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切美  作者: 桝田空気
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出会い


洗面所の鏡に、あの女が映っていた。



ワンピースを身につけ、濃い化粧をしたあの女だ。



同じ格好をした剛は、小さく笑い声をあげながら鏡にもたれかかった。女も笑みをうかべながら、こちらにもたれかかってきた。薄いガラス越しに、くっつきあっているような気分だった。



「会いたかったよ」



そう言ってから、いったん鏡をはなれると、声色を変えてこうつぶやいた。



「わたしもよ」



鏡の向こうから、女が話しかけていると思いこみ、剛は幸福感に包まれた。



そのあと何度も声色を変えて、女と会話をかわした。



夢の中での女との思い出について、じっくりと語り合った。



自分が演じているという意識は当然持っていたが、それでも恋い焦がれた女との会話は楽しかった。



ふと思いついて、剛は言った。



「そうだ。おまえに名前をつけないと」



鏡の中の女が首をかしげた。



「名前?」



「そう、名前。おれがおまえのことを、どう呼ぶのかを決めないとな」



「どんな名前にするの?」



「そうだな。何にしようか」



剛はうつむいてだまりこんだ。すると、それを待っていたかのように、頭の中にふたつの漢字がすうと浮かんだ。



「切美だ」



「・・・・・・きりみ?」



「そう、おまえの名前は切美。美しさを切り取ったような姿という意味で、切美だ」



「わたしの名前は、切美」



鏡の中の女、いや、切美は、両手を頬にあてて微笑んだ。名前をあたえたことで、存在感が増したような気がした。同じしぐさをしながら、剛はうっとりとそれを見つめた。





翌日も、その翌日も、剛は化粧をし、女物の服を着て、鏡の前で切美との逢瀬をくりかえした。



日がたつにつれて、この行為に対するためらいも薄れてきた。



自分はこういう人間なのだと受け入れることで、気持ちが軽くなった。



服の種類をいろいろと増やしていった。学生には結構痛い出費だったが、切美の喜ぶ顔を思いうかべながら、服を選ぶのはいい気分だった。アクセサリーもいくつか買った。アパートに帰ると、さっそく身につけて鏡の前に立った。



「ありがとう」



鏡の中ではしゃぐ切美を見て、剛は顔を上気させた。



ある日、剛は雑貨屋へ行って姿見を買った。



もう上半身しか映らない、洗面所の鏡ではがまんができなかった。



もっと大きな鏡で切美の全身を見たい。切美の頭頂から足先までを、目に焼きつけたい。



背中にかついで、姿見をアパートに持ち帰ると、部屋の壁に立てかけた。



そして、剛は切美のために買った服の中で、もっとも金をかけたものを身にまとった。



紫色の着物である。布地には、金色の刺繍で、数匹の鳥の影が縫われている。



実家で茶道をやっている、姉の着付けを手伝ったことがあるので、着替えにはそれほど手間どらなかった。襟や裾の乱れに気を使いながら着替えたあと、いつもより慎重に化粧をした。



姿見の前に立つと、剛はほうとため息をついた。



いつもとちがう切美が、そこにいた。



いままでのいろんな洋服を着てきた切美には、どこか少女らしさが残っていたが、いま姿見に映っている着物姿の切美は、完全な女だった。全身から、匂いたつような色気がただよっていた。剛は息がつまりそうになった。



窓の外で、電車の走行音が通りすぎていった。それからかすかに子ども達の遊ぶ声がした。どこか遠くのほうで、犬が一回鳴いた。



しばらくの間、剛は無言のまま、吸いこまれるようにして、姿見を見つめていた。





そのとき、鏡の中で切美の唇が動いた。



「ねえ、外に出たいわ」



「え?」



「この格好で、外を歩いてみたいの。ねえ、いいでしょう?」



剛は目を丸くした。そして、口をおさえてしゃがみこんだ。



何が起きたのかわからなかった。さっきの言葉は自分のものではない。自分はまだ切美を演じようとはしていないはずだ。それなのに、口が勝手にうごいて切美の声色でしゃべった。



恐る恐る姿見を見た。



そこには切美が、いや、着物姿の剛が、混乱した表情をうかべて映っていた。すると、急にその表情が艶然としたものに変わった。それと同時に、おさえた手の下で、唇がまたひとりでにもごもごとうごめいた。おどろいて手をはなすと、唇は、ぷはあと息を吐き、また切美の声色で言葉を発した。



「ちょっとやめてよ。苦しいじゃない」



「・・・・・・何なんだよ、これ?」



剛はおびえた顔で姿見を凝視した。鏡の中のその顔は、また艶然とした表情になった。



「何言ってるのよ。あなたが望んだことじゃない。ずっとわたしに会いたかったんでしょう?」



「おまえ誰だよ?」



「切美よ」



「うそだ。切美なんてこの世にはいない。それは、おれの妄想だ」



「いまこうして目の前にいるじゃない」



「そんな」



「あなたがわたしを生みだしてくれたんでしょう。毎晩化粧をして、きれいな服を着せてくれて」



鏡の中の顔が、会話とともに、剛と切美に入れ替わる。気持ちが悪くなって、剛は姿見に背をむけた。すると、唇が不機嫌そうな声を発した。



「失礼だわ、その態度。いやならいいのよ。わたし、消えるから」



「あ、待ってくれ」



剛は宙にむかってあわてて呼び止めた。



「何?」



「ごめん。ちょっと取り乱しちまって。お願いだ。消えないでくれ」



剛は必死で哀願の表情をうかべた。この異常な事態よりも、切美に嫌われることのほうが怖かった。しばらくしてから、唇が勝手に笑みの形にゆがんだ。



「わかればいいのよ」



剛は胸をなでおろした。



「本当にごめん」



「いいのよ。ねえ、それよりも、わたし外に出たいんだけど」



「え?」剛は首を横にふった。「だめだ。そんなの」



「どうして?」



「だって、ひとに見られるだろ」



「いいじゃないせっかくあなたが素敵な着物を買ってくれたんだもの。こんなせまい部屋に閉じこもっているなんて、もったいないわ」



「でも」



「お願い」



濡れたような声でささやかれる。いままで自分が演じていた偽者ではない、本物の切美の声だ。胸が溶けるような心地よさに包まれて、剛はついうなずいてしまった。



「ちょっと、だけだぞ」



「ありがとう」



唇がまた、笑みの形にゆがんだ。




鍵をはずす音におびえながら、剛は玄関のドアをそっと開けた。そして着物といっしょに買った赤い雪駄を履き、足音をたてぬよう気をつけながら、外に出た。アパートの住人に見られたら、どんな噂が立つかわからない。



そのとき、隣の住居のドアがいきおいよくひらかれた。剛はその場に固まった。ドアから出てきた老人は、ゴミ袋を持って、剛には目もくれずに、素早く前を通り過ぎていった。老人の鉄階段を下りる足音を聞きながら、剛は深く息を吐いた。心臓の鼓動が激しい。着物の内側に、汗がにじんでいる。



「さあ、行きましょう」



切美の声にうながされると、剛は覚悟を決めて歩きだした。





駅から電車に乗って、かなり遠くの街へ移動した。知り合いに会わないようにするためだ。



街に出ると、多くの視線が突き刺さった。夕刻の、仕事帰りの人々がたむろする中、ただでさえ着物という服装は目立つものだ。しかもそれを身につけているのは、美男であり、美女であるという、独特な雰囲気を持った人間なのである。すれちがう者は皆、その異様さに目を見張ってしまう。



視線の波を浴びながら、剛は全身を熱くした。女装に対する恥ずかしさと、切美が注目されていることに対する誇らしさが、複雑に入りまじり、頭の中がぼおっとしてきた。



すると、剛の姿勢がだんだんと変化してきた。背筋がのび、歩き方が清楚なものになっていった。緊張してこわばっていた顔から力がぬけ、おちついた表情になった。それはまたもや、剛の意思とは関係なく、ひとりでに起きていた。



切美に全身をのっとられたのだ。



唯一自由な意識の中で、剛はそう思った。



にぎやかな街の様子に感動し、彼女は自分で歩きたくなったのだろう。無理もない。いままでせまいアパートの光景しか知らなかったのだから。剛は最初少し怖かったが、すぐに冷静になった。切美はそのうち身体を返してくれるはずだ。だから心配することはない。剛は切美に対して、同じ身体を共有する者としての信頼感をいだいていた。



やがて、街は夕闇に染まっていった。空は暗い青色になり、まわりの建物の窓という窓から、電灯の明かりがもれた。雀の群れの鳴き声が、上空を通り過ぎる。道路は人間と車で混みあっており、足音と排気音がやかましかった。



歩道の隅を歩く切美は、そんな街の風景のひとつひとつに興奮し、さっきからずっといそがしくまわりを見渡していた。



剛は、意識の中で、そんな切美をかわいいと思った。恥に耐えながら、街に来て正解だった。好きな女のうれしそうな素振りを、意識の中からながめるというのは、普通の恋愛では得られない奇妙な快感があった。外に出なければ、このような体験を味わうことはできなかっただろう。



暗くなるまで街を見物したあと、切美はレストランで夕食をとって、満足げな表情を浮かべてアパートへ帰った。





部屋にもどり、ドアを閉めると、切美はため息をついてつぶやいた。



「ありがとう。楽しかったわ」



すると剛は元どおり、身体を自由に動かせるようになった。雪駄をぬいで廊下にあがり、軽くのびをすると、腕や足にわずかな痛みが走った。長時間、慣れない女らしい動作をつづけたせいで、身体に少し負担をかけたらしい。



「ごめんね。わたしのわがままであちこち連れまわして。つかれたでしょう」



「大丈夫。大丈夫」



「でも、わたしばかり楽しんでたし」



「そんなことないよ。おれも楽しかったから」



「本当?」



「ああ」



剛は部屋にはいると、帯を解こうとした。



「待って」



切美がそれを止めた。



「何?」



「剛君、ちょっと鏡の前に立ってくれない?」



「いいけど、なんで?」



たずねながら、姿見の前に立った。



「今日のお礼がしたいの」



「お礼?」



「うん」少しの間だまってから、切美は低い声でこう聞いた。「ねえ、剛君。わたしってきれいかな?」



「え?」剛は苦笑した。「何をいまさら。そんなの言わなくてもわかるだろ」



「言ってほしいの」



「そんな、恥ずかしいよ」



「お願い。言って」



鏡に映る切美の瞳は、なぜか迫るような眼光をはなっていた。剛はそれに気おされた。



「わかったよ」照れくさそうにつぶやく。「切美はきれいだよ。お世辞じゃなしに、おれがいままで見てきた女の中で一番きれいだ」



「ありがとう」切美は静かに笑みをうかべて、息をひとつつくと、ねばりつくような上目遣いになり、熱っぽい声でささやいた。「ねえ、わたしにさわりたくない?」




「え?」



剛は肩をふるわせた。



「わたしの身体にさわりたくない?」



言葉に誘われるようにして、剛は鏡に映る切美の全身に視線をむけた。



切美の髪、切美の額、切美の眉、切美の目、切美の鼻筋、切美の唇、切美の喉、切美の鎖骨、切美の肩、切美の胸、切美の腹、切美の腰、切美の太腿、切美の脹脛、切美の足の指と爪。



肉体のすべての部位が、自分を呼んでいるような気がして、剛は唾をのんだ。



「さわりたいのね」



切美はうれしそうに言った。



口内がかわくのを感じながら、剛はうなずいた。



「いいわよ。さわらせてあげる」



「でも、どうやって?」



かすれた声で聞く。



「まかせて」



すうっと、剛は身体の感覚がなくなるのを感じた。街にいたときと同じだ。全身を、切美にのっとられた。いや、全身ではない。右手の感覚だけ残っている。右手だけが、剛の意思で動かせる」ようになっている。



意識の中で剛はとまどった。切美はいったい何をしようとしているのか。



「見て」



切美は左手で、着物の裾をそっとつまみあげた。白い片足があらわになった。自分の足ということを完全に忘れて、剛はそれに見とれてしまった。



「さわりたい?」



切美がいたずらっぽく聞いた。首から上ものっとられているので、剛はうなずきたくてもうなずけなかった。返事をしたくても声が出せなかった。それでも欲望を知らせるために唯一うごかせる右手の指を、蜘蛛の足のようにばたつかせた。切美にはそれで伝わったようだった。



「いいわよ。ほら」



右腕がひとりでに動き、剛の右手は切美の太腿に押しつけられた。やわらかい肌に指がめりこんだ。それと同時に、右手の肌だけが異様に紅潮した。むさぼるように、右手は太腿から脹脛、足の先までをいきおいよく這い回った。手のひらににじんだ汗が、足の皮膚にしみこんで、それは這い回った跡ととなり、電灯の光に照らされぬらりと輝いた。やがて右手が太腿の上の方にのぼろうとすると、切美の左手がそれをつかんで足からひきはなした。



「だめ」



切美の左手の中で、剛の右手は不満そうに暴れた。それをやさしくおさえながら、左手は右手を切美の肩の上にのせた。




「次はここ」



切美は帯をゆるめ、着物の襟を広げた。白い胸元がのぞいて、右手はびくんとふるえた。



その反応に切美は微笑み、右手を鎖骨にあてた。右手は今度はゆっくりと忍ぶように、うなじや喉元をなでた。切美の湿っぽい吐息がたまにかかって、手の甲の産毛をそよがせると、右手はくすぐったそうに指をひねった。しばらくしてから、おずおずといった感じで、右手は襟の中に指をさしいれようとした。するとまた、左手がやんわりとそれを止めた。



右手はおとなしくさがり、名残惜しそうに鎖骨をつついた。しかし、さわれそうでさわらせてもらえないという状態は、かえって背徳的な興奮に満ちていた。



剛の右手の感覚は、異常に鋭敏になっていた。胸元を這い回ると、あるはずのない乳房の気配を感じるような気がした。



「次はわたしがさわってあげる」



全身の感覚が急にもとにもどって、剛は前につんのめった。ぼんやりとしていると、いきなり生温かいものが口の中にはいってきた。



右手の人差し指だった。



ひとりでに、口につっこまれたのだ。さっきとの入れ替わりで、右手のみが切美にのっとられていた。人差し指は口の中で舌とからみあった。しょっぱい汗の味がした。人差し指がひきぬかれると、唾液が糸をひいた。唇は、切美の声でささやいた。



「さあ、あなたが気持ちよくなる晩よ。どこをさわってほしい?」



剛は顔を赤らめ、うつむきながら、もてあそんでほしい箇所を口にした。切美の右手は着物を脱がし、剛を全裸にした。そして、剛が口にした箇所のひとつひとつを、なでさすり、もみしだき、時々わしづかみにした。その中でもっとも敏感な箇所を、唾液に濡れた人差し指ではじくと、剛は女のような悲鳴をあげた。



そのあとも剛と切美は、交代しながら互いを愛撫しあった。この不気味な痴戯は、剛が果てつくして立てなくなるまで何度もくりかえされた。






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