町田日実:会社員
昔は良かった。
具体的には小学生の頃は良かった。
私はそう思う。
別に株価がとか税金がとか群馬県が存在したとかそう言った理由ではない。
私はまだ子供だったからだ。
群馬公立小学校は私の代で栃木公立第七小学校に吸収合併される事が決まっていて、最後の卒業生になった私はそれをとても悲しんだのだけれども、それでも在りし日々は楽しかったのだ。
回想終わり。
「で、ここはどこ何だか……」
授業中、私はそう言った。そう言うしかなかった。
隣の席の子が不思議そうな顔でこちらを見て、ここは学校だよと小声で教えてくれた。
そんな事は知っている。
教室には私の他に二十人程の生徒が授業を受けており、明らかに私が卒業した年の群馬公立小学校よりも生徒が多い。
私が入学した年の全校生徒が三十名、卒業した年には僅か十名。
学年毎のクラスを維持する事は不可能だったのだ。
このクラスはざっと見る限り低学年と高学年が混在したクラスではない様に思える。
一応授業は二つのグループに分けられている様で、黒板に記載された内容を見る限り分数の四則計算と漢字の書き取りに分かれている様だ。
教科くらい統一しろよと言いたい所だが、それ以前に黒板を用いている事が驚きだ。
私が小学生だった頃には一般的だったそれは昨今の学校では見られないと言う。
黒板の代わりに普及した無霧投影機の大手製造メーカーに勤務している私が言うのだから間違いない。
教室の内装もまた私が小学生だった時代に類似している仕様で懐かしさを覚える。
夢なのか、現実なのか。
確かめるのもまた億劫だった。
「……気晴らしにはいいか」
そう思って分数の四則計算に興じる事にした。
何で分数の割り算はひっくり返して掛けるのかを三重先生に聞いた覚えがある。
大人になれば分かるとはぐらかされたが、大人になっても分からない。
三重先生は本来社会科の教師だったのだから仕方ないのだろう。
廃校寸前の群馬公立小学校には教師も足りてなかった。
分数と戯れていると、見覚えは無い教師が私の隣に立っていた。
「どう? 何か分からない所はある?」
三重先生に似ている気もしなくはないが、見た事の無い人だ。
「どうして分数の割り算はひっくり返して掛けるの?」
そんな言葉が口をついて出た。
「それはね、割り算は割られる数を分母と分子を逆にした割る数で掛ける事だからよ」
説明された。でも分からない。
曖昧な返事をした私に対してその教師は微笑みを崩さぬまま、隣の席の子に視線を向けて同じ問い掛けをした。
隣の席の子はわたしてんさいだからだいじょうぶーと答えていた。
子供だ。
名札を見ると南那と言う名札が付いていた。
見覚えの無い苗字だ。なんて読むのだろう?
ミナミナ? ナンナ?
まあ、それでも気晴らしにはいいのかも知れない。
分数と格闘していると授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
何人科の生徒は我先にと教室を飛び出した。
教師がそれを咎めながらも、仕方ないなと言う顔をしていた。
私はと言うと、教科書もノートも広げたまま、教室の探索を開始した。
探索と言っても数分で終わる。
結論から言うと、教室だった。
いや、それは私も分かっているのだが、何の変哲も無い教室で特筆すべき点が無かったので言う事が無かったからだ。
強いて言うなら年代がはっきりとしない位だろうか。
と言っても私は備品を一目見てメーカーや型番や製造時期を即答出来る程博識ではないので、確かな事は何も言えない。
気の向くままに教室を出ようとすると、一人の女の子が声を掛けて来た。
「ひさねちゃん一緒にトイレ行こー」
これもまた懐かしい響きだ。
今の職場は男所帯。望む望まないに関わらずそんな誘いは無い。
快諾の返事をしてその子と一緒に廊下を歩く。
天井には一昔前の照明器具が並んでいる。
窓の外は空しか見えなかった。
身長が当時の高さになっている様で、窓は思いの外高く思えた。
教室に居た時からそうなのだが、天井は高く教室も広く感じる。
思い返せば当時の印象はそんな感じだったのだろうが、大人になった今標準的な教室の広さを知っているからそんな事を思うのだろう。
「ねーねーひさねちゃん、今楽しい?」
そう言えば、この子の名前は何というのだろうか
「さあ……どうなんだろ」
楽しい時は無い訳では無い。
ビール飲んでる時とか、ワイン飲んでる時とか、日本酒飲んでる時とか。
あー、大体酒絡みだ。
「可も無く、不可も無く、かな?」
言いながらその女の子を観察する。
何と言うか美少女だ。
女から見ても美少女だ。
将来男に困らないだろう。
この子が実在するかどうかは知らないけど。
「そうじゃないよ?」
美少女が小首を傾げた。
「今、この瞬間、ここでの今、楽しい?」
そう言って美少女は笑った。
「ねえ? 今楽しい?」
見た感じこの美少女は小学生低学年に見える。
さっきのクラスには居なかった年代の様にも思える。
途端に、この美少女が不気味な何かに思えて来た。
笑顔は自然だ。
昔見た映画のメイキングで、子役に笑わせるのに苦労したと言う話があった事を思いだした。
小さい子供は自然に笑みを作れないと言う話だ。
その記憶の真偽はともかく、私は何と答えれば正解なのだろうか。
色々考えようとしたが、私は思うままを口走っていた。
「楽しくは無いかな。楽しかったのはあの時代で、ここはそう、何か違う」
美少女は無言で私を見ていた。
「でも、懐かしい。久しぶりに、そう、何か癒された。気分は楽かな」
言いたい事は纏まらない。
自分でも混乱した言葉になっていると思う。
「そう……」
美少女は少し寂しそうにそう言った。
「残念」
その後に何か言葉があった気がする。
それを私は聞き取れなかった。
気が付くと美少女はそこに居なかった。
朽ちた廊下が目の前に広がっていた。
日は高い。窓は低い。
「戻って……来た?」
どこに? 現実に。どこから? さあ?
窓の外を見る。
悔しい位の快晴だった。
眼下には緑に浸食された街並みが見えた。
ああ、ここは旧群馬なのだと、直感的にそう悟った。
通称魔窟、或いは魔境。
正式名称は放棄区域。
一般人は進入禁止の地域だが、私は何故ここに居るのだろうか?
疑問は残ったが、何故か心は晴れやかだった。
あの美少女が何だったのかは知らないが、楽しいかと聞かれた。
そう、楽しくないのだ。
私は勘違いしていた。
世界は楽しいと。
でも、楽しくない事を認識した今、明日からも生きて行けると思った。
今思い出した。私は死のうと思ったのだ。
思っただけで行動には移していない。
思ったのは風呂の中だ。
でも、今はそんな思いは無い。
きっとこの学校がそうしてくれたのだろう。
実際どんな意図があったのかは分からないが。
そう、私が楽しいと答えていたら、今ここに居なかったのかも知れない。
さて、そんな事を考えていても仕方がない。
何故なら大きな問題があるからだ。
「……どうやって帰ろう?」
体長二メートルを超える奇形蜻蛉が群れを成して空を飛んでいた。
旧群馬県。そこは人間の領域では無い。
事例報告書
03/03 12:25:22
観測装置が異常なGE値を観測。
03/03 12:30:09
発生源は旧群馬県太田市である事を特定。
03/03 12:50:44
無人探査機一機が高高度より探査開始。
03/03 13:12:10
無人探査機が人間の生体反応を検知。超常現象対応課に自動的に稼働命令。
03/03 15:15:00
特殊探索部隊βがレベルⅡ装備にて放棄区域に侵入。
03/03 19:45:55
特殊探索部隊βとの通信が途絶。
03/03 22:55:36
特殊探索部隊βとの通信が復活。女性一名を保護との連絡。
03/04 00:02:33
特殊探索部隊βが保護した女性を連れて帰還。
03/04 10:35:06
無人探査機が帰投。最高司令が事例終息を宣言。
・損耗状況
喪失者0名。負傷者二名、共に軽傷。
通常弾千七百二十五発、拡散弾十五発、忌避剤十二本消費。
自律支援機二機喪失、一機中破。
装備品の損耗は標準範囲内。
特殊探索部隊β全員の特殊洗浄及び二十四時間の経過観察の結果、汚染が無い事が判明。
全員が任務継続可能と判断された。
・回収品目
女性一名。
後の調査の結果東京都在住、町田日実と判明。
特殊洗浄及び二十四時間の経過観察の結果、汚染が無い事が判明。
各種予備試験によって危険性が無い事が判明した後、尋問を行った。
・尋問録
尋問担当者:結城慶介
結城:事前に説明されていると思いますが、私は超常現象対策課の鈴木と言います。町田さんがあの場所で保護された経緯を報告しなければなりませんので、事実のみを素直に話して下さい。
町田:はい。
結城:では、あの場所に居た経緯を教えて下さい。
町田:(沈黙五秒)私の最後の記憶では、自宅で入浴していたんだと思います。その後気が付いたらあの場所にいました。
結城:移動の経緯を詳しく聞かせて下さい。
町田:経緯(沈黙七秒)経緯と言っても本当に気が付いたらあそこに居て(沈黙六秒)あ、でも変な夢、夢なのかな? 授業を受けていた記憶があります。
結城:授業。(沈黙三秒)町田さんが保護されたのは群馬公立小学校跡でしたね。
町田:はい、私の母校です。気が付くとそこで授業を受けていて、その時私の身体は子供の体格になっていて。
結城:それは、昔の記憶を再体験していた様な物でしょうか?
町田:いえ(沈黙三秒)教室の風景も、クラスメイトも、先生も当時とは違いました。でも、その誰にも覚えが無くて。
結城:そこに居た人物は全て知らない人物だったと。
町田:はい。それで授業を受けて、誘われてトイレに行く途中で、気が付いたら廃校の中に居ました。
結城:(沈黙七秒)そこに居た人物と会話はしましたか?
町田:はい。教員らしき人と、トイレに誘ってくれた年下の女の子の二人と。
結城:内容は覚えていますか?
町田:教員からは何か分からない事があるかって聞かれて、その時分数の割り算を解いていたので、その、分数の割り算は何故ひっくり返して掛けるのかと聞きました。
結城:その回答は?
町田:えっと、すみません、難しい話だったと言う事しか覚えていなくて。
結城:もう一人の女の子とはどんな会話を?
町田:えっと(沈黙十秒)確か楽しいかって聞かれたと思います。
結城:どう答えましたか?
町田:(沈黙十四秒)楽しくないって、答えました。その後女の子は残念って言って、気が付いたら廃校に居て。でもあんまり内容は覚えてないです。
結城:そうですか。最後に町田さんは今どんな感覚ですか? 楽しいとか、落ち込んでいるとか、率直な感覚を教えて下さい。
町田:(沈黙二十二秒)吹っ切れた、かな? 何か、さっぱりした感じです。
結城:(沈黙五秒)そうですか。御協力感謝致します。
・補記
町田日実は追加で二十四時間の経過観察後、各種心理テストにおいて異常が無い事が確認されたので薬物投与による記憶処理を施して解放。
町田日実の無断欠勤に関しては入浴中の心筋梗塞による入院と言う偽装情報が流布された。
町田日実は通常生活に戻るが、観察は継続するものとする。