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プロローグ

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)…推古15年(607年)

これは、『日本書紀』及び『隋書』俀國伝に記された、第1回遣隋使である小野妹子らが持参した国書である。

これは、日本国側が記録した、『正史』での最古の国際外交文書である。

だが、大陸側の記録は違う。

日本国について、初めて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、記録に残る最古の国際外交文書は、『後漢書』「東夷傳」に記された、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす)である。

また、「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う)という記録があり、その後の継続性を窺える。


つまり、『日本書紀』に記された、聖徳太子の指示による初めての国際外交文書は、日本国にとっては初めての国際外交文書であるが、実は大陸側にとっては初めてではない。

これはどういった事だろうか。

答えは簡単である。

当時の大和王権にとっては初めての国使の派遣であるが、日本にとっては、初めてではない事を意味する。

では、正史に記されていない、建武中元二年(西暦57年)に国使を送った為政者は誰か。

正史とは、歴史において、常に勝者が自身の正当性を主張する為に書く物である。『記紀』に記録がない以上、大陸側が記した『倭奴國』とは、大和王権で無い。

つまり、西暦57年に国使を送った王権と、大和王権は継続性の無い別の王朝と言える。

少なくても、『古事記』『日本書紀』を記す事を指示した政権ではない。


これは、歴史の闇に葬られた、忘れられた王朝の物語である。

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