第9話:Not a Doll
手作りプリンの甘い余韻が残る、夜のキッチン。 僕たちは並んで立ち、夕食の片付けをしていた。僕が洗剤を含ませたスポンジで皿を洗い、宵待さんが隣でふきんを使って丁寧に水気を拭き取っていく。
「宵待さん、さっきのプリン……口に合ったならよかったよ」
「はい。とても美味しかったです。素晴らしい糖分と卵の調和でした」
少しだけ声のトーンが高い彼女の横顔を見つめながら、規則正しい水の音だけが響く静かな時間が流れる。
目覚めてから今日まで、慣れない環境に来たばかりの僕は、自分のことで精一杯だった。だから、隣にいる彼女が「AI」であるという根本的なことについて、深く考える余裕すら、今の今までなかったのだ。
ふと、隣で迷いのない手つきで皿を拭く彼女を見て、素朴な疑問が口をついて出た。
「ねえ、宵待さん。……ふと思ったんだけど、AIの君に、食事って必要なの?」
「はい。私の身体組織は、細胞から器官に至るまで、構成物質は人間と同一です。摂取した有機物は代謝され、血肉となります。……ですから、食べなければ私は餓死しますし、不摂生をすれば太ることもあります。人間と同じように」
彼女は皿を拭きながら、あまりに当たり前のことのように言った。
「じゃあ……怪我をすれば血が出るし、傷跡も残るのか?」
「ええ、痛みも感じますし、生体修復機能で傷も治ります。……触れてみますか?」
宵待さんが手を止め、僕の方へ右手を差し出してきた。僕は少し戸惑いながらも、泡を洗い流した自分の右手を重ねる。 指先が触れ、手のひらが合わさった瞬間、微かな震えが伝わってきた。
(……温かい)
それは機械の振動ではなく、脈打つ鼓動と、僕と同じ確かな体温だった。しっとりとした肌の柔らかで生々しい質感は、どこをどう見ても、僕たちと同じ「生身の女の子」そのものだ。
「この肉体に使われている技術は、世間では革新的な医療として公表されています。欠損した手足を再生させたり、病んだ心臓を作り替えたり……皇凱厳理事が『医学の父』としてノーベル賞を授与されたのも、この肉体の生成技術を確立したからです。……そして、私たちには人間と全く同じ生殖機能も備わっています」
手をつないだまま、彼女は少しだけ視線を伏せた。その透き通るような白い頬が、ほんのりと桜色に染まっていく。
「……ですから、その。人間と同じように恋をして、愛する人と体を重ねれば……私のお腹に、子供を身籠ることだって、できるんですよ」
「……っ!?」
繋いだ手から伝わる体温が、急に火がついたように熱を持った気がした。 『体を重ねる』『身籠る』という艶を帯びた言葉が、目の前にいる美少女の口から紡がれた破壊力は凄まじかった。彼女がただの機械ではなく、一人の「女性」として機能するという事実が、思春期の僕の理性を激しく揺さぶる。
「あ、いや……ごめん。そんな話をさせるつもりじゃなくて……っ」
「……? 私は構造上の事実を述べたまでですが。瀬名さんは、顔が真っ赤ですよ」
宵待さんは不思議そうに首を傾げたあと、ふっと悪戯っぽく口元を緩めた。 「意外と、そういう話題には耐性がないのですね」
からかうような彼女の視線と、繋いだ手から伝わる甘い香りに耐えきれず、僕は逃げるように手を離し、強引に話題を切り替えた。
「……じゃ、じゃあ、君たちは、どこから来たんだ? どこで育った?」
「私たちは、あちら側の世界――AIの世界で生まれ、成長しました。そこには土地があり、似たような歴史が刻まれ、両親がいて、独自の文明が築かれています。姿形も、あなたたちと何も変わりません。ただ一つ、この『脳』を除いては」
宵待さんは自分のこめかみに、指先をそっと当てた。 「生命には『魂』という核が必要で、それは作り出すことは不可能だと結論づけられたんです。だから、私はあちら側の世界で授かった魂を、この脳内のチップにインポートして、この世界に来ています」
「……魂。じゃあ、君たちは死なないのか?」
「いいえ。魂にも『寿命』があります。チップが磨耗に耐えられなくなれば、私たちは活動を停止します。それは人間と同じく、避けられない死です。……それに、一度壊れてしまった魂を修復して死者を蘇らせることも不可能です」
彼女が先ほどまで僕と繋いでいた手は、どこまでも温かく、柔らかかった。
「だから……瀬名さん。私たちは、お風呂に入らなければ不衛生になりますし、手洗いやうがいを怠れば、ウイルスに感染して風邪もひきます。人間に可能なことはすべて可能で、不幸もすべて私たちに起こり得るんです」
その言葉の重みに、僕は唾を飲み込んだ。
「あ、それと……今の話は、ここだけの秘密にしてください。AIの世界の存在は、この世界では公にされていません。人々は、私たちが高度なプログラムで動く『精巧な人形』だと思い込んでいます。……記憶喪失のあなたには、これが世界の常識に見えるかもしれませんが、決して外で口にしないでくださいね」
釘を刺すような彼女の真剣な眼差しに、僕は力強く頷いた。 人と同じ体温。人と同じ弱点。そして、一度きりの命。 右手に残る柔らかな熱と艶かしい言葉の響きをなぞりながら、僕は思う。 目の前の少女を「AI」という記号で片付けるには、彼女はあまりに――人間に、そして「女の子」に近すぎた。
明日はいよいよ、初めての学力テストの返却日だ。 深い闇の中で、一メートル先にいる彼女の微かな寝息が、昨夜よりもずっと生々しく、近くに感じられた。
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