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日常


キミを失ったとき、心の底から絶望した。

たったひとつの希望であり

唯一、自分がまともだと思わせてくれる居場所だった。


なのに、どこかで安堵している自分がいた。

自分に吐き気がした。


***

十二月二日水曜日午後六時過ぎ。

仕事終わりの一杯だった。

互いの勤務先から程近い『Café Segredo』で向かい合って座る男女二人の間には、食べ終えたケーキの皿が一つと、冷めたコーヒーが二つ置かれていた。


 ここのコーヒーの値段は決して安くないが、それ以上のうまさがあった。常連と呼べるほどではないものの、月に数度は足を運んでいる。

「ストーカーも懲りないわねぇ」

コーヒーの味と不釣り合いな物騒な話題を除けば、優雅なティータイムだった。

 先ほどケーキを食べ終えた藤川響-フジカワ ヒビキ-は、コーヒーをすすり、やれやれと言いたげにため息を吐いた。逆の手にはスマートフォンが握られており、バイブレーションが震えている。美散は相槌代わりに曖昧な声を漏らしながら店内へ視線を巡らせる。

 

 この店を生み出した創業者は、三か月前に殺された。犯人は未だに検挙されていない。もっとも、三か月も経てば客も従業員も日常を取り戻しているらしい。店内は学生のカップルや、女性同のグループ、仕事帰りの人たちで賑わっていた。

 ふとレジ横に並ぶコーヒーの袋が目に入り、宇良木美散-ウラギ ミチル-は家のコーヒーが切れかけていたことを思い出した。帰りに一袋買っていくか。そう思い、ようやく意識を彼女へ戻す。

「まだ続いているのか?」

美散の注意が別のところへ向いていたことに気付いていても、響は特段気にした様子もなく、「えぇ」と頷きながら、カップを円を描くようにゆっくりと回した。

「今までの人たちは、私に恋人がいるって分かると大体いなくなったんだけど」響は苦笑した。

「今回はしぶといわね」

声には不満が滲んでいたが、深刻に悩んでいる様子はなかった。どちらかといえば、呆れているように見える。

「実害は?」

「それがね、目立ったことはされてないの」

響はコーヒーをコースターに戻し、少し身を乗り出した。少し勢いがあったのか食器の触れる音が少し大きく感じた。

「待ち伏せされたり、変な写真を送られてきたりってことはないの。ただ、こうやって電話がかかってきたり、たまーに見られてる気がしたりするくらい」

響の手の中で、スマホはまだ小刻みに震え続けている。その振動は、彼女の言葉よりもずっと執拗だった。

「いつまでコールするつもりかしら。ねぇ、美散、ストーカーって暇なのかしら」

「俺より君の方が詳しいだろう」

「美散だって警察官でしょ?ストーカーの暇事情くらいは知っているんじゃない?」

「生憎、ストーカーを検挙したのは、過去に君へストーカーしていた男の一件だけだ」

 冬が終わり、暖かな春になると変質者が増えるものだ。だが、生憎今は極寒真っ只中。用もなければ人は外へは出ない。それは変質者とて同じことだろう。もっとも、目の前の彼女を困らせている例外もいるようだが。

「え?そうなの?」

響が少し驚いた様子だった。

 実は数年前、響は一度ストーカーに襲われかけたことがあった。そして、その時に彼女を助けたのが美散であり、それがきっかけで二人は親しくなり、やがて付き合うようになった。

「俺のいる課では、そもそも取り扱う事件が違うからな」

響は「ふぅん」と短く相槌を打ち、しばらく考えるように視線を落としたあと、口を開いた。

「私も案外、ストーカーのことは詳しくないのよね」

響は窓の向こうの、街を行き交う人たちを眺めた。

「本人たちからすれば、ただ見守っているだけ。ただ、好きなだけ。相手の為にやっているだけ。嫌がるはずなんてない。相手はきっと恥ずかしがっているだけだって」

少し間を置いて、静かに続ける。

「自覚がないのよ」

携帯を持ったまま片手で軽く腕を組み、首を少し傾げながら響は未だ鳴りやまないそれを見つめていた。


美散は少し考えるように視線を落とした。


 最初は純粋な気持ちだったのだろう。ひと昔前の漫画のように恋心を胸に秘め、意中の人のもとへ足繁く通い、電柱の影からそっと盗み見て行動を記録する。だが、好意は時にカタチを変えてしまう。


相手を知りたいという欲求が、監視へ。

相手と一緒になりたいという欲求が、独占へ。


 異質な感情が入り交じり少しずつ、少しずつ、自分でも分からないほど、緩やかにカタチを変える。そして、愛情はやがて執着に変わり最後には依存へと至る。その頃にはもう手遅れで、後戻りもできないほどに泥濘にはまっている。いや、本人はそれに気付いてさえいないのかもしれない。


ただ、できあがったそれは、恐らく愛とは違う――ほど遠いなにか。


 バイブレーションが止まった。響は「やっと止まった」とスマホをテーブルに伏せた。美散はその一連の動作を目で追っていた。

「もしかして」

響は静かになったスマホを指先で軽く叩いた。

「ストーカーは女性だったりして」

「どうして?」

響は少し考えるふりをしながら、「うーん」と唸る。そして出てきた言葉はなんとも緊張感のないものだった。

「女の勘」

美散は軽く笑った。

「なんだそれ」

「あら、刑事の勘と同じで、女の勘だって馬鹿にできないわよ」

頬杖をつきながら、響は楽しそうに眉を上げた。

「まぁ、当たっているかどうかは分からないけど」

「馬鹿にできないんじゃなかったのか?」

「勘が全部当たるなら警察はいらないでしょ」

「それに」、と響は美散を見つめた。

「女だろうが男だろうが、私に何が起こっても、あなたが助けてくれるでしょ?」

「…」

当たり前だろう。そう言いかけて喉の奥で言葉が止まった。


助ける。


その言葉を口にするのは簡単だ。だが、その言葉だけではどうにもならなかった現実を、美散は過去に二度経験していた。忘れたくても忘れられない記憶だ。

「善処する」

代わりに返した言葉は、酷く味気なかった。響はほんの一瞬瞼を揺らしたが、すぐに吹き出しケラケラと笑う。

「そんな真面目な顔して答えないでよ。大丈夫、今のところ何もされてないんだから」

「今は、だろ。この先危険な目に遭わないとは限らない。前もそうだった」

人は時間が経つにつれて、恐怖心が薄れてしまう。そして忘れた頃に限って、取り返しのつかないことが起こる。

「少しでも妙だと思ったら連絡しろ」

「善処しまーす」

響はおどけて見せ、それきりストーカーの話題は途切れた。


「そういえば、この前話してたお店なんだけど」

「店?」

響はむっと唇を尖らせた。

「まぁた忘れてる。ほら、駅前にできたイタリアンのお店よ」

「あぁ、」

そういえば、そんな話を聞いた気がする。美散は頭の片隅に残っていた曖昧な記憶を辿りながら、適当に頷いた。響はひとまず納得したようだった。

「結構評判が良いらしくてね。来週あたりに予約して一緒に行きましょうよ」

「事件が起きなければな」

「それは行く気がないってことかしら」

「そうじゃない」

本当にそういうつもりではなかった。ただ、刑事の約束などあってないようなものだ。呼び出し一本で予定が消えることなど珍しくもない。だから下手な約束はしたくなかった。

「予約した後にドタキャンなんてしたくないだろ」

「ほんと真面目なんだから」

「そんなことはない」

「恋人だったら機嫌を損ねないように、まずは行こうって言うの」

響はそう言って笑った。

 

 気が付けば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

「そろそろ帰るか」

美散が腕時計に目を落とす。

「そうね。明日も仕事だし」

二人は伝票を手に席を立った。

 店を出ると、先ほど買ったコーヒーの袋が入った紙袋手が指先で揺れた。暖房の効いた店内との温度差に思わず肩を竦める。

「ストーカーの件もある、家まで送るよ」

「大丈夫よ、駅もすぐそこだし」

「そういう問題じゃない」

「心配性ね」

響は苦笑いした。

「何かあったらすぐ連絡するから」

そう言って、手に持ったスマホをゆらりと掲げる。

「……分かった」

「よろしい」

満足そうに頷いた響は、数歩進んだ後ふと思い出したように振り返った。

「イタリアンの件、忘れないでよ?」

「覚えておく」

「返事だけはいいんだから」

ケラケラと笑いながら、響は駅へ向かって歩き出した。美散はその背中を見送り、内ポケットからスマホを取り出しメッセージアプリを起動させた。


『今から帰る』


それだけを送信する。すぐに既読がついた。


——夕食の支度してるね。


短い返事だった。そのメッセージを見て、無意識のうちに美散の口元がわずかに緩んだ。

「さて、帰るか」

帰れば温かい食事が用意されている。それは、美散にとって変わらない日常だった。スマホをしまい、美散は反対方向へ足を向けた。


 ホームは仕事帰りの人々で込み合っていた。電車に揺られながら、美散はぼんやりと窓の外を眺める。気づけば車内アナウンスが最寄り駅を告げていた。電車を降り、改札を抜ける。外に出た瞬間、肌を刺すような冷たい空気に思わず身震いした。

「今日は一段と冷えるな」

白い息を吐きだしながら歩き出す。


早く家に帰りたい。帰れば夕食が待っている。

そう思うと、自然と足取りが少しだけ軽くなった。

そして、こんな寒い日はシチューだったら有難い。そう思いながら美散路を急いだ。


 マンションへ辿り着いた頃には、体の芯まで冷え切っていた。エントランスへ足を踏み入れた瞬間、美散は小さく息を吐く。暖房の効いた空気がようやく冷えた体を包み込んだ。エレベーターに乗り込み、自身のある階へ向かう。扉が開き、見慣れた廊下を歩く。玄関まで来たところで、扉越しに夕食の香りが漂ってきた。途端に腹の虫が鳴く。美散はポケットから鍵を取り出し解錠した。靴からスリッパに履き替え、コートをハンガーラックへかける。廊下の先にはリビングの灯りが漏れていた。夕食の香りに誘われるように美散は廊下を進んだ。

「ただいま」

リビングに入ると、暖かい空気に包まれ美散はようやく肩の力が抜けた。

「おかえり」

キッチンでは屈託のない笑顔を浮かべた宇良木時雨-ウラギ シグレ-が鍋をかき混ぜている。カウンター越しから鍋の中を覗き込むと、白いシチューがとろりと揺れていた。帰宅途中でふと思い浮かべたものが、そのまま食卓に並ぼうとしている。

「もうすぐできるよ。寒い日はこれが一番でしょ」

こういうことは珍しくなかった。

「食べたいと思ってたんだ」

時雨は昔から察しの良い子だった。言葉にしなくても伝わることが多い。いつからこうなったのかは分からないが、きっと阿吽の呼吸というやつなのだろう。

 「コーヒー、なくなりかけてたろ」

持っていた紙袋を掲げる。

「買ってきた」

「え、買ってきてくれたの?ありがとう」

時雨は嬉しそうにそれを受け取った。

「あ、セグレートのコーヒーだ。ここでお茶してたんだね」

「あぁ」

「ここのコーヒー、家で淹れても美味しいんだよねぇ」

時雨は紙袋からコーヒーの袋を取り出し棚へしまい込むと、再び鍋をかき混ぜ始めた。


 甥の時雨と暮らし始めたのは。十五年前の冬だ。両親を亡くした八歳の少年は、いつしか大学院へ進学する立派な青年になった。身長こそ美散には及ばないものの、料理や家事の腕前はとうに追い越されている。時雨が中学二年になる頃にはキッチンはすっかり彼の城となっており、今では調味料の場所も、調理器具の収納場所も、美散は知らないでいる。もっとも、それで困ったことは一度もなかった。

「お風呂、沸かしてあるけど先に入ってくる?」

「いや、腹が限界なんだ」

美散がぽつりと言うと、時雨は鍋から目を離さずに、くすくす笑った。

「じゃあ、すぐに準備するね」

それから十分も経たないうちに、二人は食卓を囲んでいた。美散はさっそくスプーンを手に取り、シチューを口へ運ぶ。じわりと体の中から温かくなるのを感じた。

「うまい」

「よかった」

しばらく無言が続いた。テレビも何もつけない。食器の触れ合う小さな音だけが響いている。だが、美散にとっては心地の良い空間だった。

「研究は順調なのか?」

パンをちぎりながら、美散は時雨に尋ねる。

「うーん」

美散の仕草をなぞるように、時雨もパンをちぎった。

「手こずってるのか」

「対象者はたくさんいるんだけど、なかなかどうも、って感じかな」

二人はほとんど同時にパンを口へ運んだ。

「ずいぶんと難しいテーマみたいだな」

「ちょっとコアにし過ぎちゃったかも」

少し間を置いて、時雨は困ったように笑った。時雨は基本的になんでもそつなくこなし、勉強もよくできる子だった。そんな時雨が頭を悩ませるというのだから、相当難しいテーマなのだろう。だが、美散は時雨がどんなテーマを扱っているのかを知らない。以前、聞いたことはあったが、その時は「ちょっと恥ずかしいから」とかわされてしまった。

「で?なんの研究をしているんだ?この前は教えてくれなかったろ」

「ひみつ」

今回もだめらしい。

「この前も恥ずかしいからって教えてくれなかったろ。そんな言えないような危険な研究でもしてるのか」

美散は少しからかうような口調で笑った。

「美散さんに言っても難しくて理解できないかも」

時雨は口角の上がった口元をパンで隠した。

「東大出身を敵に回したぞ」

子どものような言い返しに、思わず時雨は吹き出した。

「頭の良さと心理学は別ですよ。研究についてはまだうまくまとまってないんで、形にできたら、その時に話します」

今のところ、どうやら教える気はないらしい。美散もそれ以上問いただすことはなかった。

「もし、行き詰ってるなら、響に相談してみるのもいいんじゃないか」

「響さんに?」

藤川響の職業は精神科医だ。研究者でないにしても、何か参考になる話くらいは聞けるかもしれない。美散はそう思い時雨へ提案した。

「うーん」

ただ、時雨はあまり乗り気ではないようだった。視線を落とし、何かを考え込んでいる。

「どうした?」

「なんだかズルしてるみたいで気が引けるなぁ」

「ズル?」

「だって、周りの院生たちは寝る間も惜しんでやってるのに、僕だけ近道使うんだよ?」

相変わらず真面目だな、と美散は苦笑いした。

「俺なら迷わず近道を使う」

「僕は真面目なんです」

ごちそうさま、と時雨が席を立った。皿にはまだ食べかけのパンとサラダがまだ残っていた。

「珍しいな。残すのか」

「夕食前に少し間食しちゃって。これは明日の朝食に回します」

「だったら俺が食べるよ」

食器を片付けようとした時雨の手が止まった。美散は食べさしを気にすることもなく、時雨の皿から残ったパンとサラダを自分の皿へ移した。

「もしかして、まだお腹空いてる?シチューもサラダもまだ残ってるよ。おかわり入れようか?」

「いや、大丈夫だ。ありがとう」

「そっか」

美散は食器を片付ける時雨の動作をなんとなく眺めていた。皿を抱えた時雨がキッチンへ向かい、足音が床に軽く吸い込まれていく。蛇口の音が聞こえ、しばらく食器を洗う音だけが静かに響いた。美散はパンを噛みしめながら、その日常音に耳を傾けていた。胸の奥がふっと軽くなる。その理由を考えることもなく、美散はテーブルの上へ視線を落とした。


 全ての皿を平らげた美散は、時雨のもとへ食器を運んだ。

「ごちそうさま」

時雨が食器を受け取った。

「お風呂入るでしょ?温めなおすから、それまで休んでなよ」

「いや、手伝うよ」

「いいよ、美散さん疲れてるでしょ?」

「時雨も研究で疲れてるだろ。お互い様だ」

そう言って時雨の横を陣取り、洗い終わった食器を拭き始めた。時雨の口元がわずかに緩んだ。


 キッチンの清掃が終わったタイミングで、追い炊きの終了を知らせるアラームが鳴った。

「手伝ってくれて、ありがと。お風呂入ってきて」

時雨にそう促され、美散はありがたく脱衣所へ向かった。

 風呂から上がった後は、リビングでしばらく時雨と過ごし、いつもと変わらない夜を終えた。


***


 翌朝、いつも通りの朝の準備をしリビングへ向かった。

「おはよう、美散さん」

キッチンでは時雨が朝食の支度をしていた。

「おはよう」

テーブルには淹れたてのコーヒーが用意されており、それを口にしながら朝の番組を点けた。テレビの中では、女性リポーターがどこかの店へ訪問し洋菓子を紹介していた。チョコレートケーキだろうか。リポーターがケーキにナイフを入れた途端、中から濃いチョコレートが流れ出した。

「フォンダンショコラだ、美味しそう」

朝食を持ってきた時雨が、テレビを見て呟いた。

「甘いの苦手だったろ?」

「ずっと研究で頭使ってるから、無性に食べたくなるんだよね」

テーブルに食パンと昨日の余ったシチューとサラダが並べられた。

「あぁ、なるほどな」

いただきます、と共に食パンをちぎり、シチューへとひたす。時雨も席に付き朝食を始めた。

「美散さんは、食べたくならない?現場とデスクワークの両方でしょ?」

「甘いものは食べないが、甘いコーヒーなら飲むかな。本当にむしゃくしゃした時だけだが」

美散はひたしたパンを口に運びながら答えた。

「例えば?」

時雨も同じくシチューにパンをひたし、それを口に運ぶ。

「最近だと、三か月前の事件だな」

「あぁ…」

 時雨は昨日しまったコーヒーの棚へ目を向け、すぐに美散へ視線を戻した。

「進展ないんだ」

「まったくな」

ため息を吐きながら、美散は画面端に表示されている店名に目を向けた。どうやらフォンダンとやらの店は本庁の近くらしい。


 朝食を済ませ残りのコーヒーを飲みほした。

「そろそろ出るか」

ジャケットを羽織り鞄を手に、玄関へと向かう。その後ろから時雨も朝食を中断し立ち上がる音が聞こえた。

「遅くなりそうなら、連絡してね」

「あぁ」

壁に掛けてあるコートに手を伸ばすと、昨日までは無かったマフラーがあった。

「出してくれたのか」

「最近冷え込んできたでしょ。それに僕が用意しないと、美散さんそのまま行っちゃうし」

コートとマフラーを羽織ったあと、美散は時雨の頭に手を乗せ、軽く二度、手のひらを弾ませた。

「ありがとな」

けれど、返事はなかった。

「どうした?」

時雨は頭に手をやり、少し呆れたように美散を見た。

「僕、もう二十四歳だよ?子どもじゃないんだから」

「あ…」

時雨にそう言われ、美散は一瞬目を瞬かせた。

「悪い。つい癖で」

美散は鞄を持ち直し、玄関の扉に手をかけた。

「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

時雨の返事を背に、美散は玄関の扉を閉めた。


 朝の警視庁前には、出勤の人影がぽつぽつと集まり始めていた。

美散はその流れの中を、いつもの歩幅で玄関へと向かった。寒空の下、本庁を守る門番が軽く会釈し、美散も同じように返した。

 ゲートを通り抜け、マフラーを外しながら、その先のエレベーターホールへと向かった。

「おはよう。宇良木」

エレベーターを待っている途中で、横からスッと同僚の遠野が現れた。

「あぁ、遠野。おはよう」

「お前、今回もまた昇進蹴ったんだってな」

遠野は片手をポケットに突っ込んだまま、美散を見ることなく前を向いていた。エレベーターが到着し、扉が静かに開く。美散は歩を進めながら言った。

「昇進したら現場に出られなくなるだろ」

それは、美散が口にする数少ない本心だった。遠野は横目で見て、やはり「変わってるな」という表情をしていた。


 宇良木美散は東京大学出身のキャリア組だった。本来ならば、もっと上の階級にいてもおかしくない。だが彼は、昇進の辞令が出るたび現場に残る道を選び続け、いまだ警部の階級に留まっていた。美散を知らない人間は「エリートの冷やかし」「変わり者」「実はなにかあったんじゃないか」と噂するが、実際のところというと、そんな意味のある理由でもなかった。エレベーターに乗り込み、階数のボタンを押す。美散は続けるように、もう一言だけ本心を付け足した。

「それに、誰かさんと違って記者会見のパフォーマンスは得意じゃないしな」

その点については、遠野も若干納得していた。誰かさんが誰なのかも、大方想像がついているようだった。階に到着し扉が開く。遠野とともにエレベーターを降りると、廊下には数人の職員たちが行き交っていた。ほどほどに挨拶を交わしながら、長い廊下を歩く。その途中、後ろから聞き慣れた大声が飛んできた。


「うーらーぎーみーちーるー!!!」

周りにいる刑事たちは、背筋をシャンと伸ばし反射的に敬礼をする。美散と遠野の歩みだけが、緩やかに止まった。

「噂をすれば誰かさんのご登場だ。それじゃあ、俺はお先に」

遠野は美散に向かって軽く敬礼をし、颯爽と行ってしまった。美散は「薄情だなぁ」と思いつつ、その背中を見送り、後ろを振り返った。

「おはようございます。甘利参事官殿」

美散は口元を緩く上げ、のんびりと笑った。


 甘利弾市-アマリ ダンイチ-。彼は、警視庁の警視長参事官だ。美散とは立場も性格も正反対だが、なぜかずっと並んで歩いてきた相手だ。

「おはようございますじゃねぇ!!」

甘利は眉間に皺を寄せ、美散の胸ぐらでも掴みそうな勢いで前のめりになった。

「お前、これで何度目だ?何度昇進蹴ったら気が済むんだ?お前が毎回毎回昇進蹴る度に誰が尻拭いしてると思ってんだ!!」

矢継ぎ早に言われ、美散はわずかにのけぞる。表情は崩れないまま、無言で両手を前に出して制した。周囲の人間たちは慣れた様子で見守っている者もいれば、目を逸らして通り過ぎる者もいた。

「朝からそんなに大声出したら血圧に悪いですよ」

美散が昇進を蹴るたびに甘利は説教をし、美散は適当に受け流す。ここ数年、そんなやりとりが何度も繰り返されていた。そして、そのたびに頭を抱えているのは決まって甘利の方だった。

「誰のせいだと思ってんだ!!」

甘利の怒声を受け流すように、美散は淡々と視線を甘利の胸元へ落とした。

「あれ、今日は見ないネクタイですね。奥様からのプレゼントですか?素敵ですよ」

「え?」

甘利の表情が一変し、少し口元が緩んだ。

「そうか?そうなんだよ、実は女房が俺に似合うと思って買って、」

そこまで言いかけて、甘利はぴたりと口を閉じた。しまった、とでも言いたげに顔をしかめ、再び眉間に深い皺を刻む。

「話を逸らすんじゃねえ!!」

甘利の愛妻家ぶりは本庁内でも有名だった。様子を見ていた署員たちは、二人のやりとりに吹き出しそうになるのを必死にこらえ、肩をわずかに震わせていた。そんな周囲をよそに、二人は並んで歩き出した。

「おい、美散。お前もう四十九歳だそ。そろそろ現場から離れて、落ち着いてもいいだろう」

「何度も言ってるだろ、弾市。俺は出世には興味がないし、権力争いにも巻き込まれたくもない。それに、上に上がれば最後だ。汚職まみれの警察官になる」

美散は甘利の顔を見ず、前を向いたまま軽い口調で答えた。

「お前、俺が汚職まみれだと思ってたのか。ドラマの見過ぎだぞ」

「後は、マスコミ対応もしたくない。」

「そりゃ、ただの我儘だろ」

甘利は呆れるように、ため息をつく。長々とした説教を聞き続け、ようやく捜査一課へと辿り着いた。ガラス扉を開けて足を踏み入れると、警視長である甘利の姿に気付いた刑事たちが次々と立ち上がり、敬礼する。

「私のことは気にせず、業務に集中してくれ」

甘利がそう告げると、刑事たちは「はい」と短く返事をし、それぞれの仕事へと戻っていった。だが、課内にはどこか落ち着かない空気が残っている。

「おはよう、みんな」

自分の島へ辿り着いた美散は、班員たちに声をかけた。コートとマフラーをロッカーにしまい、自席に腰を下ろす。

美散が率いる班は、彼自身を含めた五人編成だ。何気なく四人の班員たちを見渡すと、皆それぞれ仕事に取りかかっているものの、時折、甘利の方へ視線を向けていた。

「参事官殿がおられると、皆緊張して仕事どころではないようですよ。捜査の妨げになりますので、そろそろご自身のオフィスへ戻られては?」

「お前が昇進に応じるまで戻らんぞ」

甘利は腕を組み、ドカッと美散のデスクの端に腰を置いた。足を組む動作はゆっくりで、完全に“居座る”意思を示していた。その様子に美散は「やれやれ」とでも言いたげにため息を吐いた。

「じゃあ、私が警視になる代わりに条件があります」

警視になると言う言葉に、甘利の眉がぴくりと動いた。これまで、何十年と聞き続けた拒絶の言葉はとは違う。班員たちも思わず手を止める。

「条件?」

甘利は目を細めた。美散は一切躊躇うことなく答えた。

「警視になっても俺は現場へ出続ける」

今度は甘利のこめかみがぴくりと動いた。

「おい、美散」

先ほどとは打って変わり、低く押し殺した声だ。その悲痛にも似た声に周囲の刑事たちは思わず顔を見合わせる。

「警部の階級でも現場で働いているのは異例中の異例。いや、特例だ。それを可能にしたのは俺がなんとか上層部を納得させたからだぞ」

過去にも何度も人事課や警察本部とやりあった記憶が、甘利の脳裏をよぎる。年齢も階級も実績も、美散はとうに現場を離れていて当然の男だった。それでも、捜査の第一線に残し続けてきたのは、美散の気持ちを理解していたからだ。

「それでもまだ、そんな我儘を言うのか」

だが、やはり甘利にも上層部を納得させるには限界があった。

「あぁ」と、美散は静かに頷いた。

「その調子で今回も上層部を納得させてくれ」

しかし、当の本人はどこ吹く風であった。甘利の情に訴える作戦は不発に終わってしまい、とうとう甘利の雷が落ちた。

「美散ーっ!!!」

怒声が課内に響き、数名の刑事が肩を跳ねさせる。ちょうどそのとき、早朝の報告会議を終えて戻ってきた捜査一課長、司馬一-シバ ハジメ-警視も例外ではなかった。突然響き渡った怒声に驚き、思わずその場に盛大な尻もちをついた。

「もう、お前の我儘は金輪際聞かんからな!!! 絶対に今回こそ昇進させてやる!!!」

そう言い捨てると、甘利は大股で捜査一課を後にした。その背中を、ようやく立ち上がった司馬が慌てて追いかける。

「参事官殿!! うちの宇良木が申し訳ございません!!」

そもそも、甘利が何に腹を立てているのか、司馬にはさっぱり分かっていない。だが、どうやら自分の部下が参事官を怒らせたらしい。それだけ分かれば十分だった。

事情は後で聞けばいい。ひとまず謝っておこう。

そんな司馬の声が廊下の向こうへ遠ざかると、先ほどまでの騒ぎが嘘のように、課内はしんと静まり返った。 

「大丈夫かな」

美散は二人が出ていった扉を見つめながら呟いた。

「何がですか?」

部下である山口徹-ヤマグチ トオル-巡査長が、呆れを通り越した目で聞いた。

「司馬さん、すごい尻もちついていたぞ」

心配するところはそこじゃないだろう——。美散班の面々は、改めて甘利に同情した。だが、彼と長く関わってきた者たちは、美散が身勝手な人間でないことは理解していた。そして、その飾り気のない人間性をどこか好ましく思っていた。

 

 そんな穏やかな空気を切り裂くように、廊下から慌ただしい足音が近付いてくる。甘利の次は司馬の説教が始まるのだろう——。誰もがそう思った。

「宇良木!!」

だが、その声色に叱責の響きはなかった。

「三か月前のホテル客室内の事件が動いた可能性がある!!」

騒がしかった空気が一瞬で凍りつく。和やかだった雰囲気は消え失せ、捜査員たちの表情が引き締まった。誰もが息を呑む。室内の温度が、ほんの少し下がったように感じられた。

「山口、千秋。表に車を準備してくれ」

美散がすぐさま指示を飛ばした。まさか、時雨に今朝話した事件が動くなんて思ってもみなかった。


美散の頭の中はホテル客室事件で埋め尽くされ、昨日響と交わした約束は、いつの間にか記憶の引き出しの一番奥にしまわれてしまった。

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