第2話:Impact
三月の終わり。僕は数ヶ月過ごしたマンションを後にした。
他の生徒たちは、三年間を過ごすための荷物を事前に寮へ発送しているらしい。
僕も一応、荷物を送ったが、中身は数着の甚平と作務衣、あとは制服くらいだ。
玄関を出る直前、机の上に入れ忘れた「通帳」があることに気づいた。
(……危なかった。こんな大事なもの、忘れるわけにはいかない)
リュックの奥底に通帳をしまい込み、僕は静かにドアを閉めた。
地下鉄と仙石線を乗り継ぎ、宮城野原駅のホームに降り立つ。 地上へ上がると、そこには圧倒的な光景が広がっていた。巨大なスタジアムと広大な運動場。
そのすぐ向かいにあるのが、僕の選んだ場所――国立宮城野高等学校だ。
校門をくぐり、案内されるまま入学式会場の巨大なホールへ向かう。数千人の生徒を飲み込むこのマンモス校の威容は、リハビリ明けで体力が戻りきっていない僕には、少し眩しすぎた。
僕は指定された『特待クラス・特進1組』の席に深く腰を下ろし、呼吸を整えた。やがて重厚な音楽とともに式が始まり、特別な挨拶が告げられた。
「続きまして、本校理事長、皇凱厳よりお言葉をいただきます」
壇上に現れたのは、世間的には医療技術の父としてあがめられている男だった。
彼はマイクの前に立つと、ゆっくりと会場を見渡した。
「新入生の諸君、入学おめでとう。この宮城野高校は、ただの学び舎ではない。未来を切り拓く『実験場』だ」
その言葉を聞きながら、僕は招待状に記されていた内容を思い出す。世間には一切公表されていない「AIとの共存」という、この学校が隠し持つ真の目的。
「諸君らには、この三年で証明してほしい。知能と感情、あるいは人間が持つ『可能性』がどこまで届くのかを。……期待しているよ」
その瞬間だった。 壇上の理事長が、わずかに首を動かし、真っ直ぐにこちらを見た。
数千人がいるこのホールで、確実に、僕と彼の目が合った。 吸い込まれるような、底知れない深みを持った視線。記憶を失っている僕は、彼が何者であるかも、過去に何があったのかも分からない。けれど、その視線が重なった瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てた。言いようのない、首筋を撫でられるような不快な感覚が胸の奥にざらりと残った。
拍手の中で彼が退壇すると、入れ替わるように新入生代表の呼名が始まった。
「新入生代表、特進1組――宵待翡翠」
すぐ隣から「はい」という、透き通った返事が聞こえた。
僕の隣に座っていた少女が、静かに立ち上がる。
ステージのライトを浴びた彼女の姿に、会場全体の空気が一瞬で静まり返った。
ダークグリーンのブレザー。そして何より目を引いたのは、その背中で絹のように静かになびく、月光を溶かしたような銀髪だった。
彼女が壇上のマイクの前に立ち、宣誓の言葉を紡ぎ始める。その声は豊かで、聴く者の心に直接響くような美しさを持っていた。翠色の瞳が、神秘的な光を宿して輝く。
客席に座る僕と、遠く離れた壇上に立つ彼女。 距離があるから、彼女の正確な背丈までは分からない。けれど、ライトに照らされたそのシルエットは驚くほど端正で、どこか浮世離れした存在感を放っていた。
「……」
僕は、息をするのも忘れてその姿を見つめていた。理事長と目が合った時の不気味な感覚を塗りつぶすように、生まれて初めて心が激しく波打った。
(美しい……)
ただ、その一言だけが脳裏を支配する。 僕の空白だらけの世界に、初めて鮮やかな「色彩」が灯った瞬間だった。
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