第21話:New Training
日曜日の朝。
昨夜のオイスターバーでの、少し気恥ずかしくも温かい余韻を残したまま、僕たちは静かな朝食の時間を終えた。
食後の温かいお茶を飲みながら、ソファーでゆっくりと休日の午前中を満喫して、少し時間が経った頃だった。
『ピンポーン』
不意にインターホンが鳴り、玄関のドアを開けると、宅配便の配達員が少し大きめの段ボール箱を抱えて立っていた。
リビングに箱を運び込み、カッターでテープを切って開ける。
中から出てきたのは、通気性の良さそうなスポーツウェアの上下と、真新しいランニングシューズだった。
ただ、デザインには一切の遊び心がない。シャツも、ハーフパンツも、その下に穿くスポーツタイツも、そしてシューズに至るまで、見事なまでにすべてが『真っ黒』だった。
「……届きましたね、琥珀さん」
キッチンの片付けを終えた翡翠さんが、箱の中身を覗き込んで頷いた。その華奢な首元には、昨日僕がプレゼントしたシルバーのネックレスが、朝の光を受けて静かに光っている。
「うん。金曜日に翡翠さんが『日曜から運動を始めるから、まずはウェアを用意しなさい』って言うから、ネットで適当に頼んでおいたんだよ」
「確かに用意してって言いましたけど……いくらなんでも全身真っ黒すぎませんか? もう少し色を入れるとか、考えなかったんですか?」
「いや、色を組み合わせたり選んだりするのが面倒くさくて。黒なら汚れも目立たないし、とりあえず無難かなって」
僕が苦笑いしながら言い訳をすると、翡翠さんは呆れたように小さくため息をついた。
「ファッションに無頓着な琥珀さんらしいというか……相変わらず適当ですね。まあ、動きやすければ問題ないです。それじゃあ、予定通り今日からトレーニング始めますよ。食休みも十分ですし、早く着替えてください」
「わ、わかってるよ。金曜日に約束したもんね……」
僕は重い腰を上げようとしたが、翡翠さんがタブレットを操作し、その画面をこちらへ向けた瞬間、動きがピタリと止まった。
そこには、恐ろしいほどの文字数でびっしりと書かれたトレーニングスケジュールが表示されていた。
「……えっと、翡翠さん? 金曜日は確か『まずは軽い運動から』って言ってなかったっけ?」
「はい。でも、昨日の『VS PARK』での様子を見て、琥珀さんの体力が思っていたよりずっと深刻な状態だって分かったんです。三年間のブランクがあるとはいえ、このままじゃ日常生活も危ういですよ。だから、メニューは私がしっかり組み直しました」
「組み直したって……なんだよこの量!」
僕の悲鳴をよそに、彼女は淡々とスケジュールを読み上げる。
「安心してください。私が琥珀さんの様子を見ながら、限界ギリギリのちょうどいいペースで進めますから。まずは準備運動して、近所を3キロランニング。そのあとは公園でインターバルトレーニングと、体幹を鍛えます」
「いやいやいや! 昨日の超短距離ダッシュだけで死にかけたのに、そんなフルコースは無茶だって! 絶対途中で倒れる!」
僕が慌ててソファーから逃げ出そうとするも、翡翠さんはスッと僕の退路を塞ぎ、有無を言わせない圧を放った。
「大丈夫ですよ。もし倒れたら、私が責任持って担いで帰りますから。さあ、早く着替えて外に出ましょう」
「担いで帰る前提なの!?」
昨日見せてくれたあの少し照れたような表情はどこへやら。
すっかり「スパルタコーチ」になってしまった翡翠さんに逆らうことはできず、僕は渋々、適当に選んだ真っ黒なスポーツウェアに袖を通した。
鏡の前に立ってみる。
「……あれ?」
適当に選んだ全身黒ずくめのウェアだったが、昨日美容室で整えてもらったばかりの髪型のおかげか、意外にも野暮ったさはない。むしろ、細身のシルエットが強調されて、自分でも驚くほど案外似合っていたのだ。
「……なんだ。もっと夜の不審者みたいになるかと思ったけど、これなら悪くないかも」
「うん。色が統一されてるから、引き締まって見えますね。適当に選んだにしては、案外似合ってますよ」
翡翠さんも少しだけ感心したように頷き、玄関のドアを開け放った。
春の爽やかな朝の空気が流れ込んでくるが、今の僕には地獄への入り口の風にしか感じられない。
「それじゃあ、行きますよ。しっかりついてきてくださいね」
こうして、僕の過酷な日曜日の朝――翡翠さんによる、愛と熱意に満ちた地獄のスパルタトレーニングが幕を開けた。
「ペース落ちてますよ、琥珀さん。まだいけますよね? あと1キロ、頑張ってついてきてください」
「無理、死ぬ……! 肺が、破ける……っ!」
家を出てからおよそ十数分後。
僕は近所のランニングコースを、息も絶え絶えになりながら走っていた。いや、正確には「走らされていた」。
隣を並走する翡翠さんは、スポーツウェアに着替えているものの、額に汗ひとつかいていない。呼吸すら乱さず、涼しい顔で絶妙なペースメイクをしてくる。
「はい、3キロ完走です。急に止まると心臓に悪いですよ。ほら、公園の芝生まで歩きましょう。次はインターバルと体幹のプランクです」
「鬼……! 悪魔……! スパルタコーチ……!」
「褒めても休憩時間は増えませんよ」
「褒めてない!!」
公園の芝生に到着すると、容赦のない体幹トレーニングが始まった。
「腰が下がってますよ、琥珀さん。まっすぐキープして。あと20秒!」
「ぐあああっ……! 腹筋が、千切れる……っ!」
全身の筋肉が悲鳴を上げ、汗がぽたぽたと芝生に落ちる。
黒いウェアを選んでおいて本当に良かった。グレーや色の薄い服だったら、今頃汗染みで悲惨なことになっていただろう。
「……はい、終了! 今日のメニュー、全部クリアです。お疲れ様でした、琥珀さん」
その言葉を聞いた瞬間、僕は糸が切れたように芝生の上に大の字になって倒れ込んだ。
視界がぐるぐると回り、春の青空がやけに眩しく見える。
ゼーゼーと荒い呼吸を繰り返していると、不意に、僕の顔に冷たい影が落ちた。
「よく頑張りましたね。私が思っていたより、ずっといいペースでしたよ」
見上げると、翡翠さんが僕の顔を覗き込みながら、冷えたスポーツドリンクのペットボトルを差し出していた。
太陽を背にした彼女の銀髪が、風に揺れてキラキラと光っている。胸元で揺れるシルバーのネックレスも。
「……死ぬかと思った」
「死なせないように、ちゃんと私がメニューを組んだんですから。大丈夫ですよ」
ペットボトルを受け取ると、彼女の指先が少しだけ僕の手に触れた。
スパルタで容赦のないコーチだけれど、その根底にあるのは、間違いなく僕の健康と未来を案じる彼女なりの優しさなのだ。
冷たいドリンクを喉に流し込みながら、僕は大きく息を吐いた。
全身は鉛のように重く、明日には確実に関節という関節が筋肉痛になるだろう。それでも――不思議と、嫌な気分ではなかった。




