第13話:Making Rules
宵待さんが洗面所から出てリビングの隅へ移動した気配がした後、僕は入れ替わるようにその空間へ飛び込んだ。
湯船に浸かっても、脳裏にこびりついた鮮烈な光景が消えてくれない。お湯の熱気と混ざり合う、甘く清潔な高級シャンプーの香り。さっきまで彼女がここにいて、あの無防備な姿で立っていたという事実が、温まった体内の血行をさらに加速させ、心臓の鼓動を早めていく。
(落ち着け……忘れろ。いや、忘れられるわけないだろ……)
数時間前の柔軟体操で背中に押し付けられたあの柔らかな感触が、さっき見てしまった黄金比のような曲線美の視覚情報と完全に結びつき、全身を駆け巡る。僕は冷たいシャワーを頭から浴び、無理やり沸騰しそうな思考を押し流して浴室を出た。
リビングに戻ると、すでに着替えを終え、ソファの端にちょこんと座る宵待さんがいた。
僕は彼女の姿を見るなり、迷わずフローリングに膝をつき、両手を突いた。
「宵待さん、本当にすみませんでした……!」
渾身の土下座。しかし、返ってきたのは、いつもの冷静さを取り戻そうと必死に努めているような、少しだけ上ずった硬い声だった。
「……頭を上げてください、瀬名さん。私も鍵をかけ忘れていました。お互い様ということで、この件は終わりにしましょう」
彼女は赤みが残る耳を隠すように銀色の髪を整えると、僕を真っ直ぐに見据えた。
「それよりも約束です。……ストレッチを始めます。床に座ってください」
「え、今? この空気で?」
「ハプニングとトレーニングは別問題です。……さあ」
結局、僕は彼女に促されるまま床に座らされた。風呂上がりで温まった僕の体に、宵待さんの細い指先が触れる。体育の時よりもずっと近い距離。さっき見てしまった瑞々しい肢体がすぐ後ろにあると思うと、柔軟どころではない。
「息を吐いて。……筋肉がまた緊張していますよ。リラックスしてください」
「……努力はしてる」
背中をぐっと押されるたびに、宵待さんの体温とほのかな香りが伝わってくる。必死で無心を装っていると、背後の彼女がひどく真面目な声で告げた。
「瀬名さんは、今日の体育でも明らかだったように、体力も筋力も圧倒的に不足しています。このままでは今後の学園生活に支障をきたします」
「うっ……それは、否定できないけど……」
「ですので、私が指導する毎朝のトレーニングメニューをこなしてもらいます。まずは基礎体力の向上からですね」
「毎朝……!? いやでも、僕、運動着なんて持ってないよ」
「問題ありません。学校の支給品申請フォームから、今すぐ要求しましょう。入学前に体の採寸は済んでいますから、希望するデザインを選ぶだけです」
言われるがままにタブレットを操作し、ウェアとランニングシューズの申請メールを送信する。自動返信には『配送予定:日曜日午前』と記載されていた。
「……届くの、日曜日だってさ」
「なるほど。今日は金曜の夜ですからね。では、本格的な始動は日曜日からです」
「……逃げ道はないってことだね」
「はい。パートナーの身体機能の維持向上も私の務めですから。逃がしませんよ」
有無を言わせない、けれどどこかお世話焼きな宣告に、僕はただ引きつった笑いを返すしかなかった。なんとか生殺しのようなストレッチの時間を終える。
「……よし、ご飯作るよ」
僕は逃げるようにキッチンへ向かい、買ってきた白菜や豚肉を切り始めた。
宵待さんはテーブルに向かい、今日のテストの復習を始めている。ペンが紙を滑る規則的な音だけが響く。この部屋には個室がない。寝る時も着替える時も、常に相手の気配があるのだ。
やがて、土鍋から豆乳鍋の優しい香りが漂い始めた。
カセットコンロをセットし、グツグツと煮え立つ鍋を囲む。
「……できました。食べよう」
「いただきます」
本来なら絶品のはずの豆乳鍋だが、僕の味覚は完全に麻痺していた。箸を動かすたびに、ふとした瞬間にさっきの光景がフラッシュバックする。
「……あの、宵待さん。今回のこともあったし、やっぱり二人でルールを作らないか?」
僕の提案に、彼女は箸を止め、少しだけ視線を伏せて頷いた。
「……そうですね。今回のようなケースを二度と起こさないためにも、はっきりさせておくべきだと思います」
食後、僕たちはテーブルを囲んで「401号室・共同生活ルール」を紙にまとめていく。
お風呂・脱衣所:洗面所と脱衣所は繋がっているので、使用中は必ずドアに「使用中」の札を出し、ノックなしで開けないこと。
・着替え:宵待さんは洗面所、僕はリビングで行う。一人が洗面所を使っている間は、もう一人はリビングで待機。
・ 家事分担:食事の用意は琥珀、お風呂掃除は宵待さん。ごみ捨ては交互。
・ 買い出し・片付け:食材の買い出しは原則二人で。食器洗いは二人で一緒に行
う。
・ 就寝時間:原則23時。ただし、状況に応じて臨機応変に変更可。
「料理は僕が担当するよ。一人暮らしの時の癖で、台所に立つのは苦じゃないから」
「……よろしいのですか? でしたら、その分お風呂掃除は私が責任を持って完璧にこなします」
「うん、お願い。あ、ごみ捨てはどうする?」
「それは公平に、曜日で交互に担当するのはいかがでしょう」
「賛成。あと、食器洗いなんだけど……」
「それもきっちり分担しますか?」
「いや、これは二人で一緒にやった方が早いし、楽かなって」
僕がそう提案すると、宵待さんは少しだけ目を丸くした後、小さく頷いた。
「……なるほど。確かに、一緒に作業をした方がその日の予定や情報共有もしやすいですね。賛成です」
書き上げたルールを見つめ、僕はようやく一息ついた。宵待さんもその紙をじっと見つめ、「守りましょう」と短く答えた。
ルールで決めた23時。部屋の明かりを落とし、それぞれの布団に入る。
静まり返った室内には、宵待さんの微かな寝息だけが聞こえてくる。
(……ダメだ。全然眠れない……)
目を閉じれば、暗闇の中にあの光景が浮かび上がる。
普段の完璧で隙のない彼女と、さっき洗面所で見せた真っ赤な顔。その落差を思い出すたびに、心臓の奥がじわじわと熱を帯びていく。
さらに、さっきの柔軟で触れられた場所が、まだ熱を持っているような気がしてならない。明後日からは早朝トレーニングも始まるというのに。
同居生活二日目。これから毎日、この距離感で過ごしていくのか。
僕は寝返りを打ち、天井を仰いで深いため息をついた。




