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4話 一歩目

 しかし裏を返せば、「紅い水曜日」事件を未然に防ぎさえすれば、ドミノ倒しのように続く破滅の連鎖を、その根元から断ち切ることができる。


 父が汚名を着せられることも、帝国が対話の術を失い狂信的な軍事国家へと変貌を遂げることも、そしてメアリが「悪逆の女帝」としての仮面を被り、世界中の憎悪をその細い肩に背負わされることも、すべては回避可能な未来へと書き換わるはずだ。


(だが、単にグレームを止めるだけでは足りない……)


 ユーリは冷めた紅茶の表面に映る、自分の幼い瞳を見つめた。

 この不況は本物だ。民衆の飢えも、兵卒たちの絶望も、決して捏造されたものではない。クーデターを握りしたとしても、鬱積したエネルギーは別の出口を求め、より残酷な形で花開くだろう。


 ただ潰すだけでは駄目。必要なのは、「救済のすり替え」だ。


 そのためには、帝国を陥れようとしている背信者たちを逆利用し、彼ら自身を民衆の怒りを鎮めるための「真の悪役」として処刑台に送る必要がある。


 そして幸いな事に、ユーリは一度目の人生でこの事件の黒幕を、「共和国情報局」の機密資料を通じ知っていた。


「ユーリ、どうしたんだい? そんなにスープを凝視して。冷めてしまうよ」


 父の穏やかな声に、ユーリは瞬時に「無邪気な息子」の仮面を被った。


「ううん。少し、これからの将来について考えてたんだよ」


「まぁ、ユーリも立派になって。その歳でもう自分の人生設計を考えてるなんて!」


 自分と、そして家族の明るい将来に何の疑いも抱いていなように、ユーリの母は嬉しそうに手を合わせる。

 母の屈託のない笑顔が、かえってユーリの胸を鋭く刺した。

 この数ヶ月後、彼女は亡命先の寒村で慣れない労働と心労に蝕まれ、かつての面影もないほどやつれ果てて息を引き取る。その未来を、ユーリだけが知っている。


「……うん。僕、パパやママがずっと笑っていられるような、そんな未来にしたいんだ」


「ふふ、それはとっても素敵な夢ね」


 ユーリの母は何も疑わず、柔らかく笑った。


「おっと、もうこんな時間だ」


 父は立ち上がると、ユーリの髪をクシャっと揉む。


「今日はユーリのたっての希望で、コーデルくんを招いての夕食会だ。私も早出して夕方には帰宅するから。料理の方は期待してる、ママ」


「ええ勿論ですとも。日頃、アナタとユーリがお世話になっていますからね。腕によりを掛けますわ」


 父がナプキンで口元を拭いながら立ち上がった。コートに袖を通しながら、彼はいつも通りの穏やかな笑顔でユーリの頭をくしゃりと撫でる。


「夕方には戻る。良い子に待っていなさい」


「はい。お父様」


 ユーリは短く答えた。

 その約束が果たされないことを、彼は知っている。

 昼頃には、官房九課の父宛にユーリがしたためた匿名の密告文が届いているはずだった。内容は「紅い水曜日」事件の計画と、首謀者グレームの今後の行動内容、そして協力者の名前などなど。だが、詳細はあえて所々ぼやかしたり、わざと矛盾するような内容を散りばめている。


 普通ならたちの悪いイタズラとして処理されそうな杜撰な密告文だが、真面目な自分の父なら一応捜査するだろうと彼は踏んでいる。そして、その密告文はユーリの真の宛先にも共有される筈であると。


(ごめん、父さん。今晩の家族団欒は諦めてくれ)


 玄関で父を見送りながら、ユーリは胸の内でそっと詫びた。

 遠ざかる背中が角を曲がって見えなくなるまで、彼はその場に立ち尽くしていた。


「さ、ユーリも早く支度しなきゃ。もう少しで家庭教師の先生が来るわよ」


 母の声で、ユーリは踵を返した。


「……うん」


 二度目の返事も、また短かった。

 自室に戻り、扉を閉めると同時に、ユーリは少年の仮面を静かに外した。

 机の引き出しの奥、二重底の隙間に、一枚の紙が畳んで仕舞ってある。昨夜、灯火の下で何度も書き直した密告文の草稿だ。本物は既に郵便受けに投函した後だが、この草稿だけは念のため手元に残してある。証拠として使うかもしれない。あるいは、自分への戒めとして。


 紙を取り出し、広げ、一度だけ読み返す。

 そこに書かれているのは、確かな「真実」だ。

 しかし同時に、今日一日だけで父の予定を狂わせ、組織を動かし、複数の人間の運命を書き換えた「介入」の証拠でもある。


(これは正しかったのか?)


 問いは一瞬だった。

 答えは既に、あの処刑場の情景が答えだった。

 正しいかどうかなど、関係ない。

 メアリが独りで背負うはずだった地獄を未然に防ぐ。それだけのこと。


 ユーリは草稿を蝋燭の火で燃やし、灰になるまで見届けてから、礼服に袖を通した。

 鏡の中の少年が、静かにこちらを見返している。


「さて、まずは一歩目だ」


 帝国という巨大な盤上で、「死神」は駒を動かし始めた。

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