君の世界と夜の太陽
ふと空を見上げる。太陽はほとんど沈み、闇が辺りを包み始めていた。僕がいる街を覆う目の粗い網のようなドーム状の巨大な物体。雲の上から街全体を包み、星明かりを隠すかのように機械的な光を放つ。それはある高さまでは透明な壁で補強され、それより上は大気が流れるのを妨げないために目の粗い網だけになっている。そのドーム状の物体は中央の天井部分に閉じた輪があり、輪の周りには大小さまざまな開いた輪がいくつも連なって、神秘的かつ規則的な模様を空に描き出している。夜になるとその輪を描く線からは、機械的で明るい光の流れを見ることができる。その輪を描く曲線を通って、多くの情報が光となって流れているのだ。一際明るい星だけが輝けるこの空は、まるでこの世界の仕組みを示唆しているかのように見える。僕は空を見上げるのをやめて、止まっていた足を再び前に進めた。あらゆる最先端技術の実験台にされているこの街で、僕は外の世界にいる彼女のことを想った。
僕が住むこの街を、他の街の人々は未来都市と呼ぶ。街全体を覆うようにして雲の上から張り巡らされた目の粗い網のような物体、試作超大型ネットワークシステム『フライア』があることがその主な理由だろう。しかし、ここは他の都市とは完全に隔離されていて、この街に生まれてしまえば外の世界へ出ることはできない。唯一外の世界へ通じる地下の物資輸送路も監視が厳しく、一般人はまず近づけない。物資輸送のためのコンテナを積んだ列車の運転手でさえ、外の世界は見たことがないという。
単刀直入に言えば、この未来都市に住んでいる人々は、皆何らかの複雑な事情を持っている。そうでないなら他の都市から隔離などされないし、『試作』超大型ネットワークシステムなどという何が起こるかわからないものの下での生活を強いられることもない。だがその分、経済的な援助は強く推進されていて、ある程度裕福な生活を送れる。
学校からの帰り道の途中、僕は街の外れにある小さな公園に寄り道しようと考えた。晴れた日には、その公園から外の世界が見渡せるのだ。リニアモーターカー停留所でサンドイッチを食べながら、車両の到着を待つ。停留所には五人くらいなら座りきれるベンチがあり、その上にある看板には『新桜公園行き』と表記されていた。
僕がベンチの端にもたれながら車両を待っていると、僕と同じ学校の制服を着たすらりと細く髪の長い女の子が現れ、僕とは反対側のベンチの端に座った。横目で彼女の方を見ると、その視線に気づいたのかその女の子と目が合う。
「どこまで行くんですか?」と僕は尋ねた。制服が同じだったから特に気兼ねはない。髪の長い彼女は驚いたように一瞬だけ目をぱっちりと開き、「新桜公園前までですよ」と答えた。僕は「へえ、奇遇ですね。僕もその公園にいくところです」と言う。
彼女は膝をこちらに向け、「そうなんですか。新桜公園みたい何もない場所に、いったい何をしにいくんですか?」と言った。「外の世界を見るためです」そう僕は答えた。
するとそこへリニアモーターカーが到着し、乗降口の扉が開く。彼女は立ち上がり、スカートの裾を直して車両に乗り込む。僕もそのあとに続く。他に乗客はいない。
通路を挟み、並んで座った僕とその女の子は、さっきの話を続けた。「それで、なぜ外の都市部を見たいのですか?」と彼女は問う。リニアモーターカーが停留所を出発する。少し考えて僕は言った。「付き合っている彼女がいるんです」
しばらく沈黙が流れる。その女の子は何かを言いかけて止めた。僕は「大丈夫です。かなり慣れましたから」と言って笑う。作り笑いには慣れた。
その女の子はためらいながら、「もう、二度と会えないんですよね?」と言った。「そうですね」と僕は言う。そして「また会いたいですね」と続けた。
「私が尋ねるのも変ですが、別れようとは思わないのですか?」とその女の子は言った。僕は「画面越しに文字だけの会話ができるので、大丈夫です」と言った。
SNS。ソーシャルネットワーキングサービス。それが僕と彼女を繋ぐたったひとつの糸だった。
またしばらく沈黙が落ちる。騒音はほぼない。彼女はうつむく。僕もうつむく。
何分かして、僕は沈黙を破った。「街を覆ってるフライアってありますよね?超大型ネットワークシステムとかいう」彼女はうなずいた。
「あれはまだ試作らしいですけど、完成すればこの都市からSNSは消えるそうです。現存するどんなネットワークよりも上質で低コスト、おまけにセキュリティも完璧だとか」と僕は続けた。
その女の子は「それじゃあ、もしもフライアが完成したら」と言い、その先の言葉をいいかけて飲み込む。すかさず僕は「外の世界にいる彼女との連絡手段は途絶えます。フライアが機能するのは、フライアに包まれたこの都市だけですから」と言った。
「もし、全世界の上空をフライアで包み込もうとするとしても、それができるのは何十年も先のことです」と僕は言う。待ち兼ねた沈黙が訪れる。
「ところで、あなたはどうして新桜公園に行くんですか?」僕は不意に問う。その女の子は「家が公園のすぐ近くなんです」と言った。
「なんだか珍しいですね。あの辺りはほとんど住宅がない覚えがあります」と僕は言った。「はい。街の外れから学校へ通うのは大変ですが、外の都市部が見えるので気に入っています」とその女の子は言う。
僕は「じゃあ、行きも帰りもこのリニアには一人で?」と僕は問う。「たまに知らない人が何人か乗り合わせますが、普段は一人きりです。」とその女の子は言った。「その乗り合わせた知らない人が僕だってことだね」と僕は言った。
すると、乗っていたリニアモーターカーが止まった。新桜公園前の停留所に到着したようだ。女の子は、帽子から覗く髪は白いが肌は比較的若々しい老運転手に定期券を見せ、僕は現金を払った。僕たちが降りると、リニアモーターカーはすぐに去っていった。
日は完全に落ち、空自体は夜を迎えていた。だが、フライアを構成する曲線が放つ明かりによって、夜闇は薄暗い程度に留められている。
「今日は見えますかね。外の世界」歩きながら僕は言った。女の子は「晴れているので見えますよ。もしよかったら着いていきますが」と言った。僕は「助かります」と言った。
夜の新桜公園に人はいなかった。桜の木には緑の葉が茂り、風に吹かれてさわさわと音を立てる。
公園にある滑り台をのぼる。頂上の狭いスペースに僕とその女の子はなんとか並んで立った。
その女の子が指で示す方向を見る。ずっと向こう、世界を分断するフライアの先に、その世界はあった。小さな光が集まって、混濁とした流れを作り出している。しかし、その世界もはっきりとは見えない。この世界の本質がいつまでも捉えられないのと同じように。
「あそこに、彼女がいるんですね」とその女の子は言う。僕は答えない。
「会いたい」と僕は言う。その女の子は「一緒に会いに行きましょう。私もあちら側に忘れ物をしたみたいです」と言う。
「忘れ物?」と僕は問う。「忘れ物」とその女の子は言う。「あなたのような人が一緒なら、きっと見つけられる気がします」
三日後の夕方に新桜公園行き停留所で待ち合わせる約束をして、僕たちは別れた。
翌朝僕は、少し太った母と眼鏡をかけて新聞を読む父、そして携帯電話と真剣に睨み合う姉と一緒に、テーブルを囲んで朝食をとっていた。
朝のニュース番組の司会者が、超大型ネットワークシステム『フライア』の最新情報を述べる。
『現在、ネットワークの完全な配備を目指して試験運用が行われているフライアですが、あと一ヶ月弱で正規運用が可能になるということです』とその司会者は言う。それについて顔にシワの多い男が意見をまくし立てる。司会者は相づちを打つ。
一ヶ月弱。それが僕に課せられたタイムリミットなのだろう。長いようでいて、実に短い。僕はみそ汁を口に運ぶ。
すると司会者が、『次のニュースです』と言う。『フライアの補修をしていた工事現場から外の都市部へ脱走しようとしたと見られる三十四歳の男が、フライア逃走の疑いで現行犯逮捕されました』
僕は落胆した。ただ、外の世界へ出たいと思う人が僕以外にもいるという事実は確かなのだ。
制服を着てバッグを片手に、学校へ向かう。空は厚い雲で覆われていて、フライアの天井部分は見えない。いつもより涼しげな風が吹く騒がしい街中を、僕は歩いていた。
もう会えないのだろうか。そう思う。まだ外の世界へ行くことを諦めたわけではない。朝の司会者の声が頭の中を駆け巡る。外の世界へ出られる可能性はゼロではない。しかし、それは限りなくゼロに近い。
不意に携帯電話の通知音が鳴る。見ると、外の世界の彼女から連絡が入っていた。
『おはようございます。そちらの天気はどうですか。こちらは快晴ですよ。今日も頑張りましょう』
僕の中で何かが激しく揺らぐ。重く冷たく、大切な何か。喉の奥で、誰かが叫んだ。
僕は、学校とは反対の方向へ駆け出した。目的地はひとつだった。迷わない。
僕はフライア補修中の工事現場へ到着した。大型の機械が入り乱れる。朝のニュースのこともあってか、警備には隙がない。工事現場からわりと遠くにいるつもりでも、警備員は僕の方をしっかりと見ている。
僕は勇気を持って工事現場に近づく。鼓動は早い。曇り空の下に鳴り響く騒音は、その緊張をより一層かき立てる。
あるところまで踏み入ると、警備員がこちらへ歩いてくる。警戒心を煽らないように、僕はそこで立ち止まる。平静を装う努力はするが、心臓は嘘をつかない。
「君、学校はどうしたんだ」と背が高くがっしりとした体格の警備員が僕を見下ろして問う。視線を合わせると僕は、逆らっても勝ち目はないんだなと悟る。僕は「ちょっと寄り道してるだけです。今朝のニュースを見て、気になって」と言う。
「そうか。ここは関係者以外立ち入り禁止だからな。間違っても外の都市部へ行こうなどと考えるなよ。学校や親御さんに迷惑をかけたくはないだろう」そう警備員は言った。
「少し、話し相手になってもらっていいですか?」と僕は警備員を見上げて問う。背の高い警備員はうなずいた。
「僕が小学生の頃、好きな人がいました。休み時間になっても教室で孤独に過ごしていた僕たちは、自然と惹かれ合ったんだと思います。
ある夏の日、昔あった桜公園、今でいう新桜公園で想いを伝え合いました。恥ずかしい話ですが、小学生ながらにして僕たちは、永遠を誓いました。僕自身、この人とずっと一緒にいようと決めていました。
でも、五年前の春。フライアの試験運用が始まったとき、僕と彼女は永遠に引き裂かれました。僕がフライアの中で、彼女は外。僕の家族がフライア内に入れられた理由は聞かされていません。
ですが運のいいことに、SNS上で互いの連絡先を知ることができました。今日までずっと、画面越しに文字だけの会話を続けています」僕の頬を温かい涙が伝う。涙は止めどなく溢れる。
僕は続けた。「フライアが完成してこの都市が独立すれば、SNSは廃棄され、一般人の外の世界との連絡手段は途絶えます。そうなればもう、僕たちは終わりなんです」
僕は言葉を止めた。工事の騒音が響く。警備員は唐突に言う。「君は何もわかっちゃいないね。そんなの終わらせればいいんだ。いつまでも過去にすがっていたからって、いいことはほとんどない。ぐちぐちとその子を想い続けていたところで、時間の無駄なんだよ。忘れちまいな、そんなもの。」警備員は手で払う仕草をして「学校あるんだろ。ほら、行った行った」と言い残して僕に背を向けた。
込み上げる熱い感情が僕に見える。手に力を込めて押し止めようとするが、抑えきれなかった。
僕は持っていたバッグを高く掲げ、警備員の後頭部めがけて思いっきり打ち付けた。警備員は拍子抜けしたような表情で僕を見たあと、咄嗟に僕を押さえつけた。躍起になっていた僕は抵抗できなかった。全く身動きがとれない。
「こんな奴に想い慕われるなんて、彼女さんも可哀想だな」警備員は強かに言う。僕は抵抗するのをやめた。
警備員への暴行はフライア逃走罪に匹敵するくらいの重罪らしい。外の世界へ出たいという共通の動機があると考えられるからだ。
その事件のあと僕はすぐに地下の薄暗くじめじめした牢に閉じ込められた。僕を牢に放った目付きの悪い男は、「一週間謹慎してるんだな。馬鹿め」と言って牢に錠をかけた。両親と校長が警備隊の長に涙声で謝罪を続ける声が頭の中で繰り返された。
「そうか、君は一週間で済んだのか」ふと後ろから聞こえた声に驚き振り返ると、一人の男が冷たい床に座っていた。暗くてその顔までは見えない。その男は「俺は一年間だ。昨日の夜に、外の都市部に出ようと試みたが、まんまと捕まった」と続けた。
僕は「今朝のニュースに出てましたよ」と言い、「どうしてあなたは外へ出ようとしたのですか?」と尋ねた。その男はしばらく黙り込み、言葉を厳選するようにゆっくりと「フライアの外に愛人がいてね、結婚の約束もしたんだ。だが、五年前にフライアによって阻まれた」と言った。
僕と同じような境遇だと思った。その男は続けた。
「彼らは何もわかっていない。愛だの恋だの語らずに、経済的な援助の恩返しのつもりで真面目に働けとの一点張りだ。話が違うじゃないか。経済的な援助は、フライア建設によるさまざまな障害の代償ではなかったのか。あまりにも自己中心的すぎる」
その男の声が部屋の隅まで響き、そして消えた。その男は「愚痴を聞いてもらってすまないな」と付け加えた。
「いえ、構いません。僕もそう思います」と僕は言った。すると部屋は沈黙する。ずいぶんと長い。僕は自分のしたことを悔やんだ。
沈黙を破ったのは相手の男だった。「ところで君は、どうして外へ出ようしたんだ?」僕は「外へ出ようとはしてないです。例の工事現場で監視していた警備員に苛立って、暴行を加えてしまいした」と言う。
その男は「何かあったんだね」と問う。僕は「はい」と言い、さっき警備員に話したことと同じことを語った。話を聞き終えるとその男は、「なるほど。俺と似ているのかもしれないな」と言った。「フライアが完成する前に、ぜひ君にはその彼女に再会してほしいね。たしか完成予定は一ヶ月ほど後だよな。俺は無理だが、君ならまだ間に合う」
三日目の夜、新桜公園行きの停留所で女の子と会う約束を守れなかった罪悪感に苛まれた。その女の子にはもう二度と会えないかもしれないと思った。とにかく謝りたいと思った。静かな夜だった。
心に重りを抱えたまま一週間が過ぎる。謹慎期間から釈放された僕は一度家に戻り、一緒に牢にいた男から聞いた通りの物品を揃えた。両親には学校へ行ってくると伝えて夕方に家を出る。
「君ならまだ間に合う」そう言って男が教えてくれたのは、唯一外へ出る見込みのある方法だった。男は、「地下の物資輸送路は外の都市部へ繋がっている。それをうまく使うんだ。それと、ある一人の運転手を探せ。そいつなら協力してくれる」と言った。
その男が言った運転手の特徴に、僕は覚えがあった。「白髪のおじいさんで、肌は比較的若々しい。不思議な人だよ」と男は言う。僕が同じ制服の女の子と一緒にリニアモーターカーに乗ったときの運転手だ。顔は覚えていないが、車掌の制服を着ていればわかる。
僕は新桜公園行きの停留所に向かった。
新桜公園行きの停留所は、前と同じように五人くらいなら座りきれるベンチが設置されていたが、そこには誰もいなかった。一人でベンチの端にもたれていると、すぐにリニアモーターカーはやってきた。
乗降口の扉が開く。僕は乗り込む。他に乗客はいない。僕が窓際の座席につくと、車両は動き出した。
窓の外を見ると、夕闇に包まれていく街が平然と後ろへ流れていく。薄紫色の空の下、どれだけの人がフライアを見上げるだろうか。世界を隔てる透明な壁は、それ以上に強固な存在として、僕と彼女との間に立ち塞がっていた。
彼女は今何を考えているだろう。夢の中では何度も会った。僕たちはどこか知らない星にいて、無言のまま遠くの空を見つめ続ける。そよ風が揺らす草原に立ち尽くし、遠くの空に浮かぶ青白い小惑星ヴァナディースを見る。でもその夢では彼女と並んでいるだけで、言葉は交わされない。彼女がどう思いながら僕の隣にいるのかはわからないのだ。
夢の中ではいつでも会える。それがある種の妥協を僕に与えていたのかもしれない。ただ、時が経つにつれて夢の中の彼女の姿は輪郭を失い始めていた。おそらくいつかは、僕の中から彼女という存在は消えてしまうのだろう。それと同じように、彼女の中からも僕という存在は消えてしまうのかもしれない。物理的な距離があることは心の距離があることを示し、物理的な時間の流れがあることは想いの自然な忘却があることを示す。
しかし、もし引き裂かれる運命であったとしても、僕は彼女を想い続ける。輪郭をなくして何か別のものに姿を変えようと、それが彼女であるならば僕は好きでいられる。それくらい強く心に決めたのだ。
ふと、リニアモーターカーが止まる。新桜公園前の停留所に到着したのだ。僕は座席を立つ。
運転手の姿を確認する。間違いない。あの男が言った通り、白髪のおじいさんだ。僕はその運転手のところへ歩く。僕の足音が妙にうるさく響く。
「あの、唐突で悪いのですが、お願いがあります。僕を、外の世界に連れていってもらえませんか?」と僕は言った。二秒の間がある。白髪の運転手は「君は確か、この前女の子と一緒におりましたね」と言う。僕は「そうです。ですが今日は一人です」と言った。
「君たちの会話はすべて聞いております。彼女さんに会いたいのだと察しました。私はそういう青春みたいなのが大好きでありまして。喜んで力になろうと思います」と白髪の運転手は言った。僕はしばらく頭を下げ、相手に見られないようにして泣いた。
「ただ一つ言っておきますが、外の世界に出ること決しては簡単なことではありませんぞ。見つかれば監獄行き、おわかりですね?」と白髪の運転手は言う。僕は涙を拭き、うなずいた。「それがわかっているならよろしい」そう言って白髪の運転手は笑った。夕闇の運転席で、その綺麗な白い歯は一際明るく見えた。誰かが笑っているのを久しぶりに見た気がした。
白髪の運転手は「私にもいろいろ準備がありましてね。決行は一週間後の夜、地下の物資輸送路に入るところのジャンクション前で会いましょう。そこから先へ踏み込めば罪に問われますので、お気をつけて」と言った。僕は「よろしくお願いします」と言って現金を払った。そして牢にいた男に言われた通り、白髪の運転手にサンドイッチを差し入れし、リニアモーターカーを降りた。
新桜公園前停留所。僕は前に来たように、新桜公園の方へ向かった。濃紺色の空と光が流れるフライアの真下を、一人静かに歩く。僕が歩く道は不思議なくらい閑散としていた。
新桜公園に到着する。思っていた通り誰もいない。さわさわと風が桜の葉を揺らす。僕は滑り台をのぼる。頂上の狭いスペースに、今度は一人で立つ。そこから見える景色に変化はない。ひたすら光る街並みが、闇を裂いて僕の目に届く。
無意識に、僕は小惑星ヴァナディースを探す。そういえば、僕はなぜ夢の中に出てきた小惑星をヴァナディースと名付けたのだろう。僕にわからなければ誰にもわからない。そんなことさえ今はわからない。
カラスか何かの大きな鳥が一羽、僕の頭上を通過して外の世界がある方へ飛んでいく。彼らは翼を手に入れて自由になったはずなのに、飛べる空は限られてしまった。鳥はフライアを憎むだろうか。
白髪の運転手に会うまであと一週間。それまでの時間を無駄にはできない。
新桜公園を後にして、僕は歩いて自宅に向かう。光るのを許された星だけが瞬く夜空は、この未来都市を包む。たぶん彼女がいる世界の夜空は、満点の星が輝いているのだろう。
その夜僕は夢を見た。フライア越しに彼女と向き合い、お互いの手を透明な壁越しにくっつけて、フライア沿いに世界を一周する。フライアの天井、光る閉じた輪のちょうど真上には小惑星ヴァナディースが見える。ヴァナディースは真昼の月のように輪郭が白く、彼女もまた輪郭が白かった。
白髪の運転手に再開するまでの間、僕は学校のコンピューターを利用して地下の物資輸送路について調べた。フライア内とその外側を繋ぐ唯一の存在、物資輸送路。監視はフライア内で最も厳しいと言われ、セキュリティも万全で全く入り込む隙がない。僕はその内部構造を頭に叩き込み、もし何かあっても迷わないくらいには、脳内で移動の様子をシミュレートした。また、しばらく調べていると、地下の大きな建造物に魅力を感じるようになった。少し調べておこうくらいの心構えだったものが、次第に趣味に関する知識をつけているような心地になった。建築士も悪くないなとさえ思う。
そんな風にして知識を蓄えている内に、再会の日は訪れようとしていた。
その日は朝から雨だった。しとしとと降り続く雨は地面を黒く染め、普段を反転したような空間を作り出した。街は傘を持つ人で溢れ返り、雨音が普段の音を遮る。曇り空の下にあるすべての色が、いつもと違ってグレーを帯びていた。小鳥の鳴き声が嫌に耳につき、水の滴る濡れた音があらゆる方向から聞こえてくる。
僕は今夜決行される外の世界への脱走の準備を完璧に整え、傘をさして雨の降る街中をあてもなく散歩していた。
行き交う人々は皆怪訝そうな面持ちで、お世辞にも穏やかな日とは思えない。執拗に降りつける雨が何を思っているのかは知らないが、人々が不快になっているのは確かだった。
雨の匂いをかぎながら、僕は大通りを歩く。二本並んだリニアモーターカーの線路の外側に歩道があり、歩道沿いにいろんなジャンルの店舗が軒を連ねる。シャッターを下ろしている店もいくつか見られ、開いている店も客はほとんどいなかった。
雨に濡れたショーウィンドウの中には温もりのある明かりが灯り、空気の冷たさとのギャップが街全体を切なく着飾っている。この悲しげな雨は永遠に降りやまないのではないかとさえ思うほどだった。
僕は空を見上げる。フライアの天井部分は雨雲に隠されて見えない。それが余計に閉塞感を与えるのだろう。街を歩く僕はとても窮屈な思いだった。
適当なカフェを見つけては小一時間ばかり休憩し、その後また散歩に戻る。夕方まではその繰り返しだった。飽きもなければ刺激もない。そんな日だった。
そろそろ物資輸送路に入るジャンクション前に向かおうかと思い始めた頃、雨は少し弱くなった。傘を閉じてリニアモーターカーに乗り込み、目的地を目指す。窓ガラスから見える街は雨に煙り、ぼやけていた。
約束した場所に一番近い停留所で降り、僕は傘を開いてまた歩き出した。
道の途中、薄汚れたびしょ濡れの子猫と会った。無垢な眼差しで僕を見上げるので、僕はゆったり背を低くし、「君には会いたい人はいるかい」と言った。子猫は雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い声で「きい」と鳴いた。僕は「そうか。みんな、それぞれの寂しさと戦っているんだね」と呟いた。
子猫と別れ、再び目的地の方向へ歩く。
ジャンクション。分岐点だ。人生にもいくつかある。どの道へ進むのが正しいかは誰にもわからない。僕の目の前には、外の世界へ続く道と、街の中央へ戻れる道がある。どちらへ進むかはもう決めている。迷っている時間はないのだ。
日が沈み、訪れた夜は光を吸い込む。フライアの曲線が放つ明かりが厚い雲に遮られ、今夜はいつもより暗い。ただ、これが普通の夜なのだとも思う。僕はフライアの輝きに慣れすぎてしまった。
そこへ、ビニール傘をさした白髪の運転手が歩いてきた。「待たせましたかな」と彼は言う。僕は首を横に振る。白髪の運転手はいつもと違う黒い制服に身を包んでいて、顔写真入りの名札を首から提げていた。しかし、暗くてその細部まではよく見えない。
白髪の運転手はポケットから名札のようなものを取り出し、「これを首から提げておいてください」と言って僕に手渡した。僕は言われた通り、それを首から提げる。
彼は傘をさしたまま、照明が灯る物資輸送路への入り口に向かう。僕はそれに続く。入り口に立っている警備員は白髪の運転手の姿を見ると、何も言わずに手で誘導した。
地下へ続く下り坂の通路に入ると、くぐもった生温い音が奥の方から聞こえる。コツコツという白髪の運転手の規則的な足音と、時折濡れた靴底がこすれてキュッと鳴る僕の足音が、オレンジ色の照明に照らされた通路の中でこだまする。
ふと、「一応言っておきますが、外の世界にはあまり期待しない方がよろしいでしょう。外もこちらも、期待外れの塊みたいなところですから」と白髪の運転手は前を向いて歩いたまま言う。僕は「それでも、少しくらいは期待しても構わないですよね」と彼の後ろから言う。白髪の運転手は「そうですね。少しくらいなら」と答える。
「さあ、着きましたよ」と白髪の運転手が言うと、途端に巨大な空間が広がる。彼は「ここが物資輸送の拠点ですよ」と言った。
何本も並ぶ線路の上には、いくつも連結したコンテナ車が停まっていて、各車両の上にはコンテナが置かれていた。従業員はせっせと物資を運び、作業服を着た男たちは車両の点検をしている。天井は高く、目を細めるほどの明かりがその光景を照らしている。この場所について調べていたときに見た写真と実物とでは迫力に大きな差があり、自然と胸が高鳴るのを感じられた。
「出発は一時間後になります。それまで、お茶でもしましょうか」と白髪の運転手は言う。僕はうなずく。
エレベーターに乗って二階へ行き、広々とした休憩室に入る。白髪の運転手は一人分のコーヒーとミルク、シュガー、一杯の緑茶をトレイに乗せて、丸いテーブルに運ぶ。僕たちは、向かい合うようにして座った。
「運転手は乗務前にコーヒーを飲みませんので」と白髪の運転手は言い、コーヒーを僕の方へ寄せた。僕はそれを好みの味に調整し、一口飲んだ。炒りたての深い豆の香りがあった。白髪の運転手は緑茶を音を立ててすすり、ため息をついた。
「やはり、緊張されますかな」と白髪の運転手は問う。僕は「いえ。緊張というよりはむしろ、不思議なくらい落ち着いています」と言った。「そうですか。それはけっこうなことだ」と白髪の運転手は言う。
少し間を置く。自然な間だった。「私の友人も一人、外に住んでいましてな。二度と会えないのはわかっておるのですが、なかなか忘れられないですな」白髪の運転手はそう言う。
「どうしてフライアなんか造ろうと思ったんでしょうね」と僕は呟くように言う。白髪の運転手は少し考える。「昔はどんなことにおいても、コストと性能のバランスが考えられていたんですよ。コストの大きさに性能は比例しますから。ですがこれからの時代、超低コストでありながら超高性能であるのが当たり前になっていくでしょう。特に情報通信をはじめとする工業の分野では、それが顕著に現れます。そんな時代へ踏み込む第一歩が、あのフライアなのだと私は思いますな」と白髪の運転手は言う。
それならば友情や愛情を引き裂いたフライアに、悪役を押し付けるのはいけないことなのだろうか。より発展した世界を創り上げるためには、友や愛などという人間の純粋な心は捨て去らなければならないのだろうか。天秤にかけられてはいけないもの同士が天秤にかけられたとき、正解の出ない問いが生まれる。そんな問いで満ちているのが、この世界なのだろう。
僕がコーヒーを飲み終えると、白髪の運転手は「では、参りましょうか」と言って席を立つ。僕は無言で後を追う。
僕と白髪の運転手は、連結したコンテナ車の先頭、運転席に乗り込む。白髪の運転手によれば、一人くらいの同伴者は許されるらしい。彼は運転席で出発の準備を整える。
僕は白髪の運転手の隣で、彼女にメッセージを送る。もうすぐ使えなくなる予定のSNSだ。『今から会いに行きます』と僕は画面越しに言う。
ものの数分で返信が来る。彼女は『嬉しいです。到着したら連絡をください。街の中心にそびえる電波塔の下で会いましょう』と画面越しに言う。
「外までは少しかかります。眠っていてはどうでしょう」と白髪の運転手は言う。僕は白髪の運転手の隣の席で、目を閉じる。車両が動き出してしばらくすると、僕は深い眠りの底へ沈んだ。
白髪の運転手に肩を叩かれて目を覚ますと、運転席の窓からは眠る前とほとんど変わらない景色が見える。隣の運転席に座る白髪の運転手は「着きましたよ、外の世界への入り口です」と言い、「ここまで来れば、もう外の世界は目前ですぞ」と付け加えた。僕は重たい目をこすり、ある程度はっきりした意識を取り戻す。すると、白髪の運転手は人差し指を立てる。「いいですか。よく聞いてください。この物資輸送の施設からは、とりあえず入るときの逆を辿れば出られます。基本的な施設の構造はフライアの中も外も同じですからな。ですがここで問題が発生いたしましてな。
作業員や私のような運転手が首から名札を提げているのが見えると思います。名札には個人認証のためのICチップが埋め込まれており、それによってその名札の持ち主がフライアの中から来たのか外から来たのかを判断しておるのです。
もちろん、フライアの中から来た者がフライアの外に出ようとすれば警告が出されます。逆も然り。つまり君がここから外の世界へ出るためには、外の世界からここへ来ている作業員の名札を手に入れなければなりません。ここまではわかりますかな?」僕はうなずく。
白髪の運転手は「理解が早くてよろしい」と言って、立てていた人差し指を引っ込めた。「ですがもうひとつ越えなければならない壁がありましてな」と白髪の運転手は言い、今度は腕を組む。僕は黙って耳を傾ける。
白髪の運転手は言う。「顔認証システムです。証明写真は持参していますかな」僕は顔写真を取り出す。「それを名札の顔写真の部分にうまく張り付けなければなりません」と白髪の運転手は言った。僕は「うまく張り付けるって、どういうことですか?」と問う。白髪の運転手は「少しでも規格が違っていたりすると警告に引っ掛かり、その場でアウトです。数ミリのズレも許されないわけですな。この辺は手先の器用さと、警告装置の気分次第です」と言った。「これがまた質の悪い存在でしてな。建物に入るときは顔認証システムは作動しないのですよ。それに気づけないフライア脱走を謀る者たちが、意気揚々と外へ出ようとして警告に引っ掛かるのです」白髪の運転手はそう付け加える。
「話の筋は理解しました。でも、どうやって外の世界からここへ来ている作業員の名札を手に入れるのですか?」と僕は言い、続けて「僕が調べたことによれば、新入作業員を採用するのは一年に一度。名札はそのときの人数分だけ製造されるということらしいです」と言った。白髪の運転手はそれを聞いて笑う。そして「君は私がこれまで培ってきた人脈を馬鹿にしているのかな。フライアによって世界が分離してから五年が経ちますが、私はその何倍も長く生きておりますぞ」と言う。
僕は「もしかして、もうこちら側の名札は確保済みなのですか?」と問う。白髪の運転手は「私の古い友人が、快く引き受けてくれましたぞ。ただ、必ずや目的を達成するという条件付きではございますがな」と言ってまた笑った。
「早速面会いたしましょう。私についてきてください」と白髪の運転手は言う。僕は助手席を降りて彼に続く。
僕が案内されたのは、出発前に時間を潰した場所と同じような広い休憩室だった。
「ほら、あちらです」と白髪の運転手が言って手で示した先にいる作業服姿の男は、丸いテーブルで一人まるで意識を過去に置き忘れたかのように放心していた。僕たちが近寄ると作業服姿の男は椅子から立ち、軽く会釈をした。僕たちはそれを会釈で返す。
「君が例の」と作業服姿の男が言う。男は三十代くらいの優男で、清潔に刈り揃えられた短髪は、彼のすっきりとした顔によく似合っている。身長は高く、作業服の上からでもわかるくらい筋肉質だからか、とても男らしく見えた。
「こんにちは」と僕は言う。白髪の運転手の着席を促す仕草で全員が席につく。
「時間があるわけでもないし、誰かに見られるわけにもいかないから、手短に用を済ませるよ」作業服の男は滑舌よく言う。そして作業服のポケットから名札を取り出し、テーブルの中央に置いた。
「これがあれば君は外に出られるけど、その間僕は外に出られない。だから君にこれを貸す条件は、必ず目標をクリアしてここに帰ってくること。いいね?」と作業服の男は言った。僕は「ありがとうございます」と言い、深く頭を下げた。すると作業服の男は言う。「楽しんでおいでよ。大事な彼女さんなんでしょ?」
僕は顔を上げて力強くうなずいた。
名札を受け取り、僕はすぐに証明写真の切り取りを行う。写真の規格と張り付ける位置の微調整については隣に座る白髪の運転手が教えてくれる。たった一枚の小さな写真を張り付けるために二十分を費やした。
やがて名札は完成する。白髪の運転手が言うように、あとは警告装置の気分次第だ。
僕は名札を首から提げる。二人の協力者にありったけの感謝を伝え、休憩室をあとにする。ここからは僕一人で歩かなければならない。誰かに頼れる時間はもう過ぎ去ったのだ。
外へ続く通路に近づくにつれて、僕の鼓動は高鳴りを増していく。背中を見えない何かに押されて、逃げ出したくなるような感覚と、前へ進むことに恐怖を抱く感覚がかき回される。それは混沌となり、さらなる緊張を生む。
外の光が見えるところまで来た。あとは目の前に続く長い坂道を上りきるだけだ。どこに警告装置があるのかはわからない。もう通りすぎたのか、あるいは一歩前にあるのか、もしくはもう少し先の方にあるのか。知る由もない。僕はただ警告アラームが鳴り出さないことだけを願いながら、一歩一歩を確実に踏みしめる。徐々に光は強くなる。
不意に、僕の全身を強い光が包む。辺りを見回すと、そこは見知らぬ場所だった。僕は沸き上がる興奮を喉の奥に押さえ込む。ついにフライアの外へ辿り着いたのだ。振り返ると、ずっと向こうにフライアが見える。外側からフライアを眺めるのは初めてだった。
外の世界にリニアモーターカーは走っていない。その代わりに様々な形の自動車が、いくつも並んで道の上を駆け巡っていた。僕が立っている場所から直線上のかなり遠いところに、約束の電波塔が見える。
あまり時間はない。完成まで一ヶ月弱と言われていた日から、もう二週間は過ぎている。僕はその場で彼女に連絡をする。『到着しました。電波塔は見えます。会いましょう』と僕はメッセージを送る。返事を待つのもじれったくて、先を急いだ。
人々は町を行き交い、久しく感じていなかった蒸し暑さが全身を包む。照りつける日差しがコンクリートに反射して、直に僕を刺す。蝉はしつこいくらいに空から声を降り注ぎ、あらゆる交通機関が織り成す騒音の多重奏が僕を締め付けた。電波塔まではまだ少しかかる。僕はひたすら前だけを見る。
人が渦巻くこの街で、僕は何を思ったのかふと立ち止まる。そのとき僕の右横を通りすぎていった一人の女の子に、なぜか見覚えがあった。
思わず振り返り、目で追う。間違いない。新桜公園行きの停留所で出会った、同じ制服の髪の長い女の子だ。でも、どうしてあの女の子がフライアの外側を歩いているのかわからなかった。
僕はその女の子に声をかける。「あの、新桜公園行きの停留所で会いませんでしたか?」
その女の子は不機嫌そうな表情で振り返り、少し考えてから「人違いじゃありませんか?」と言う。僕は、あのとき約束を守れなかったことに怒りを持たれているのかと思う。だがその推測はその女の子の服装を見て間違いだとわかる。明らかに制服が違うのだ。
ふと、新桜公園の滑り台の上であの女の子が言った言葉を思い出す。『私もあちら側に忘れ物をしたみたいです』そう言ったはずだ。
忘れ物。僕は閃いて言葉を繋ぐ。「もしかしてあなた、双子ですか?」と僕は問う。その女の子は「私の双子の姉を、知っているんですか?」と問い返す。合点がいく。僕はフライアのある方を指差して「あの中にいて、あなたを探しています」と言った。
その女の子は、ずっと心に秘めてきた言葉を絞り出すように、「会いたい」と言う。僕が彼女に会いたい気持ちと、目の前の女の子が双子の姉に会いたい気持ちが重なる。僕は思った。みんな、会いたい人がいる。
僕はその女の子の手を取り、「行きましょう。ちゃんと会って、たくさん話をしましょう。二度と会えなくなる前に、会いましょう」と言う。僕はその女の子の手を引いて駆け出した。向かう先はフライアの入り口。名札は誰かに借りればいい。僕たちは炎天下をひた走る。日はまだ天高くにいる。
交差点に差しかかる。歩行者用の信号は赤く、信号待ちの人で溢れ返っている。
不意に、一瞬だけ頭が揺れるような感覚に陥る。信号が青に変わる。人々は一斉に移動を始めた。
女の子の手を引いて、人の波を肩で避けながら進む。もう一度、一瞬だけ頭が揺れるような感覚に陥る。目の前から、白いワンピースを着た彼女が歩いてきた。
彼女と目が合い、僕の足は止まる。周囲の人は迷惑そうに僕の方を見るが、気に止めない。五年前とほとんど変わらず、ほんの少し大人びた彼女がそこにいた。
ほぼ反射的に、僕は彼女の方へ一歩踏み出す。彼女の目線が僕の手元に移る。僕は女の子と手を繋いだまま、数秒間彼女を見る。彼女の後ろの方で、青信号が点滅を始める。目に涙を浮かべた彼女は途端に踵を返し、走り出した。青信号の点滅は続く。一緒にいた女の子は無言で僕の手を払い、元来た方向へ歩き出す。横断歩道の真ん中に、僕は一人取り残される。青信号の点滅が終わり、信号は赤に変わる。
僕は白いワンピースの彼女の方へ駆け出した。
やっとの思いで彼女に追い付き、僕は言う。「違う、違うんだ。誤解だよ。僕は君と会えないこの五年間、ずっと君を想い続けてきた」
彼女は「私も、ついさっきまではあなたのことが大好きだった。でも今は違う。来ないで」と言う。僕は「違うんだよ。あの人は何でもない」と言った。
彼女は言う。「いいのよ。今わかったの。この世界に永遠はない。どんなことであれ必ず終わりが来るものなの」僕は言葉を失う。彼女は続ける。「人を愛することはとても難しい。でもね、人から愛され続けることもまた、愛することと同じくらい難しいのね」
短い沈黙が落ちる。僕の影も彼女の影も、とても短い。彼女は僕を見ずに言う。「さようなら」
僕は彼女を追わない。追っても届かない気がした。
炎天直下、僕は物資輸送施設に帰り、名札を返却する。白髪の運転手に何か質問されたが、うまく答えられなかった。運転席に乗り込み、僕の世界へ戻る。僕の世界は雨上がりで、道のいたるところに水たまりができていた。水たまりには空とフライアが映る。
翌日、予定よりも早くフライアの完成が報道された。フライア内で使われていたすべてのSNSがその機能を停止し、超大型ネットーワークシステムの下で新たな情報通信が確立された。
その日僕は夢を見る。僕は小惑星ヴァナディースにいて、彼女はどこかわからない違う星にいた。僕は草原に立って彼女を呼ぶが、その声は届かない。彼女は僕に背中を向けたまま、その白い輪郭を闇に吸い込まれていった。
ふと空を見上げる。太陽はほとんど沈み、闇が辺りを包み始めていた。フライアの天井部分にある閉じた輪は、まるで夜空に浮かぶ太陽のように燦然と輝いている。鉄檻のように冷たい世界で、僕は輝く星にはなれなかった。立ち止まり、空を見上げ続ける。僕はこれからどこへ向かい、何を想えばいいのだろう?