第7回
あやしいイベントにエントリー済みなのを知らされてから3時間。わたしたちの目の前にいたのは,わたしの両親だった。
まどかさんとは,お互いの健闘を祈って握手して別れた。彼女の店では,いろいろ気まずい思いをしたけど,まだ終わりじゃなかった。もうひとつやっかいなことが,待ちかまえてた。
実は,この日ライブが始まる前から,わたしのスマホの電源は切ってあった。家からの着信がひっきりなしで,うざかったからだ。学校からの電話で模試をさぼったことを知った母さんが激怒してかけてきた,ってすぐわかった。それで,店を出ようとして電源を入れたら,奈津からのメールに気づいた。
そこには,こう書いてあった。「聡子ちゃんのママから電話あったよ。マネージャーさんを連れてすぐに帰ってきなさい,って伝えてほしいって。」
全部ばれてた。当然と言えば当然だ。最近見慣れない服が増えたり,外出が増えたり,チェックの厳しい親ならすぐわかる。
東京から帰る特急のなかで,伯父さんは無言だった。ただ一度わたしが心配そうに横顔を見てたら,「大丈夫だよ。スーツは持ってる。」って言った。かなりずれてるんだけど,いつもの伯父さんだって思って,ちょっと安心した。それで,とりあえず伯父さんの「平常心」に賭けることにした。口先だけで生きてきたようなタイプだ。善良な市民を自認する両親を丸め込むのは,こういうダメ人間かもしれない。
駅に着くと,伯父さんが車のなかで着替えるのを待って,わたしの家に向かった。「決戦」の場所は,ムダに大げさな応接セットがある来客用の部屋だった。2対2で向かい合ってたけど,実際には父さんは戦力外だった。対照的に,明らかに臨戦態勢な母さんは,目をギラギラ光らせてた。
ずっとそうだ。ものごころついたときから,父さんは存在感の薄い人だった。何か言いたそうにしたりするんだけど,結局は母さんに合わせてしまう。もちろん,父さんが我慢してるから離婚しなくて済んでるわけで,わたしたちが特に苦労することもなく生活できてるわけだけど。でも,「公務員だから結婚相手に選んだ」なんて母さんに公言させてるのはどうかと思う。
目の前の二人を見比べて,そんなことを考えながら,わたしは母さんの攻撃をやり過ごしてた。というか,やり過ごす必要なんてなかった。母さんは,わたしなんていないみたいに,伯父さんだけをターゲットに怒りをぶちまけてた。
母さんの興奮を倍増させたのは,ちょっとした誤算だった。スーツを着たら,伯父さんのあやしさがアップしたことだ。派手なスーツじゃないのに,どうしてそうなるのか。なんでもないスーツが人を選ぶことがあるなんて。日頃から制服をきちんと着てないと,面接試験とかでバレる。学校でそう言われるたびうんざりしてるけど,間違ってないかも,なんて思ったほどだ。
それで,伯父さんはというと…サンドバッグ状態っていうんだっけ,もう言われるまま。母さんの言葉にうなずいてるだけだった。とにかく,はじめに簡単に自己紹介した後は,一言もしゃべってなかった。
ちっ。結局ノープランかよ。わたしは,三者懇談の時みたく,キレて場をぶち壊そうと決めた。早く終わらせたかった。だって,また強力な眠気に襲われ始めてたから。
わたしは,ため息をつくと,いすのひじ掛けに体重をかけて立ち上がろうとした。その時だった。
「なるほど。おっしゃりたいことは,わかりました。ですが…」
伯父さんが,やっと口をきいた。わたしは,驚いて横顔を見る。そして,また驚いてしまった。笑ってた。不敵な笑みを浮かべて,伯父さんは続けた。
「失礼ですが,聡子さんの将来が心配,とおっしゃいますが,その『将来』が何十年も先を見据えているようには,どうしても思えないんです。」
「な,ど,どういう意味ですか?私は…」
油断していたと思う。不意の反撃を受けて,母さんは,明らかに慌ててた。父さんは,いかにも困ったという顔で,2人を見比べてる。
「要するに,受験勉強に集中して,偏差値の高い大学に受かって,有名な企業に入る。それが,幸せな人生で,アイドル活動は,その妨げになると。」
伯父さんは,いつもよりちょっと低い声でゆっくりと言った。体勢を立て直そうとして,母さんも必死に返す。
「当たり前です。常識的に考えれば,そう考えるのが当然でしょう。」
「常識ですか。じゃあ,こんな理論があるのは,ご存じですか?高学歴な人ほど幸せを感じにくい,という説を唱えている学者がいるんです。」
「理論?どんな実験をしたか知りませんが,そんなのは一部の極端な人の考えでしょう。実際,高学歴な人のほうが高収入でいい暮らしができる確率が高いはずです。」
「確率ですか。でも,数字で割り切れないのが,感情を持っている人間です。実際,あなたは今たいへん感情的になっておられる。」
そう言って,またにやっと笑う。すっかり伯父さんのペースだった。でも,これくらいで引き下がる母さんじゃなかった。
「感情的にもなりますよ。子どものことですから。失礼ですが,あなた,お子さんはいないでしょう?だから,わからないんですよ,親の気持ちが。」
「はい。未婚子どもなしです。でも,だからわかることも多いんです。こんなことは申し上げたくないのですが,こう見えて,私が卒業したのは,国公立大学で,おそらくあなたがたの出身大学より予備校のランキングでは上だと思います。」
「え?」
母さんの顔色が変わった。中途半端な学歴の持ち主には実は学歴コンプレックスが多い。圭治が,学校の教師たちを見ててそう言ったのを思い出した。
「それが,今は,あなたがたに軽蔑されるような生活をしている。私の大学の同級生にも,せっかく入社した有名企業をあっさり辞めて以後行方不明,なんてヤツもいます。そこまでいかなくても,離職率それに未婚率や離婚率がやたらと高いんです。勉強しかしてこなかった人間なんて,もろいものです。それは…」
なんていうタイミングだろう。ドアが開いて,姉ちゃんが顔を出した。居間に誰もいないのを変に思ったんだと思う。相変わらずよれよれのジャージ姿だった。
「あ。お邪魔してます。夜分すみません。」
伯父さんが軽く腰を浮かして頭を下げた。姉ちゃんが慌ててドアを閉めると,母さんに笑みを見せる。「お姉さんのことも知ってますよ。」表情がそう言ってた。母さんは,頭を抱え込みたい衝動を抑えているようだった。
「ところで,さっきの学者の話ですが…」
伯父さんは,もったいぶるようにちょっと間を取って,わたしのほうを見た。勝利を確信した表情だった。母さんに向き直って続ける。
「私は,小難しい調査とか,検証する手間なんていらないと思います。私も最底辺にいますが,アイドル周辺,だけではなく,サブカルチャーと言われる分野にいる人は,軒並み高学歴です。それだけでも,いかに『普通の暮らし』を退屈に思っているか,おわかりになると思います。」
「でも,勉強は必要でしょう?」
母さんの声には力がなかった。反論の内容も気の毒なくらい幼稚に思えた。
「もちろん。でも,やりたいことを我慢して机に向かっても,効率は上がりません。それどころか,余計なことばかり考えて,自分の世界に閉じこもったりするようになる。知識が人を孤独にすることもあるんです。」
「と,とにかく,娘がわけのわからない男性に変な目で見られるだけでも耐えられないんですよ,親としては。」
「そう。そうなんです。そのこともお話しようと思っていたんです。思い出させてくれて,ありがとうございます。」
伯父さんは,ぺこりと頭を下げた。憎らしいほど見事,としか言いようがなかった。いちいち先回りして母さんの反論をつぶしていく。父さんを見ると,ちょっと笑ったように見えた。でも,わたしの視線に気づいて,すぐ表情を引き締めた。
「オタクと呼ばれる人たちですね。でも,考えてみてください。彼らは,頻繁にライブに来て,グッズを買っている。それなりの仕事をしていて,経済力もないと,そんな生活は続けられません。」
母さんは必死に言葉を探してるみたいだった。もう伯父さんのドクダンジョウになっていた。
「それに,以前こんなことがありました。オタクに人気のある女性タレントが,テレビで過去の恋愛遍歴を赤裸々に語ったんです。当然,ネットは大荒れと思ったら,ね。」
伯父さんがいきなり話を振ってきた。わたしにも発言させてくれようとしてる,とわかった。
「それ,覚えてます。でも,ネットでは,擁護する人もけっこういたんですよね。なかには,『高校時代やりたいこともできなかったヤツには最低の人生が待ってる』なんて書き込みもあったりして。」
こんなもんでいいかな?わたしは探るように上目遣いで見た。伯父さんは,満足げにうなずいて続けた。
「昔は,今よりずっと勉強するようにという親からのプレッシャーがきつかったですよね。でも,いろいろ犠牲にした割に,手に入れた生活では幸福を感じられない人もいる。彼らのなかにも後悔でやりきれない気持ちを抱えて,アイドルのライブやメイドカフェに集まってくる者が少なくないんです。もう過ぎてしまった年月は取り戻しようがありません。だから,やりたかった青春を疑似体験して紛らわせるわけです。ですが,疑似は疑似,根本的な解決にはなりません。だから,いつまで経っても終わらないんです。それで,いつでも学園祭やってるみたいな場所から離れられないわけです。」
「でも,聡子がそうなるとは限らないでしょう。アイドルにならなくても後悔しない人生だってあるはずです,きっと。」
これだけ大差になっても,まだあきらめない。我が母ながら恥ずかしいくらいオウジョウギワが悪かった。
「聡子さんは後悔します。間違いなく。」
きっぱりと即答した。 伯父さんは,ちょっと母さんを見下ろすように背を伸ばした。有り余るほどの自信を見て,あんたが教祖やれよ,と思ったほどだ。それに比べたら…どれだけ残っていたのかわからない。プライドのカケラが母さんを動かしていた。
「お,親でも姉妹でもないのに,なぜそんなことが…」
「先ほど大学の友人の話をしましたが,わたしは,高校時代で人生が決まるって思ってるんです。だいたい大学時代に会ったヤツはわかるんです。まともに就職して家庭を大事にする人生を歩むか,端から見たらしょうもない人生を歩むか。そして,それは,だいたい
その通りになります。そういう見方をすれば,お嬢さんは,間違いなく後悔に苦しめられる人生になるはずです。」
母さんは黙り込んだ。わたしは想像してみた。アラフォー?になったわたしが,テレビで歌っている若いタレントを見て舌打ちしている。昔のわたしのほうが,かわいくて歌も上手かった,とか言いながら。で,隣には,相変わらずジャージ姿の姉ちゃんが…。母さんの頭にも同じような映像が浮かんでいたかもしれない。
「ところで,お母様,なぜ私が聡子さんを選んだかおわかりになりますか?」
驚いて伯父さんを見た。突然だった。わたしもそんなこと聞いてない。圭治の元カノで共通の話題があるから声をかけやすかった,くらいに思ってた。もちろん,父さんも母さんも答えられない。わたしをじっと見てるだけだった。十分に時間を取ってから,伯父さんが,助けに入るように,自分で答えた。
「当然,キャラクターがおもしろい,というのはあります。聡子さんは,人と違った角度から物事を考えられる。それから,少数派であることを隠そうとしない。明るくニコニコしてる子だけがもてはやされる時代は終わりました。少し影があるほうが魅力的に見えたりします。実際,人気グループのメンバーにも,過去にいじめられたり,ひきこもったりした経験がある子もいます。」
アイドルなのにルックスにはふれなかった。特にかわいいってわけじゃない。自分でもわかってたけど。まあいい。きれいな子だけがもてはやされる時代じゃない,のも事実だ。
「それに,もうひとつ大事なことがあるんです。それは,とても冷静で現実的だということです。ブームはいつか終わることがちゃんとわかってるんです。だから,アイドルでやっていけそうになくなった時,正しい判断が下せるはずです。実際,就職が決まってアイドルを引退した子もいます。ここまでお話すればもうおわかりだと思いますが,もちろん,下手に青春をこじらせなかったら,の話です。青春って…」
父さんと母さんが,びくっと背を伸ばした。伯父さんが急に吹き出したからだ。わたしも,驚いて顔をのぞき込む。伯父さんは,また真顔になって,軽く頭を下げた。
「あっ。失礼しました。いい歳して,おかしいですよね。でも,青春をなめてはいけないんです。私の母は,高校生の私にこう言いました。『死ぬ気で勉強したって,たかが3年でしょ。』そうですね,確かに3年は,人生のほんの一部,と言えなくもありません。でも,『たかが』で済ませない人間もいるんです。間違いなく母は思っています。『こんなに引きずるとは思わなかった。』って。それがわかった時には手遅れでしたけどね。それに,こういう状況は,私だけじゃありません。友人の親御さんも同じようなものです。孫を抱くこともできない。それどころか,近い将来は無縁仏,なんて話も珍しくないんです。」
伯父さんは,また自分の言葉の効果を確かめるように間を置いた。でも,そんな必要はなかった。もう母さんの心は,すっかり折れてるみたいだった。うつろな目で伯父さんを見てるだけだ。
「さて。もう夜も遅くなりました。」
そう言って,伯父さんは,腕時計をちらっと見た。壁の時計を見てみたら,もう12時近かった。伯父さんは,ちょっと身を乗り出すようにすると,母さんの目を真っ直ぐに見た。
「そろそろはっきりさせませんか。大事なのは,数年後のお嬢さんですか,それとも数十年後のお嬢さんですか?」
伯父さんがどこまで本気で話したのかはわからない。でも,ひとつわかったことがある。エリートはつまらない。でも,ドロップアウトしたエリートはかなりおもしろいってことだ。