第11話:Physical Education
テスト返しが終わり、1時間目から4時間目の授業へと移る。
この特例クラスに配属された教師たちの教え方は一級品で、難解な数式も複雑な歴史的背景も、まるで霧が晴れるように頭に入ってきた。僕は黒板の要点を、中学の頃からの癖で教科書をパラパラと捲るように脳へ転写していく。
昼休み。学食では昨日と同じように、僕と宵待さん、黒峰さん、綾瀬さんの4人でテーブルを囲んだ。
「……どうして、ここでこんなミスをしてしまったんでしょう。自分でも理解に苦しみます……」
宵待さんは自分の答案を凝視して、小さく肩を落としていた。
今朝返却されたテスト結果には、学年全体の成績ではなく、この特例クラス32名の中での『クラス順位』だけが記されていた。彼女はその中で見事1位を獲得したというのに、防げたはずの失点がどうしても気になるらしい。
「いいじゃない、1位なんだから。私なんて、次は頑張る!!って言わないとやってられないわよ」
黒峰さんは豪快に高級な肉料理を頬張る。そして、ふと思いついたように僕の方へ身を乗り出してきた。
「あ、そうだ琥珀! 次に向けて、私に勉強教えなさいよね! お礼に、私の分の特製デザートをあんたに譲ってあげるから!」
「……え、いいの?」
「構わないわよ! その代わり、きっちり叩き込みなさいよね!」
いつもの不遜な態度のまま、彼女はさらりと提案してくる。僕が曖昧に頷くと、黒峰さんは満足そうに笑った。その隣で、クラス3位の雲母さんはどこか浮世離れしたような、ゆったりとした動作で極上のスープを口に運んでいた。
「ふふっ、三人ともお勉強に熱心ねぇ。でも、午後は頭より体を使う時間よぉ。次は体育だし、琥珀くんは男の子だから楽しみなんじゃないかしら?」
綾瀬さんの穏やかな微笑みと、話題を切り替えるような言葉に、僕は曖昧に頷く。
……正直、楽しみよりも不安が勝っていた。3年間も眠り続けていた僕の体は、知識として最適な「動き」は知っていても、それを実行するだけの出力が欠けているのだ。頭の中で描く理想の動きと、現実の重い体がまったく結びつかない、あのもどかしい感覚。
5時間目。体育館に集合した僕たちの前に、巨大な影が立ちはだかった。
「おーっし! 全員整列! 1分以内に並べぇ!!」
鼓膜が震えるほどの爆音。そこにいたのは、はち切れんばかりの筋肉をトレーニングウェアに詰め込んだ男、体育教師の剛田鉄だった。
「俺が体育担当の剛田だ! 巷じゃアイアン先生なんて呼ばれてるが、お前らも好きに呼べ! ただし、返事と気合が足りない奴は、俺の特製サーキットトレーニングが待ってると思え!!」
アイアン先生は白い歯を輝かせ、重戦車のような足取りで歩き回る。
「まずは準備体操! その後、腹筋・腕立て・背筋を各20回だ! 筋肉の声を聞けぇ!!」
号令に合わせて体を動かす。教本通りの「正しいフォーム」を意識するが、10回を過ぎたあたりで僕の腕は目に見えて震え始めた。3年の空白は残酷だ。なんとか20回を終え、肩で息をする僕の前に、先生の分厚い胸板が迫る。
「ほう、瀬名! お前のフォーム、教科書に載せたいくらい完璧じゃないか! ……だが、筋力と体力がゴミ同然だぞ! 3年も寝てたからって甘えるな! 食え! もっと肉を食って筋肉を喜ばせろぉ!!」
「……は、はい。善処します……」
続いてペアでの柔軟。僕が床に座って足を広げると、背後に宵待さんが回った。
「瀬名さん、背中を押しますね。……しっかり伸ばします」
宵待さんの細い指先が背中に触れる。昨夜知ったばかりの事実――彼女の体が機械ではなく、血の通った生身の女性の肉体だということが頭をよぎり、急激に心拍数が跳ね上がった。
「あ、あの、宵待さん。あんまり強く押さなくても……」
「ダメです。効率的に柔軟性を高めるには、適切な負荷が必要です」
そう言って、彼女がグッと前傾姿勢になり、僕の背中に体重をかけてきた。
その瞬間、背中越しに、ふわりと柔らかな双丘の感触がダイレクトに押し付けられた。
(……っ!? や、柔らかい……!)
体操服越しに伝わってくる、生々しいほどの弾力と、確かな女性の体温。さらに至近距離から、彼女のうなじから漂う甘く清潔な香りが鼻腔をくすぐり、僕の思考を完全にショートさせる。
「っ!? 宵、宵待さん、ちょっと、近……!」
「? どうかしましたか? どこか痛いですか?」
不思議そうに小首を傾げる彼女に、密着しているという自覚や羞恥心は微塵もない。本当にただ、僕の体を心配しているだけだ。
逆に、押し当てられている僕の方だけが彼女の柔らかな質量と熱を直に感じてしまい、下腹部が粟立つような感覚と共に、顔が爆発しそうに熱くなるのを抑えられなかった。
「……それにしても瀬名さん、体が硬すぎますね。これでは怪我のリスクが極めて高いです。今夜から、お風呂上がりに私がストレッチのサポートをします。日課にしましょう」
「えっ……ま、毎晩、これをやるの……!?」
「はい。パートナーの身体機能の維持向上も私の務めですから」
真顔で宣告され、基礎メニューが終わる頃には、僕は精神的にも肉体的にも限界ギリギリまで追い詰められていた。
その後、クラスは半分に分かれ、僕たちは外のテニスコートへ移動した。
「よし、ここからは教室で決めた4人1組の班でラリー練習だ! 班ごとにコートへ散れ!」
アイアン先生の豪快な指示が飛ぶ。僕と宵待さんが顔を見合わせていると、背後から聞き馴染みのある声がした。
「琥珀! 翡翠! 私たち同じ班でしょ、早くコート入るわよ!」
ラケットを軽快に振りながら、黒峰さんが雲母さんを連れてやってきた。
「ふふ、よろしくねぇ。琥珀くん、さっきの筋トレで疲れちゃったかしら?」
綾瀬さんはぽわんとした優しい笑顔を浮かべている。
コートに入り、黒峰さんが鋭いサーブを放つ。対角線上の宵待さんがそれを完璧なフォームで打ち返す。二人のラリーは火が出るほど鋭く、運動神経の良さが一目でわかった。
その一方で、綾瀬さんはといえば――。
「えいっ、あ……。ふふ、また空振りしちゃったわねぇ」
ゆったりとした動作でラケットを振るが、ボールは無情にも通り過ぎていく。それどころか、足元のボールに躓き、「きゃっ」と派手に転んでしまった。
「ちょっと、雲母! 大丈夫!? 怪我してない?」
黒峰さんが慌てて駆け寄る。
「ごめんなさいねぇ、美玻璃ちゃん。なんだか地面が動いた気がするわぁ」
運動音痴にも程があるが、綾瀬さんの穏やかな空気がその場を和ませていた。彼女が「穴」になるおかげで、ラリーは意外にも均衡を保っている。
黒峰さんが強引に前に出てきた瞬間、僕の目には彼女のポジショニングの甘さが、はっきりとした「隙」として映り込んだ。
頭の中の『理想の軌道』と、今の自分が出せる『出力』を瞬時に計算し合わせる。
「……右が、がら空きだ」
僕は震える腕を無理やり固定し、手首の角度だけでコースを変える。最小限の力で放たれたボールは黒峰さんの逆を突き、無人のスペースへと吸い込まれていった。
「ちょっ、何今の!? 琥珀、あんたテニスもあんなに上手かったっけ?」
驚く黒峰さんを余所に、僕はラケットを杖代わりに肩で息をつく。
「……たまたまだよ」
「……ふーん。次は負けないからね!」
結局、体力のない僕と運動音痴な綾瀬さんが交互にミスをし、宵待さんと黒峰さんのハイレベルな打ち合いがそれを帳消しにするという、奇妙に白熱したラリーがチャイムまで続いた。
春の柔らかな風の中、全身を襲う凄まじい倦怠感に耐えながら、僕はこれからの学園生活の前途多難さを思って小さくため息をつく。
……おまけに今夜からは、あの過酷なストレッチまで日課に加わってしまうのだから。




