第5話:First Night
大理石の天板が鈍く光る立派なキッチンで、僕たちは並んで後片付けを始めた。僕が洗剤で泡立てた皿をすすぎ、宵待さんがそれを丁寧に拭いていく。
「宵待さん、お疲れ様。残りの片付けは僕がやるから、もう休んでいいよ。……それと、明日の夜ご飯は、僕に作らせてくれないかな」
「ですが、食事の用意はパートナーである私の役割として――」
「今日、僕のために一生懸命作ってくれたお礼だよ。それに、僕も少しこのキッチンに立ってみたいんだ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ思案するように視線を伏せ、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。では、明日の夕食は瀬名さんにお願いします」
最後の一枚を受け取ろうとした彼女の指先が、僕の手の甲に微かに触れた。 驚くほど柔らかくて、少しだけひんやりとした感触。けれど、そこからは無機質な機械の振動なんかじゃない、僕と同じ確かな「脈動」が伝わってきた。
たったそれだけのことで、僕の心臓は自分でも引くくらいうるさく跳ねた。一方の彼女はといえば、僕の動揺など露ほども気づかない様子で、表情一つ変えずに受け取った皿を棚に収めている。 彼女にとっては単なる効率的な作業の一環に過ぎないのだろう。そのあまりに淡々とした態度に、僕一人だけが舞い上がっているようで、少しだけ気恥ずかしくなった。
片付けを終えた後、僕たちは交代でお風呂に入ることにした。
「お風呂、先に入っていいよ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
宵待さんがお風呂に向かう間、僕はリビングのふかふかなソファに深く腰掛けた。4Kテレビを点けると、深夜のニュース番組が静かに流れ始める。水音が響く浴室は視界の先にはないはずなのに、ただ「この部屋のどこかに彼女がいる」という事実だけが、異常なほどの存在感を持って僕の意識を支配していた。
やがて、背後の方で洗面所の扉が開く音がして、お風呂から上がってきた彼女がリビングへと姿を現した。 交代のために立ち上がり、彼女とすれ違う時。ふわりと甘く清潔な香りが漂い、僕は慌てて視線を逸らして洗面所へ逃げ込んだ。
洗面所には最新のドラム式洗濯乾燥機があり、広い洗面台にはふかふかの高級そうなタオルがきちんと畳まれて置かれている。タグを見ると『今治タオル』の文字があった。 さらにその奥の浴室は、大人二人でもゆったりと入れるほど広々としていて、備え付けの棚には男女別々に用意された高級なシャンプーやトリートメント、ボディーソープがずらりとセットされていた。 浴室内に残る、翡翠が使ったであろうシャンプーの微かな香りに、またしても鼓動が早くなるのを必死に抑え込む。
熱いお湯に浸かると、目覚めてからの数ヶ月で随分と動けるようになったとはいえ、三年のブランクを抱えた体から、限界に近い疲労がゆっくりと溶け出していった。
入浴を終え、リビングに戻ると部屋の時計が23時を指していた。 今の僕にとって、この時間は一日活動した後の限界に近い。抗いがたい眠気が、心地よい重さとなってまぶたにのしかかってくる。 高級そうなふかふかのベッドが二つ、勉強机や大きな本棚が並ぶエリアに置かれている。
「……瀬名さん。電気、消してもいいでしょうか」
「あ、うん。……お願い。おやすみ、宵待さん」
「おやすみなさい。……瀬名さん」
パチリ、という乾いた音とともに、部屋が深い闇に沈んだ。 一メートルほど先に設置された隣のベッド。そこにいる彼女の「存在」が、巨大な熱量を持って僕の意識を支配していく。
宵待さんは淡々と、すでに穏やかな呼吸を繰り返している。 ――けれど。 晩ご飯を焦がして、申し訳なさそうに瞳を潤ませていた、あの瞬間の彼女の表情がどうしても頭から離れなかった。
AIだとか、記憶喪失だとか、そんな設定はどうでもよくなるくらい、あの涙目は僕の胸を強く締め付けた。 闇の中に響く、穏やかで規則正しい呼吸の音。出会ったばかりの、あんなに綺麗な子が、すぐそばにいるという現実。
「AI」という言葉を聞くたびに感じていた、あの背筋が凍るような得体の知れない恐怖。それは、彼女の不器用な涙と確かな体温を知った今、嘘みたいに綺麗に消え去っていた。
――けれど、その代わり。 たった一メートル先に、あんなに綺麗な女の子が無防備に眠っているという逃げ場のない事実が、全く別の意味で僕の心臓をうるさく叩き続けている。
あんなに限界まで眠かったはずなのに。皮肉なことに、僕は一向に眠れそうになかった。
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