第24話:Weekend in Matsushima
金曜日の夜。
僕が腕によりをかけた夕食を食べ終え、僕たちはいつものように並んでキッチンに立ち、食器洗いをしていた。
僕が洗剤で泡立てた皿をすすぎ、隣で翡翠さんが丁寧にふきんで水気を拭き取っていく。スポンジと水が立てる規則的な音だけが響く、穏やかな時間だ。
「……そういえば、翡翠さん」
「はい、何でしょうか」
「今週も、氷室先生から『親睦課題』の写真提出が出てるよね。毎週のこととはいえ、どこに行くか決めておかないと」
この特例クラスでは、パートナーとの相互理解を深めるため、週末に必ず二人で外出し、その活動記録として写真を提出することが毎週の義務として課されていた。
「そうですね。琥珀さん、どこか希望の場所はありますか?」
「うん。実は、先週延期にしちゃった『松島』に、明日こそ行きたいなと思って。せっかく服も新調したし、今度こそ二人でゆっくり観光してみたいなって」
僕の提案に、翡翠さんはふきんを動かす手を止め、小さく頷いた。
「……賛成です。宮城を代表する観光スポットでの活動記録は、課題としても申し分ありません。明日の天候も晴れの予報ですし、絶好の外出日和になるはずです」
「よし、決まりだ。じゃあ明日は少し早起きして出発しよう」
そして迎えた、土曜日の朝。
僕たちは寮を出て、仙石線の駅へと向かった。ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、車内は休日を楽しむ観光客で賑わっていた。
「琥珀さん、今日は土曜日ですからかなり混雑しています。はぐれないように注意してくださいね」
「大丈夫だよ。こうして二人で電車に揺られて遠出するの、すごく楽しみだったんだ」
僕が素直な気持ちを口にすると、翡翠さんは少しだけ視線を逸らし、「……私も、同じ気持ちです」と静かに呟いた。胸元では、僕が贈ったシルバーのネックレスが揺れている。
およそ四十分ほどの旅路を経て、僕たちは松島海岸駅に降り立った。
改札を抜けると、磯の香りと共に食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。
「琥珀さん、あちらで行列ができていますね」
翡翠さんが指差したのは、名物の『カキカレーパン』を売る店だった。朝食から少し時間が経っていたこともあり、僕たちはさっそく並んで購入し、揚げたてを頬張る。
「……んっ。外はカリッとしていて、中に大粒のカキが丸ごと入ってる。これは美味しいね」
「ええ。カレーのスパイスとカキの旨味が絶妙なバランスで調和しています。素晴らしい一品です」
小腹を満たした僕たちは、遊覧船に乗り込み、松島湾を巡った。
島々の間を縫うように進む船の上で、潮風が僕たちの髪を揺らす。翡翠さんは手すりにそっと手をかけ、流れていく雄大な景色を真剣な眼差しで見つめていた。
その後、僕たちは松島のシンボルである『五大堂』へと向かうことにした。
しかし、週末の有名観光地だけあって、そこへ続く道や朱塗りの透かし橋の上は、すれ違うのもやっとのほどの観光客でごった返していた。
「っと、危ない」
大きな団体客が押し寄せてきた時、僕はとっさに翡翠さんの肩を庇うようにして、道の端へと避けた。
「……すみません。人が多すぎて、皆さんがどう動くのか全然読めなくて……」
「気にしないで。はぐれないように気をつけて行こう」
僕が再び歩き出そうとした時――ちょん、と、ジャケットの袖口を引かれた。
振り返ると、翡翠さんが僕の袖を指先で小さく、けれどしっかりと掴んでいた。
「……このままだと、絶対にはぐれてしまいますから。課題の進行に支障が出ないように……少しだけ、このままで」
耳の端を少し赤くして、必死に理屈っぽい言い訳をする彼女。普段の完璧な優等生が人混みに戸惑って頼ってくる姿に、僕は内心のドキドキを隠しながら「……うん」と頷き、ゆっくりと歩みを進めた。
五大堂の近くにある絶好のフォトスポットでは、課題のための写真も忘れずに撮影する。青空と松島湾を背景に並んで写る翡翠さんは、いつにも増して柔らかい雰囲気をまとっていた。
歩き疲れたところで、僕たちは人気のジェラートショップ『ポポロ』へと足を運ぶ。
「どれにするか迷うね。翡翠さんは決まった?」
「はい。私は『塩釜の藻塩とカボチャ』のダブルにします」
「じゃあ僕は『塩釜の藻塩とラムレーズン』のダブルにしようかな」
店外のベンチに座り、二人で冷たいジェラートを味わう。
「藻塩の塩気が甘さを引き立てていて、すごく美味しい……」
僕が感想をこぼして隣を見ると、翡翠さんは自分のカボチャのジェラートを一口含み――ふわりと、その白い頬を緩ませた。
「……美味しいです」
普段は凛としていて、滅多なことでは表情を崩さない彼女。けれど、大好きな甘いスイーツを食べた時にだけ、彼女はこんな風に年相応の可愛らしい笑顔を見せるのだ。一目惚れした相手の無防備で幸せそうな表情に、僕の心臓がトクンと大きく跳ねた。
「琥珀さん、一口いかがですか?」
不意に、彼女からスプーンが差し出された。
「え、いいの?」
ドギマギしながらも、僕は彼女のフレーバーを一口もらった。カボチャの優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しい。あ、じゃあ僕のも……」
僕が使っていたスプーンでラムレーズンをすくって差し出すと、彼女は躊躇なくそれを口にした。お互いのスプーンを自然に交換してシェアするその動作に、ふと(これって、間接キスだよな……)と意識してしまい、急激に顔が熱くなる。
翡翠さんはジェラートの美味しさに夢中なのか気にしていない様子だったが、僕の方はもう、冷たいスイーツの味など分からないくらい動揺していた。
帰りがけには、香ばしい醤油の匂いに誘われて、松島の煎餅屋に立ち寄った。美玻璃さんや雲母さんへのお土産の煎餅を買い込み、僕たちは再び仙石線に揺られて帰路についた。
寮の部屋に戻ると、心地よい疲れが全身を包む。
荷物を置き、僕はふと、今日一日ずっと隣にいてくれた彼女に向き直った。
「翡翠さん。今日は一緒に行ってくれて、本当にありがとう。最高の土曜日になったよ」
僕の言葉に、彼女は胸元のシルバーのネックレスにそっと指先で触れながら、静かに、けれど確かな温もりを込めて頷いた。
「……私も、今日はとても楽しかったです。琥珀さんと一緒に来られて、良かったです」
そう言って少しだけ照れたように視線を逸らした彼女の横顔を、僕はいつまでも眺めていた。
記憶を失う前の僕が何者であっても、今、この景色と時間を彼女と共有している。それだけで、僕の空白は温かく満たされていくような気がした。




