別れ
洗面所の鏡を見ると、化粧をした剛が映っていた。
「またか」
剛は舌打ちをもらして、乱暴な手つきで顔を洗った。
あの不気味な痴戯の日から二ヶ月がたった。
剛は切美に対して、あるいらだちを感じていた。
切美はあの日以降も、剛の身体をのっとって、いろんな場所へ遊びに行っていた。そのことは別にかまわないのだ。切美の遊ぶ様子を意識の中からながめるのは、こちらとしても楽しいのだから。
ところが最近、切美は剛の意識がない間に、つまり眠っている間に身体をのっとり、勝手に女装して行動するようになったのだ。
なんと切美は、剛が女装をする前から、剛の身体」をのっとることができるようになったらしい。
朝起きると、いつの間にか化粧がほどこされている。剛は不快だった。知らないうちに自分の身体が動き回っているなんて、夢遊病のようで気味が悪かった。
ひどいときには、目がさめると、女装姿で見知らぬ県外の場所に立っているなんてことがあった。あのときはアパートへ帰るのにとても苦労した。
さすがにこのときばかりは切美に文句を言った。
「もうおれが寝ている間に、勝手に動くのはやめてくれ」
「いいじゃない。この身体はわたしのもでもあるんだから」
「いや、この身体はおれのものだ。おまえはあくまでおれの一部なんだ。勝手なことをするな」
切美はすねたような声をあげた。
「そんなひどいことを言うなら、消えるわよ」
それを言われると、剛はこれ以上言葉をつづけられなくなる。そして切美を失うさみしさを想像し、恐ろしくなって結局鏡にむかってあやまることになるのだ。
そんな日々がつづいてさらに一週間後、とうとう最悪の事態が起こった。
朝、剛は妙な狭苦しさを感じて目をさました。小さくうめきながら、布団の上で寝返りをうつと、肩が何か弾力のあるものにぶつかった。
何だろうと思って目をひらくと、隣で知らない中年の男が裸で眠っていた。
おどろいて飛び起きると自分も裸だった。
剛は混乱しながら叫んだ。
「誰だてめえ」
男は目をさますと、まぶたをこすりながらつぶやいた。
「どうしたの?」
「どうしたじゃねえよ。誰だよおおまえ?なんでおれの布団で寝てんだよ」
「は?」男はとまどいの目を向けた。「何言ってんだよ。あんたがおれをここに連れてきたんだろう」
「え?」
剛はますます混乱して頭をかかえた。それから、はっとして姿見の方を向いた。そこに映る剛の顔には化粧がぬられていた。
切美だ。
深夜、剛が寝ている間に、切美がまたもや身体をのっとったのだ。そして外に出て、この男を誘い、いっしょにアパートに帰ってきたのだ。
そのあと男と何をしたのか。
互いに裸であることから、それは容易に想像できた。
剛は吐き気をもよおした。あわてて立ち上がり、便所に駆け込むと、便器にもたれかかって吐こうとした。しかし空腹だったために何も吐き出せず、げえげえと喉を鳴らすことしかできなかった。
「おい、大丈夫か」
男が歩みより、手をさしのべてきた。剛はその手をはらいのけた。
「出ていけ」
「何?」
「出ていけっつってんだよ」
どなりながら立ちあがると、男を思いきり殴りたおした。そしてその顔が腫れ上がるまで何度も踏みつけたあと、男の身体をひきずり、服といっしょに外へ放りだした。
部屋にもどると、剛は拳を強くにぎりしめながら、姿見に映る自分にむかって大声をあげた。
「切美」
鏡の中の剛の顔は、切美の物憂げな表情に変わった。
「何よ」
「てめえ、何てことをしてくれたんだ」
「ちょっと遊んだだけよ」
「ふざけんじゃねえぞ、こら」
切美は眉間にしわをよせた。
「いつもいつもうるさいわね。あんまりうっとうしいことを言うと消えるわよ」
「ああ、消えろ。おまえにはもううんざりだ」
怒鳴ってから、自分の言葉に後悔した。しかし言い直そうとは思わなかった。これ以上切美の勝手を許すと、どんなことをされるかわからない。
「ちょっと勘違いしないでよね」切美は暗く笑った。「わたしはね、あなたが消えるって言ったのよ」
剛は言われていることがわからなかった。
「何だと?」
「聞いてなかったの?これ以上うっとうしい態度をとるなら、あなたを消すって言ったの」
「そんなこと、できるわけ」
「できないと思う?」切美の目は自信に満ちていた。「わたしは充分に成長したの。もうあなたに媚びる必要はないわ。いつでもあなたを完全にのっとることができるのだから」
「そんな」
剛は顔を青くしてあとずさった。そしてようやく気がついた。
自分がとんでもない化物を養っていたことに。
剛は自分のいままでの行動を後悔した。
あのとき、化粧品や女物の服を買うのをがまんしていれば、自分はいま普通に過ごしていたのだ。
そのとき、剛はふと思いたった。
化粧品。そうだ、化粧品だ。
剛は身をひるがえすと、洗面所にむかって走りだした。
すると足の感覚が急になくなって、いきおいよく転んでしまった。
どうやら剛の考えは読まれているようだった。
頭がぼんやりとしてきて、全身の感覚が薄れてきた。
やばい。のっとられる。
しかしは剛は力をふりしぼって、畳の上においていたウェットティシュを使い、それで顔の化粧を急いでぬぐいとった。
全身の感覚がもとにもどってきた。
思ったとおりだ。
どうやら化粧をしていなければ、切美は弱まるらしい。
その日のうちに、剛は部屋にある化粧品や女物の服をすべて捨てた。
そうすると、切美はぴたりとあらわれなくなった。
やはり化粧品を捨てたことがよかったようだ。
そういえば、眠っている間に身体をのっとられたときも、切美は必ず化粧をしていた。
化粧がなければ、切美は何もできないのだ。
それでも剛は、しばらくの間ろくに眠ることができなかった。ひと月たっても何も起こらないとわかったときに、ようやく安心して眠れるようになった。