第25話:A Taste of Memory
日曜日の朝。
いつもなら早朝5時に叩き起こされて地獄のトレーニングが始まるところだが、今日ばかりは違った。
「琥珀さん。昨日の松島での活動で、お互いにかなり疲労が溜まっているはずです。今日の早朝トレーニングは特別にお休みにしましょう」
「本当!? やった……!」
翡翠さんのその一言で、僕たちは久しぶりに遅めの起床を満喫し、ゆっくりと朝食をとった。
午前中。
僕は、奥のベッドエリアに二つ並んで置かれた勉強机の、自分のデスクに座り、金曜日にスポーツウェアと一緒に学校へ申請して届いていたゲーミングPCを立ち上げた。
デスク周りを彩るのは、支給品としてセットになっていたRazerのキーボードとヘッドセット、そして超軽量マウスの『Viper V2 Pro』だ。
僕はヘッドセットを装着し、新しくアカウントを作成したオンラインゲーム『League of Legends(通称LOL)』に没頭していた。
5対5で拠点を奪い合うこのゲームを、僕は記憶を失う前にもプレイしたことはない。完全に初心者からのスタートだった。
しかし――僕の頭脳は、盤面の情報をスポンジのように吸収し、瞬時に最適解を弾き出していた。
「敵のJGがトップに見えた。今のうちにボットレーンにガンク(奇襲)して、そのままドラゴンを取ろう」
僕が担当しているのは『JG』という、森を巡回しながら味方を支援し、盤面全体をコントロールする司令塔のような役割だ。
マップ上のわずかな視界情報、敵味方のスキル状況、リソースの計算。それらすべてが僕の頭の中で一つの数式のように繋がり、次の一手が鮮明に浮かび上がる。マウスを握る手は一切の迷いなく、Viper V2が的確にクリックを刻んでいく。
結果、僕の完璧なゲームメイクによって、味方チームは圧倒的な勝利を収めた。
「ふぅ……」
「……素晴らしい盤面制圧力ですね、琥珀さん」
「うわっ!?」
ヘッドセットを外すと、すぐそばから声がした。
すぐ隣のデスクで、分厚い参考書を開いて勉強していたはずの翡翠さんが、身を乗り出すようにして僕のモニター画面を真剣な眼差しで見つめている。
机が隣同士に並んでいるせいで、彼女が少し身を乗り出すだけで、その銀髪が僕の肩に触れそうなほど近い。
「全体の戦況を俯瞰し、数手先を読んでリソースを管理する。まるで高度な戦術シミュレーションのようです。琥珀さんの処理能力の高さには驚かされました」
「あはは、なんか全体が見えるっていうか、どう動けば勝てるか自然と分かっちゃうんだよね」
「……非常に興味深いです。私も、やってみたくなりました」
言うが早いか、彼女は手元のタブレットを操作し、学校の購買システムにアクセスした。
「私専用のゲーミングPCと、琥珀さんと同じデバイス一式を申請しました。来週の日曜日には届くそうです。私のデスクにも設置して、ご指導をお願いしますね」
「もちろん。来週は二人で並んで遊ぼうか」
昼食のうどんを挟んで午後もその続きをし、時計の針が午後3時を回った頃。
夕食にはまだ早い時間だが、僕はPCをスリープ状態にして、デスクから立ち上がりキッチンへと向かった。
(さて、そろそろ仕込むか)
エプロンを身につけ、冷蔵庫から卵白を取り出す。
アーモンドプードルと粉糖をふるいにかけ、卵白を丁寧に泡立ててメレンゲを作る。マカロン作りは温度や湿度の影響を受けやすく、お菓子作りの中でもかなり難易度が高い。だが、ゲームと同じように、僕の体と頭脳は完璧なマカロンの作り方を熟知していた。
絞り袋に入れた生地をオーブンシートに丸く絞り出し、しばらく乾燥させてからオーブンへ。
甘い香りが仕切りのない部屋全体に漂い始めると、隣のデスクで勉強に戻っていたはずの翡翠さんが、そわそわとした様子でキッチンの前にやってきた。
「……琥珀さん。なんだか、とても甘くて良い匂いがしますが」
「あ、ごめん。集中切らしちゃった?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、何を焼いているのかと」
オーブンを見つめる彼女の瞳は、少しだけ期待に揺れているように見える。
「ふふっ。これは夜ご飯の後のデザートのお楽しみ。今はまだ内緒」
僕がそう言って笑いかけると、彼女は「……そうですか」と少し残念そうに唇を尖らせて、再び並んだデスクの自分の席へと戻っていった。
マカロンの粗熱を取り、間に挟むガナッシュクリームを仕上げて冷蔵庫で冷やしておく。
午後5時を過ぎたあたりで、今度は本格的な夕食の準備に取り掛かった。
今夜のメインは、スパイスをふんだんに使った特製スープカレーだ。
鶏肉の表面をパリッと焼き上げ、素揚げしたナスやピーマン、かぼちゃなどの大きめの野菜をごろごろとトッピングする。スパイシーな香りが、今度こそ強烈に食欲を刺激した。
「お待たせ。夜ご飯、できたよ」
「……すごく美味しそうな香りですね。いただきます」
二人で向かい合って、スープカレーを口に運ぶ。サフランライスをスープに浸し、奥深い辛みと旨味を味わう。
「うん、美味しい。スパイスの調合、上手くいったかも」
「はい。野菜の甘みとスパイスの辛味が絶妙です。琥珀さんの料理の腕は、本当に素晴らしいですね」
ペロリとカレーを平らげ、食器をシンクに下げた後。
僕は冷蔵庫から、可愛らしい小皿に盛り付けた自家製マカロンを取り出し、翡翠さんの前にことりと置いた。
「これ、今日のおやつ。……というか、食後のデザートね」
淡いピンクとグリーンの、コロンとした丸い焼き菓子。
それを見た瞬間、翡翠さんは「あっ……」と小さく声を漏らし、目を丸くした。
「これ、琥珀さんがお昼から作っていたものですか……?」
「うん。マカロンって作るのが結構難しくてさ。翡翠さん、甘いもの好きでしょ? 口に合うといいんだけど」
「……いただきます」
翡翠さんは、まるで大切な宝物を扱うように両手でそっとマカロンを持ち上げ、小さな口でサクッと音を立てて一口かじった。
外側は繊細に砕け、中はしっとりとしていて、濃厚なガナッシュの甘さが広がる。
その瞬間――彼女の白い頬が、ふわりと柔らかく解けた。昨日、ジェラートを食べた時と同じ、年相応の無防備な顔だ。
「……っ、すごく、美味しいです……」
普段は決して表情を崩さない彼女が、大好きなスイーツを前にして見せる幸せそうな顔。
一目惚れした相手のそのあまりにも可愛らしい反応に、僕の心臓はまたしてもドクンと大きく跳ね上がった。
「よかった。苦労して作った甲斐があったよ」
僕が安堵して微笑むと、翡翠さんは手の中の半分になったマカロンをじっと見つめた。
個室のないこの部屋で、隣同士に並んだ机で別々のことをして、美味しいご飯と甘いお菓子を共有する。そんななんの変哲もない日曜日が、今の僕にとっては、たまらなく愛おしい。
そう思っていた、次の瞬間だった。
ふと、マカロンを見つめる彼女の至福の表情が切なげに歪み――透明な瞳から、ポロリと一筋の涙が零れ落ちた。
「えっ……翡翠さん!? どうしたの、味がおかしかったかな……」
僕が驚いて立ち上がると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「……すみません。違います、美味しくないわけじゃなくて……ただ、あまりにも……似ていたから」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、翡翠さんが震える声で語り始める。
「AIの世界にいる母親が、よく作ってくれたマカロンと……同じ味がして」
彼女の両親もAIだが、生活は決して裕福ではなかったのだという。だからこそ、学園からの招待状にある「多額の報奨金」を見て、両親に楽をさせたい一心でここへ来たのだと。
いい大学に入り、いい会社で働いて両親を養うために、必死で「完璧な優等生」を演じ、猛勉強に励んでいたのだ。
「私は……早く会いたいだけなんです。でも、まだそのための力が足りなくて……っ」
溢れ出す涙を拭おうともせず、せき止めていた弱音を吐き出す彼女。
僕はたまらず彼女のそばへと歩み寄り、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えながら、自分の空っぽな境遇を静かに口にした。
「……僕の両親はね、僕が幼い頃に死んじゃったんだってさ」
「えっ……」
「記憶を失って目が覚めた時、そう教えてもらったんだ。だから、僕にはもう、翡翠さんみたいに『恩返しをしたい両親』さえいないんだよ」
僕は、震える彼女の肩にそっと手を置いた。
「翡翠さんは、十分頑張ってるよ。完璧でいようとしなくていい。……会いたいって泣いたっていいんだよ」
自分よりも重いものを背負って、一人で走ろうとしていた少女。僕は、彼女を「パートナー」としてではなく、一人の大切な存在として守りたいと強く願った。
「翡翠。……無理しなくていいんだ。僕が、君の隣にいるから」
初めて、さん付けを外してその名を呼んだ。
翡翠は驚いたように濡れた目を見開いたが、やがて僕の言葉の温もりを感じ取るように、そっと僕の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。
窓の外では、静かな日曜日の夜が更けていく。
マカロンの甘い香りと、初めて通じ合った心。
並んだ机で過ごした時間から繋がった二人の距離は、この夜、決定的に縮まっていた。




