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5話 コーデルという男

 夕刻、ユーリの家に現れたのは彼の父ではなかった。


「私だけお邪魔して申し訳ありません、クルーガー夫人」


 玄関先で深々と頭を下げたのは、二十代半ばほどの若い男だった。几帳面に撫でつけられた栗色の髪と、少しだけ困ったような垂れ目。官房九課の制服を脱いだ私服姿でも、生真面目さが滲み出るような佇まいだ。


 私生活でもクルーガー家とは付き合いがあり、ユーリは彼の事を年の離れた兄のように慕っていた。


「まあ、コーデルさん。わざわざありがとうございます。主人は大丈夫でしたか?」


「はい。旦那様はお元気です。ただ、緊急の案件が入りまして……今夜は遅くなるとのことで、代わりに私だけでも夕食会に参加して欲しい、と」


 母が気遣わしげに眉を寄せたのを、ユーリは食卓の椅子に腰かけながら横目で見ていた。

 コーデル・ヴァンツ。父の直属の部下で、この時期の官房九課では最も腕の立つ現場工作員だ。誠実で実直な信頼できる男。周りの評判では、そう通っている(・・・・・)


 その男が今、ユーリの目の前で、母に促されて恐縮そうに椅子を引いている。


「コーデルさん、久しぶり」


 ユーリが声をかけると、コーデルはほっとしたように表情を和らげた。


「これはユーリくん。今日は招待してくれてありがとう。久々に会えて嬉しいよ」


「うん。コーデルさんこそ、今日は忙しいのにありがとう」


 母が台所へ引っ込むと、食卓には二人だけの静けさが落ちた。コーデルは行儀よくナプキンを膝に置き、ユーリはそれを正面から見つめていた。


「……お父さんは今夜、帰れないかもしれないかもね」


 コーデルが静かに、しかし慎重に言った。子供の耳を慮ってか、声が一段低くなっている。


「知ってる」


 ユーリの短い返答に、コーデルがわずかに目を細めた。


「……そうか」


 それ以上は何も問わなかった。有能な工作員らしい、賢明な沈黙だ。

 母が温かいスープを運んでくる音がして、二人の間に張り詰めていたものが、薄く霧散した。


「さあさあ、冷めないうちに召し上がれ。コーデルさん、遠慮なさらずに」


「ありがとうございます。美味しそうですね!」


 コーデルが照れたように頬を緩める。母の手料理を前にした彼は鋭い工作員の顔を脱いで、ただの若い男に戻っていた。

 湯気の立つスープを掬いながら、ユーリは密かに思った。


 やはり、油断のできない男だと。


 ───


 コーデルは、料理に舌鼓を打ちつつ、ワインを数杯あおっていた。


「いやあ、夫人のお料理は本当に絶品で……。つい飲みすぎてしまいました」


 呂律の怪しい口調で、頬をうっすら赤く染めながらコーデルがそう言うと、母は困ったように笑いながら「少し休んでいってください」と客間へ案内した。

 ユーリは自室へ戻ると言って、そこで動きを止めた。


 廊下の角で、息を殺す。

 酒に強い人間が「つい飲みすぎた」顔をする時、その目だけは濁らない。コーデルの目は夕食の間ずっと、澄んでいた。

 十分ほど待った。

 屋敷がしんと静まり返り、母が自室へ引き取ったのを確認してから、ユーリは音もなく廊下を歩いた。

 父の書斎の扉がわずかに開いている。

 ユーリは扉を押した。蝶番は軋まない。この屋敷の扉の癖は全て把握している。

 薄暗い書斎の中で、コーデルは父の机の引き出しを丁寧な手つきで漁っていた。酔いはどこへやら、その所作は水が流れるように淀みなく、静かだった。


「……探し物は見つかりましたか? コーデルさん」


 背後からのユーリの声に、コーデルの手が一瞬だけ止まった。

 一瞬だけ、だ。それから彼はゆっくりと振り返り、困ったように苦笑した。


「……これは参った。気配もなく来るとは、さすがユーリくんで」


「酔ったふり、上手でしたよ。母さんはすっかり信じてた」


「君は信じなかったようだがね」 


「コーデルさんの目が、ずっと澄んでいたから」


 コーデルは静かに引き出しを閉め、机に寄りかかった。腕を組み、ユーリを見下ろす。その目からは垂れ目の温和な印象が、すうっと消えていた。


「おかしいと思ったんだ。凡人のガルム(ユーリの父)上長が、軍の不穏な企てに勘づくなんて」


 声の質が変わっていた。柔らかな「兄のような」男の声ではなく、もっと平坦で、感情の薄い声に。


「驚かないんですね。あの密告文が、俺の差し金だと言う事に」


「君が気がついたのと同じさ」


 コーデルは机に寄りかかったまま、腕を組んだ姿勢でユーリをじっと見つめた。その目が、今夜初めて、本当の意味でユーリを「見て」いた。


「夕食の間、ずっと気になっていたんだ。……ユーリくん、君の目を」


「俺の目がどうかしましたか」


「子供の目じゃない」


 静かに、しかし確信を持って言った。


「十年以上この仕事をやってきて、人の目だけは誤魔化されないよう鍛えてきた。死線を潜り抜けた兵士の目。人を殺したことのある者の目。そして、何もかも諦めた人間の目。……君のそれは、どれにも似ていて、どれとも違う」


 コーデルは首を傾げ、品定めするように続けた。


「何年分もの後悔を、その小さな身体の中に押し込んでいるような、矛盾した存在。君、本当にユーリくん?」


 それは工作員としての問いではなかった。もっと純粋な、人間としての問いだった。

 ユーリは少しだけ間を置き、それから少年らしい、穏やかな微笑みを作った。


「流石だよコーデル。俺は少し遠い未来で死んで、ここに戻ってきた。俺の家族と、大切な人(メアリ)の破滅を回避するためにな」


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