると、宝永山の火口が彼を飲み込もうと大口を開け、待ち構えてているのが見えて

背筋が凍った。


彼は暫くその場に座り込んでいたが、はっと気付いたように時刻を確認した。

時計は午前八時を少し過ぎていた。

出発してから約六時間、天気は快晴で、風は強いが風速二十メートル前後で安定している。

身体は四肢の関節が痛むだけで、外傷は無い。

彼はここで撤収することも考えたが、このまま撤収すれば滑落の事実だけが残り、

その恐怖だけが心に刻まれる。

彼はそのことを恐れた。

「上がる…、絶対に」

彼は自分自身に言い聞かせるように呟き、立上がった。


一歩また一歩と、ピッケルとアイゼンで三点確保し強風をいなすように登る。

突然、彼の視界から氷壁が消え、紺碧の空が広がった。

長田尾根の頂上、東賽の河原に到達したのだ。

しかし、彼はその歩みを止めなかった。

本当の最高所である剣ヶ峰を目指したのである。


東賽の河原から御殿場口山頂、富士宮口山頂と進むにつれ風が収まってきた。

彼は「もっと早く収まってくれれば良かったのに」と少しばかりの恨み節を吐きながら、

剣ヶ峰に通じる馬の背手前で立止まった。

今は風が弱いから難なく上がれるが、もしまた風が強まればここを降りるのは命懸けに違いない。


暫く考え込んでいた彼は、突然ニヤリと笑った。

「冬富士登山自体が命懸けではないか」

「それを承知の上でここまで来たのではないか」

「そして今日の俺は冬富士で滑落しても生きているじゃないか」

それが彼の出した答えだった。

急斜面の馬の背を這い上がると、日本最高所と彫られた石碑が半分雪に埋もれていた。

ゴーグルを外し、青と白と黒しかない絶景を独り占めにした。

何物にも替えがたい至福の時間が彼を包んでいた。

彼は暫く絶景を堪能してから、満足げにゴーグルを掛け直し下山していった。


全ての冬富士挑戦者に捧げます。


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