2話 戻れない筈の場所
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鼻腔をくすぐったのは、硝煙の臭いでも血の鉄錆びでもなかった。
それは、どこか懐かしく、胸が締め付けられるほどに甘い、花の香り。
「……リ、ユーリ? どうしたの、そんなに怖い顔をして」
鈴を転がすような、清らかな声。
ユーリが勢いよく目を開けると、そこには灰色の空も、冷酷な銃口もなかった。
燦々と降り注ぐ柔らかな陽光。手入れの行き届いた緑の芝生。色とりどりの花が咲く庭園。
そして目の前には白百合のようなドレスに身を包んだ、まだ「女帝」と呼ばれる前の少女。白雪のような肌と、絹のような美しい銀髪を兼ね揃えたメアリ・テルジナが、心配そうに彼を覗き込んでいた。
「メアリ……?」
掠れた声でその名を呼ぶ。
ユーリは震える手で自分の身体を確かめた。軍服ではない。帝国貴族の令息としての、汚れ一つない上質な衣服。
あの大戦で負った無数の傷跡も、どこにもなかった。
ここは、帝都にある離宮庭園。
ユーリの記憶違いでなければ、すべてが狂い始め、彼が両親とともに亡命を余儀なくされるよりも前だ。
そして、彼女が「悪虐の女帝」としての仮面を被らされるよりも、ずっと前の穏やかな午後。
「どうしたの? 具合が悪いのなら、すぐに侍医を──」
ユーリは衝動を抑えきれず、椅子から崩れ落ちるようにして彼女を抱きしめた。
「ユーリ!? 急にどうしたの……っ」
困惑したメアリの、小さくて細い肩が腕の中で震える。
生きていた。本当に生きていた。
共和国の英雄として称えられた日々も、復讐の鬼と化して戦場を血で染めた時間も、そして彼女の心臓をこの手で貫いたあの忌まわしい感触も。すべてが嘘だったかのように、彼女の心臓はトクトクと、確かな生命の鼓動を刻んでいる。
(ああ、神様。もしこれが死の間際に見る夢だとしても……俺は)
しかし、溢れ出しそうになる嗚咽をユーリは歯を食いしばって喉の奥に押し込んだ。
今、ここで泣き崩れるわけにはいかない。彼女を驚かせ、不安にさせるわけにはいかない。
十数秒、あるいはもっと短い間そうしていただろうか。メアリの戸惑いが静かな抱擁を受け入れるように変わった頃、ユーリはゆっくりと腕の力を解き、彼女の目を見つめた。
その瞳は、やはりあの日のままだ。
世界を救うために自分を犠牲にするような、残酷なまでに清らかな光。
「……ごめんね、メアリ。少し、怖い夢を見ていたんだ」
ユーリは意識的に声音を整え、かつての「死神」としての冷徹な理性を、少年としての瑞々しい肉体の奥に呼び戻した。
現状を把握しろ。
この五感に伝わる感触と心臓の高鳴りから、これが夢では無いのは確実。そして、あの処刑場での出来事も悪夢などではない。目を瞑れば、あの最期に至るまでの地獄のような日々が容易に思い出せるからだ。
どういう理屈でそうなったのか全く分からんが、時間を遡ってきた。それしか考えられない。
次にどこまで時間を遡ったかだが、ユーリの記憶が正しければ両親の亡命の二ヶ月前。帝国貴族としてメアリと最期に会った時期で、まだ帝国軍部も共和国の影も、表立って彼女を汚してはいない頃だ。
だが、放っておけば歴史は繰り返される。大戦が始まり、多くの人々が死に、彼女も望まない「悪」を演じさせられる。
「……ユーリ?」
メアリが不安そうに、銀糸のような睫毛を揺らして彼を見つめる。その瞳に映る彼は、まだ「死神」でも「英雄」でもない、ただの少年だ。
「ああ、もう大丈夫。本当に大丈夫だから……」
ユーリはそう言いながら、その白く柔らかな頬を、壊れ物を扱うような手つきでそっと撫でた。
指先に伝わる確かな熱。これは幻などではない。あの日、コックピットの中で冷たくなっていった彼女の体温が、今はこんなにも力強く拍動している。
(……神か悪魔かがくれたこの二度目のチャンス。絶対に、無駄にはしない)
ユーリの瞳から少年の瑞々しさが消えた。代わりに宿ったのは、幾千の戦場を潜り抜け、死さえも飲み込んだ男の、鋭利で凍てつくような光。
メアリが愛したこの穏やかな庭園を、花々を、そして彼女の心を、あんな戦場に変えさせてなるものかという意思である。
そして、少年の皮を被った「死神」は一人決意する。
地獄のような大戦も、メアリの悲惨としか言いようのない最期も、全て変えてみせる。
彼女を騙し怪物に仕立て上げようとする連中は、すべて俺が闇から葬り去ってやる。
たとえこの手が二度と消えぬ返り血で汚れようとも。世界中の人間を敵に回そうとも。
メアリを守るためならそれで構わない。




