第31話:Perfect Synchronization
薄暗い旧理科室の中央、古びた教卓の上に置かれた分厚いノートパソコン。
僕が近づいてエンターキーに指を触れた瞬間、真っ暗だった画面が不意に明るく発光し、青白い光が僕たちの顔を照らし出した。
『Secret CP - Dual Access Synchronization(二重アクセス同調テスト)』
画面に表示されたのは、左右に真っ二つに分かれた入力ウィンドウ。そして、教卓の左右両端からは、有線で繋がれた二つの外部キーボードが伸びていた。
「……なるほど。一人で解くのは物理的に不可能ってわけか。左右同時に、別々の数式や暗号を解いて、寸分の狂いもなく入力し続けないといけないんだ」
「文字通りの『連携』ですね。しかも、打鍵のタイミングがコンマ数秒でもズレれば、エラーとして弾かれるシステムになっているようです。琥珀さん、右側をお願いします。私は左を受け持ちます」
翡翠が左側のキーボードの前に立ち、ホームポジションにスッと指を置く。僕も右側のキーボードの前に立ち、彼女と肩が触れ合うほどの距離で画面を見据えた。
「わかった。……行くよ、翡翠」
画面中央のカウントダウンが『3、2、1』と時を刻み、ゼロになると同時に、左右のウィンドウに滝のような数式と暗号文字列が流れ始めた。
僕は右側のキーボードに指を走らせる。
「右、第1セグメントの解は『X=256』。次は関数の交点……『(4, 16)』!」
思考が、恐ろしい速度で加速していく。
三年間の空白なんて嘘だったかのように、脳の奥底で錆びついていた歯車が熱を帯びて回り始めるのを感じていた。複雑な数字の羅列が、ただのパズルではなく、かつて僕が使いこなしていた言語のように脳内でスルスルと解き明かされていく。
それと同時に、左側からは翡翠が叩く、正確無比でリズミカルな打鍵音が響いていた。
「左、完了。次の暗号解読に移ります」
「こっちも終わった! 次は……図形の回転体体積、『128π』!」
一人が計算を間違えればアウト。入力のペースが乱れてもアウト。
それは極度の集中力を要求される、目隠しをしたままの二人三脚だ。だが、僕を何より震わせたのは、隣にいる翡翠の存在そのものだった。
僕が息を吸うタイミング、視線が次の行へ移る僅かな動向、指先の筋肉の緊張。
生身の彼女は僕の微細な変化をすべて読み取り、コンマ一秒の遅れもなくタイピングを同調させてくる。一切の手加減も、歩幅を合わせるための説明もいらない。僕が思考のトップギアで駆け抜けても、彼女は絶対に隣にいて、僕のすべてを完璧に受け止めてくれる。
(すごい……。誰かと『一緒に走る』って、こんなに満たされるものだったのか)
カカカカッ! ターン! と、二人の打鍵音が一つの音楽のように重なり、静まり返った理科室に響き渡る。
すぐ隣から、彼女の真剣な息遣いが伝わってくる。青いジャージの肩が触れ合うたびに、彼女の少し高くなった体温が伝染してくるようだった。その献身的なまでの「同調」に、僕は胸の奥がどうしようもなく熱くなるのを感じていた。
「ラスト、同時入力! 答えは『INFINITY(無限)』!」
せーの、で息を吸い込み、僕たちは同時にエンターキーを叩き抜いた。
『Clear!!(獲得:シークレットポイント 100pt)』
画面が鮮やかな金色に光り、クリアを告げるファンファーレが鳴り響く。同時に、ロックされていた100ポイントが僕たちの端末へと転送された。
「……ふぅ。完璧だったね、翡翠」
「ええ。琥珀さんの思考の波に自分を合わせるのは、とても……心地よい作業でした」
翡翠が振り返り、スッと僕を見上げた。
薄暗い部屋の中で、その額にはうっすらと汗が滲み、翡翠色の瞳には極度の集中と達成感からくる微かな熱が宿っている。甘いものを食べた時以外は滅多に感情を表に出さない彼女だが、今はその瞳が、僕との「繋がり」を心から喜んでいるように見えた。
上気した彼女の顔が、キーボード越しにすぐ近くにある。僕は不意に大きく跳ねた心臓の音を聞かれないように、慌てて視線を自分のタブレットへと落とした。
「……さて、これで一気にトップに躍り出たはずだ。次のポイントへ――」
僕が自分たちの現在地とランキングを確認しようとした、その時だった。
『Secret CPの陥落を確認。これより、本演習は特別仕様(フェーズ2)へと移行します』
突如として、僕たちのタブレットから無機質なアナウンスが流れ、画面全体が警告色に染め上げられた。
『全チェックポイントの物理ロックを破棄。仮想データへの移行、及び座標のランダム移動を開始します。生存競争をお楽しみください』
「なんだ、これ……! マップ上のポイントが、デタラメな位置に動き出してる!?」
画面に表示されたキャンパスの3Dマップ。そこに固定されていたはずの数十個のチェックポイントのアイコンが、一斉に不規則な移動を始めていた。
それらは整備された通路を完全に無視し、校舎の壁をすり抜け、空中にある渡り廊下からグラウンドへと自由自在に飛び降りるような軌道を描いている。一定の速度ではない。ゆっくりと徘徊するものもあれば、まるで外敵から逃げ惑う獣のように、猛スピードで駆け抜けていくものもある。
「琥珀さん、これは……誰かが物理的なパネルを運んで移動させているのでしょうか?」
「いや、違う。物理的なQRコードのパネルが動いてるわけじゃない。……今までパネルに紐付いていた『ポイントのアクセス権』のデータそのものが、GPS座標としてキャンパス内を徘徊し始めたんだ!」
「つまり、鉄塔のような固定の場所にわざわざ行く必要はなくなった代わりに……目に見えない仮想のポイントを、キャンパス中走り回って『捕まえろ』ということですか」
「そういうことだ。タブレットのAR(拡張現実)カメラを起動して、逃げ回るGPS座標の半径数メートル以内に近づき、直接端末でスキャンしないと回収できない仕様に変更されたんだ。ただの障害物競走じゃない、見えない獲物を奪い合う本物のサバイバルゲームってわけだ」
バグじゃない。ハッキングでもない。
この特例クラスの演習を仕組んだ教師陣――氷室先生やアイアン先生たちが、最初から用意していた悪趣味な『特別仕様』だ。
「……性格悪すぎるだろ」
僕の脳内にあった完璧な「静的マップ」が、リアルタイムで変動し続ける「動的マップ」へと強制的に書き換えられていく。
これでは、事前に計算した「最短の最適解ルート」が数秒ごとにゴミと化してしまう。常に動き回るターゲットの軌道を予測し、走りながらその都度ルートを脳内で再構築し続けなければならないのだ。
底知れない焦燥感と、これから始まる真の頭脳戦・体力勝負への重圧が、僕の背筋を駆け抜けた。
* * *
一方、その頃。
スタート地点であるスタジアムに設置された、運営本部のテント内。
並べられた多数のモニターには、キャンパス中を逃げ回るように動き出した「仮想ポイント」と、それに翻弄されてパニックに陥る生徒たちの姿が映し出されていた。
「ガハハハッ! いいぞ、あいつら完全にテンパってやがる! やはり『フェーズ2』の動的ARモードは最高だな!」
腕組みをした剛田――アイアン先生が、モニターを見ながら愉快そうに豪快な笑い声を上げる。
「静かにしろ、剛田先生。……ここからが真のテストだ」
氷室先生は手元のタブレットを操作し、冷徹な視線で生徒たちのバイタルデータと移動ログを追っていた。
「状況が固定された盤面で最適解を出すのは、特例クラスの頭脳なら当然のタスク。だが、前提条件がリアルタイムで崩壊し続けるこの『生存競争』の中で、冷静にパートナーと連携し、新たな最適解を構築し続けられるか……」
氷室の視線が、モニターの一つ――旧理科室から外へ出ようとする『瀬名・宵待ペア』の光点にピタリと止まる。
「さあ、見せてもらおうか。お前たちの真価を」




