002
病室の中から透き通った声で中へ入るよう促す声が聞こえた。俺はそれに従い病室の中へと進入する。
それなりの広さがある個室だ。テレビ、インターネット完備。エアコン完備。病室からの眺めも良い。この病室を借りれば良い値段をするだろう病室だ。
ただし、ここが病室であり、個室であるということは生前の容態は思わしくなかったのだろう。これは勝手な想像だが。
「いらっしゃい泰介さん」
病室に入るとこの部屋の住人であるところの笠倉舞の姿が目に映る。白いパジャマを着た、見た目まだ高校生の少女だ。
「おう」
ここが病室である限り本来ならば俺は何かしら見舞いの品を持ってくるべきなのだろうが、ここは死者の世界だ。生前の容態がどうであったにしろ、今の笠倉はなんの不自由もない元気な状態だ。死者なのに元気だなんて、俺はこの世界は矛盾すら溢れているのだと思った。
笠倉舞。享年十六歳。幼少より体が不自由で入院生活。歩く事もままならないまま病室で勉強をし、高校に入れたは良いがやはり退院の目処が立たず、あえなく退学。ほどなくして容態が悪化し、結局、ただの一度も己の足で地を踏めずに世を去った。
「死んでから初めて歩けるようになって、私が生きていた意味なんてあったのかなあなんて思ってた」
と、初めて会ったときに笠倉はそう言った。
この世界はイメージさえできればなんでもできる。笠倉は死後、歩ける自分をイメージすることで歩行が可能になった。死後初めて、自分の足で歩けるようになった。
「同情なんていらないよ」
笠倉はそう言ったが、俺はやはり、かわいそうだと思った。もう死んでいる人間にかわいそうなんて、思う方がどうかしている。俺自身が死んでいるのだから。
「あーあ、やっぱり退屈だなあ。ねえねえ泰介さん。やっぱり今日も散歩でしょ? 私も連れてってよ」
病院で生活をしていた少女だ。俺は笠倉はそれほど活発な人間ではないのだと思っていたがそうではないらしい。俺がこの世界にやってきた時からどこへ行くにも俺や恭介を連れまわすので、この娘は本当に病弱だったのかと疑ってしまった。むしろ死ぬ要素が見当たらない。こんな娘を死ぬ運命に遭わせるくらいなのだから、神様というのはやはり人間の味方では決してないだろう。
「いつもどっか行ってるじゃねえか」
「そうだけどね。日々をただ過ごすだけじゃ、そう、ただ死んでいるだけじゃ退屈なのよ」
「そりゃそうなんだけどな。それにしたってここには刺激が少なすぎる」
イメージには限界があるしな。例えやりたいゲームソフトがあったところで、内容全てをイメージできなきゃプレイはままならない。
「それじゃあ先生の所へ遊びに行こう。あの先生なら何かできるよ、きっと」
先生というのは襟山麓という科学者だ。科学者なのだから頭が良くて想像力もとい創造力がある。その上、何かしら面白い実験をしてくれると暇つぶしにもなる。つまり笠倉はそう言いたいらしい。
「実験ねえ。そういやあのおっさんが何の研究者か知らないな」
「丁度いいじゃん。行こうよ」
正直俺は科学者ほど信用できない人種はないと思っているし嫌いだが、ここは死者の世界。何も思うまい。という訳で俺たちは襟山のいる研究所、即ち襟山の記憶より創られた共有スペースへと向かう事にした。
研究所へ行くには一旦恭介の部屋を通過して駅前広間に出てからでなければ行けないため、俺たちは恭介の部屋へ入る。
「やあ舞ちゃん、お出かけかい?」
「うん。ちょっと先生のところに。恭介さんも一緒に行く?」
笠倉の問いに恭介は暫し考えた後、断った。
「いや、俺あの人なんか苦手だし、別に良いや」
すまないね、と恭介は一言だけ謝り、俺たちは部屋を後にする。
この部屋を出ると地下鉄へと続く、或いは広場へと続く階段だ。階段を上り駅前広場へと出る。
「うーん、相変わらず人の姿がないねえ。死者の世界っていうくらいだからここには死んだ人がそれこそ何十万人とうごめいていても良いと思うんだけど」
「そんなに居たら敵わねえよ」
「でも一日に何万人もの人間が死んでるのに、ここには十人しか住んでいないんだよ?」
確かにそうだ。それも死後の世界におけるルールの一つなのかは知らないが、とにかく十人。少なすぎる気がする。
「死後の世界ってのがここ以外にもあるのかもしれないな。一つの世界で定員が十人、か。確かに違和感はあるが」
「それも結構ご近所の人しか集まってないしね」
ご近所? 俺や笠倉、或いは恭介がご近所だって?
「知らなかった? ほら、ここの広場から私が入院してた病院見えるんだよ?」
笠倉が指し示した方向には病院があった。
「だが、病室なんてどこも似たようなもんだろう。病院の外見からお前が居た病院だなんて判断つくかよ」
「えー、気付いてると思ってたんだけど。泰介さんて意外に鈍いのね」
「どういうことだよ」
「……私の病室の窓からこの広場見えるんだよ? この世界の地理ではあの病室は地下に位置するけど、あの病室から見える街のイメージは生前のままなの」
全く気付かなかった。あの病室に入るたびに賑わう街を見下ろしていたのになんてザマだ。あの病室は確かに本来地下鉄が存在するはずの高さにあるのだが、病室から見える景色のイメージがずっと地下であるはずがないのだった。
「私にとって、病室から眺める景色はああいうものなの。あの賑わいが当たり前で、地下を見たこともない私が地下をイメージできるわけないじゃん」
「それはそうだな……」
「それに、あの病室から泰介さんが歌っている姿も見たことあるよ」
「そうなのか?」
「うん。生前何度か見て、あー、あの人またいるよーって話してたこともあるし。視力は良かったのよね、私。だからそのイメージがこっちでも残っているみたいで、日によって居る時と居ない時があるよ」
今こうしてここに立っている自分とは違うイメージに依る自分がそこに居るというのはなんとも言えない感覚だった。今度笠倉の病室を訪ねた時に見てみよう。
俺たちは襟山の居る研究所を目指して歩き出す。この広場は結構な広さまで再現されているため、それなりに歩いていく事になる。
「で、なんだっけ。そうそう、ここの皆がご近所さんという話。恭介さんはどこに住んでるのかは分からないけどこの広場のこと詳しいし、病院の事も詳しい。明里ちゃんやコウくんが居る公園も、この広場からちょっと行ったところの公園でしょ?」
そういえばそんな気もする。今でこそその公園は変な場所にあるが、本来、つまり生前の記憶ではあの公園はこの広場を北に行った住宅街にあったはず。
「同様に先生の研究所、悦子さんの大学、ジュディとマリーの河川敷も、あと雛ちゃんの場所だと思うけど、あのおっきな屋敷も全部この広場の近くにあったじゃない」
思えばそうだ。どこも見覚えのある場所だった。どうして今まで気付かなかったんだろう。ともあれ、それぞれにとってそれぞれの縁のある場所が生前においてこうも密集しているというのは不思議だった。ともすれば、俺たちは生前に知り合っていてもおかしくはない程度の距離に住んでいたのだ。言葉通りのご近所さんという程の近さではないけれど、それでも近い位置に住んでいた。構築された縁の場所が本人の家ではないため、実際の家と家ではやはり距離が開くだろうが、それでも近く、だ。
「まさか神様がそんな変な気を遣ってくれたってか?」
「それは無いと思う。だったら先に死んだ爺ちゃんとか居てもよくない?」
ああ、そうか。そういえば。
「ここに住んでる連中って、皆十代から三十代なんだな。ジュディとマリーは年教えてくれねえけどどう見たって二十代だろうし。唯一三十代の襟山のおっさんが三十八か」
「年齢ばらばらに見えて結構近いよね、私たち。先生以外は」
年齢が近いというのは単なる偶然だろうか。ふむ、ここまで考えていると、この世界に集まった死者たちになんらかの共通点を見出せそうだ。見出したところで意味はないような気もするが。
「死者の世界も意外と深いですねえ泰介さん」
「そうみたいだな」
単純に見えて複雑な、それでいて、まだ俺たちの把握していないルールが存在しているようだ。それもまた、おいおい理解していくしかない。少なくともこの世界に居る間はそのルールに従わねばならないし。どこの世界も、秩序が乱されれば世界として成り立たなくなるのだから。
広場を北に歩いていくと、生前ではそこに住宅街が存在していた。死後の世界ではうってかわって、広場のどこかが境界線となり、いつの間にか景色が一変する。空は太陽が沈みかけて夕方。体感ではまだ午前のはずだが、この世界に朝昼晩の概念はなく、この辺りはずっと夕方だ。
ここはいわゆる工業団地の一角だ。右も左も何かの工場があって、突き当たりに襟山の研究所が建っている。この研究所は住人が自由に行き来できる共有スペースであるにも関わらず、何分元々が研究所だった故に、勝手知ったる人の家という訳には行かない。
門に鍵が掛かっているのだ。研究員でなければ外からは開けられない仕組みなのだ。
「面倒な共有スペースだこと」
「こればっかりは仕方ないんじゃない?」
「共有のキーくらいイメージで作れねえのかね」
「どうなんだろ」
できるならとっくにやってるか。
というわけで、研究所に入るには門に備えられているインターホンを押して襟山を呼ばなくてはならない。なんでここだけ生前と同じことしなきゃならないんだと思いながらボタンを押す。
「……はい」
と、暫くして声が聞こえた。
「どなたでしょう」
「どなたも何もねえよ」
そもそにここを訪ねる人間は他の住人にはあまり居ない。
「ああ、君らね。まあ、別に聞かなくたってカメラ付いてるんだから分かるだろ、っていうツッコミを期待していたわけじゃあないんだよ」
「いいからさっさと開けろよ」
恭介並にいい加減なおっさんである。はいはい、と返事をしてから門のロックを解除する。この門は研究所内からの操作で開閉する仕組みで、生前は必ず中に誰かが居るようになっていたらしい。因みに、この門は暫くすると自動でしまり、これまた自動でロックされる。ロックの解除は研究所内でしか行えないということは即ち、今研究所に一人で住んでいる襟山は一度外へ出るとその日は二度と中へは入れない。一日のサイクルが終了すれば襟山の一日は研究所の中から始まるため、一生戻れないという訳ではないのが救いだ。
研究所の中に入ると早速襟山が出迎えてくれた。歳は三十八歳。男性。生前は研究者で死因は不明。本人が語りたがらないのだ。
「よく来たね。今日はデートかい?」
「仮にデートだろうがこんな場所にわざわざこねえよ」
つくづく冗談好きなおっさんである。
「まあいいさ。僕の部屋へどうぞ」
この研究所内は襟山の記憶で構成されている。どうやら襟山の生前のテリトリーは広かったらしく、この研究所内のほとんどが再現されているらしい。襟山の記憶力が良かったのか、細かい機器や器具なんかも再現されているため、襟山の案内が無ければこの研究所内を自由に歩くには慣れが必要だ。
「ほいっとな」
ご丁寧に襟山本人の専用ラボのロックまで再現されている。襟山がカードキーを使ってそのロックを解除し、俺たちは部屋に入る。
「汚いところだがゆっくりしていきなさい。どうせ単なる暇つぶしで来たんだろう?」
「うん。それ以外にすることないし」
何度も言うが死後の世界は本当に退屈なのだ。
「だろうねえ。僕も退屈だよ。生前にしていた研究も、結果が分からないのだから続けようもないしね。かといって、昔やった研究とか細かい実験とかは繰り返すと飽きてくるし」
「飽くなき探究心が研究者の特技みたいなもんなんじゃねえのか」
「と、言ってもねえ。それは未知なるモノに遭遇したときの喜びだよ。既知なるモノに探究心をめぐらせたって時間の無駄さ」
それこそ一分一秒が惜しい研究者にとってはね、と襟山は答えた。生前がそういうものであったため、ここでも既存の実験をする意欲がわかないらしい。
「んー、でも今日は私たち、その既知なるモノを見にやってきたんだよ?」
「つまり、私になにか実験をして見せろと?」
物分りの早い襟山だった。というか予想が付いていたらしい。
「そう言うと思ってね。簡単な実験を用意してみた」
襟山がそういうと、実験台にはいくつかの実験器具が現れた。
「イメージするだけで準備が整うなんて便利だね」
なんて襟山は言うが、既に死んでいるのだからあまりにも意味がなさすぎた。
「それで、どんな実験なんだ?」
「べっこう飴だよ。懐かしいだろう?」
べっこう飴とはなんだったかな……。
「あー、なんか小学校の理科とかでやるやつ?」
「そうそう。一部では似たような実験としてカルメ焼きなんかをやる学校もあるね。まああれは、アルコールランプの使い方を学ぶためにあるような実験だし、どっちでも同じようなもんだと僕は思うけどね」
俺はカルメ焼きだったな。もちろん、ちゃんと作れたことなどないが。意外とタイミングが難しいような気がする。
「いきなり専門的な実験ではつまらないだろう? まあ初心に帰るのも悪くはない」
そういって襟山は実験台に並べられた器具を用意する。
「それにしてもべっこう飴って……」
「いいじゃん。新鮮だし」
笠倉はなんだかわくわくしていた。そうか、もしかしたら笠倉はべっこう飴の実験、いや、それ以外のどんな実験だってやったことがないのかもしれない。そうであれば、例え小学生レベルの実験であっても新鮮に感じるのも無理はないか。
「それじゃあ始めよう。まずアルミケースに砂糖を入れる。分量は小さじニ杯分だ。だいたいでいいよ」
俺たちは言われたとおりにする。
「次にこのピペットで正確に二ミリリットルの水を計って入れてくれ」
ピペットは細長く、メモリが振ってある。
「このゴムをピペットの上につけて、ここを押すと吸い、ここを押すと出す。持ち方はこうだ。一番上の線まで吸い、一番下の線まで出せば丁度二ミリリットルになるように作られている」
襟山は手際よくピペットの操作をした。
「でも俺、こんなピペットは使ったことがないぞ」
「そうだろうね。これはちゃんとした実験に使うピペットだからね。割れやすいし、小学校では使わないだろう」
ふむ。ここは研究所だし、子供用の簡単なピペットは置いていないと、そういうことか。
「うーん、難しいなあ。メモリに合わせるのって結構大変だね」
「液体には表面張力というものがあるのは知っているよね。吸い上げたとき、水の表面のへこんだ部分の底を線に合わせるんだ」
「……おい、どこが簡単な実験なんだ」
すぐ慣れるさ、と襟山は言う。俺はピペットを目の高さにあわせて水を吸い上げて線に合わせようとするが、どうしてもオーバーしてしまう。
「一回オーバーさせてからゆっくり出して合わせたほうが楽だよ」
襟山からアドバイスを貰い、俺はようやく二ミリリットル計り、砂糖の上に零す。これも一番下の線までゆっくり出していく。
「ふむ、上出来だね」
「ふう」
なんでべっこう飴を作るくらいでこんな面倒なことをしているんだろうか。
一方、笠倉の方も苦戦していた。
「むー。理科の実験がこんなにも難しいとは知らなかった」
「いや、これは実験自体の難しさじゃないだろう」
「いやでも、病院では結構勉強してたからイメージしやすいかと思ってたんだけど。やっぱり全然違うなあ」
「そんなもんか」
理科の実験程度でなにを難しそうな顔をしているのやら。笠倉は行動力もあるが、こうして考え込むという癖も持ち合せているようだ。まあ、長年、人生の半分どころか四分の三ほど病院に居た笠倉のことだ、退屈を紛らわすための勉強と思考しかすることがほとんど無かった状態だったのだろう。
「お、できた」
「水を入れるだけだからねえ。さて、これで砂糖が溶けたのが分かるだろう? 後は熱するだけという単純な作業になる」
襟山は三脚に石綿付き網を載せてその上に砂糖水が入ったアルミケースをのせる。その下にアルコールランプを設置して火をつける。
「これだけだ。あとは色が変わってくるから、そしたら火を消して網からおろして冷ますだけ。簡単だろう?」
「さっきの苦労はなんだったんだ?」
「いやあ別に。本来ならあんなことをする必要もないのだけどね。ただ、君たちが興味本位で実験を見せてくれと言ったのだから、それ相応の知識くらいは身に付けてから帰って欲しくてね。一応これでも科学者だからさ」
「それがあのピペット操作か」
「まあね。あれもまだまだ簡単な、というより、基本の基本なんだけどね」
科学者にとっては、ね。俺たちにとってはあんな単純な操作にも慣れるまでに多少の時間が必要らしい。
そうして適当に会話をしている内に砂糖水の色が黄色くなってきた。襟山は手際よくアルミケースを実験台に乗せる。
「あとは冷まして剥がせば完成だ」
「んー。あんまり驚くような実験じゃなかったなあ」
「実験と言うにはあまりにも稚拙だね。だが多くの科学者にとってはこういった単純な実験こそ大事なんだと僕は思うよ」
基本が大事だと言う事か。
「それで、おっさんはこの実験で何か得るものがあったか」
「特に何も無いね」
襟山は即答した。そんなんでいいのかと俺は思ったが、
「いやあ、何を感じればいいのかが分からないよ。流石に簡単すぎたな、反省反省」
むしろそれが教訓なんじゃないかというような事を言った襟山だった。
その後、完全に冷めたべっこう飴を俺たちは味わったが、それはただ甘いだけの飴なので、素直にまずいと口にした。本来なら片付けという行為が必要だが、やはりそれはイメージによって片が付くため不要だ。
「こんなものでも多少なり時間は潰せただろう。君らはこれからどうするつもりだい?」
「うん。それはこれから考えようかと思う。じゃあ先生、今日はありがとう、また来るね」
俺たちは襟山に別れを告げ、研究所を後にする。本日はまだ二時間ほどしか経過していない。
生前の俺たちには睡眠時間というのが存在し、二十四時間フルで活動をするということは少なかったが、この世界は午前零時に終わり午前零時に始まる世界だ。その上俺たちに睡眠は必要ない。ともなれば二十四時間、この世界が正しく二十四時間であるのかは分からないが、いずれにしろ、生前よりは長い時間の活動が可能だ。
故に、残り二十二時間ほど暇な時間ができる。俺たちは次なる暇つぶしを模索しながら駅前広場を目指した。