帰結
さっきの光景が、まだ頭から離れない。
空中で止まったボール。
——ありえない。
「あの……今のは……?」
喉が乾く。
言葉が引っかかる。
どう聞けばいいのかも分からないまま、ミラはそれでも問いを投げた。
シチは振り返る。
何事もなかったみたいに、軽く。
「ああ、あれは気にしなくていいよ」
間を置かない。
「それより——君、朝は何を食べた?」
思考が止まる。
あまりにも唐突で、意味が繋がらない。
風が吹く。
木々が揺れる音が、遠くで鳴る。
「え……」
少し遅れて、言葉を探す。
「コーンフレークを……」
自分でも、どうでもいい答えだと思った。
「コーンフレーク……」
シチは小さく繰り返す。
評価するでもなく、否定するでもなく、ただ音としてなぞる。
「あの……どうして急に、そんなことを……」
「朝食っていうのはね」
軽い口調。
けれど、どこか断定的だった。
「その人が出る」
一歩、歩く。
靴底が地面を擦る音が、妙に乾いている。
「もちろん例外はあるけど」
「急いでいたとか、そういうのも含めて」
ミラは少し迷ってから、聞き返す。
「……シチさんは?」
ほんの一瞬だけ、沈黙。
それから、シチは少しだけ笑った。
「私かい?」
視線を空に向ける。
雲がゆっくり流れていた。
「食パンだよ」
「焼かないやつ」
一拍。
「何もつけない」
「……味、あんまりないですよね?」
思わず出た言葉だった。
シチは肩をすくめる。
「いや、普通に美味しいよ」
あっさりと言う。
「単純な味は飽きない」
風が、少し強くなる。
白い雲の影が、地面をゆっくりと横切る。
「変わらないものは、扱いやすい」
その言い方に、ほんのわずかに違和感が混じる。
“食べる”じゃなくて、
“扱う”。
シチは続ける。
「咀嚼していくと、少しだけ甘くなるだろう」
「最初と最後で、ほんの少しだけ違う」
「そのくらいでいい」
言い切る。
それ以上は語らない。
そして、思い出したみたいに付け足した。
「……あと、プリンも食べた」
「プリン……ですか」
「ああ」
今度は、はっきりと笑う。
「普通に美味しいしね」
一瞬、間が空く。
「……崩れ方も、素直だ」
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からない。
でも、その言葉は——
どこかで、知っている気がした。
シチは視線を戻す。
何事もなかったみたいに。
「まぁ、どっちも単純でいい」
「このくらいの方が、観察しやすいからね」
——観察。
その一言が、妙に引っかかる。
私は何も言えない。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
その瞬間、はっとする。
——そうだ。
ループした直後。
いつもなら。
上司が現れて、スピカのカルテを渡される。
何度も繰り返してきた、決まった流れ。
狂ったことは、一度もなかった。
なのに——
今回は、来なかった。
代わりに現れたのが、この人だ。
シチ。
知らないはずの存在。
どの記憶にも、引っかからない。
なのに、ここにいる。
胸の奥が、ざわつく。
理解が追いつかない。
「どうしたんだい?」
不意に声をかけられ、思考が途切れる。
顔を上げると、シチがこちらを見ていた。
相変わらず、何も変わらない表情で。
「あ……いえ」
一瞬、言葉に詰まる。
「なんでもないです」
視線を逸らす。
考えを見透かされる気がして。
「それより……」
喉を整える。
確認するように、言う。
「私は……スピカのカウンセラー、なんですよね」
シチは「ああ」と軽く頷いた。
「そうだったね」
まるで、今思い出したみたいに。
ポケットに手を入れたまま、もう片方の手で書類を取り出す。
どこから出したのか、一瞬分からなかった。
差し出される。
白い紙の束。
見慣れた形式。
見慣れた重さ。
私はそれを受け取る。
指先に、現実の感触が戻る。
——同じだ。
内容も、構成も。
今までと変わらない。
スピカのカルテ。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言う。
けれど、違和感は消えない。
上司ではない。
手渡してきたのは、この人だ。
それでも——
役割は、変わらない。
スピカのカウンセラーになる。
その事実だけが、
やけに静かに、そこにあった。
カルテを握る。
見慣れた重さ。
見慣れた内容。
——なら。
やることも、同じはずだ。
私は一歩踏み出す。
「……そろそろ」
足が、自然と前に出る。
「スピカのカウンセリングに行かないと……」
少しだけ、焦りが混じる。
遅れたことはない。
一度も。
この流れだけは、守ってきた。
——守らなければいけない。
そのはずなのに。
「まぁまぁ」
軽い声が、横から差し込む。
足が止まる。
シチが、少し笑っていた。
「そんなに焦らなくていいじゃないか」
「……え」
間の抜けた声が出る。
シチは肩をすくめる。
「今日はまだ、カウンセリングの日程じゃないからね」
——一瞬。
意味が、理解できなかった。
「……は?」
思考が止まる。
「いや……でも」
言葉がうまく出てこない。
頭の中で、記憶をなぞる。
違う。
違う。
違う。
初日だ。
今日だ。
この時間だ。
ここから始まるはずだった。
「そんなはず……」
声が小さくなる。
確信が、揺らぐ。
シチは気にした様子もなく、首を傾げる
「そんなはず?」
軽く言う。
この人の言葉全てが、引っかかる。
遠いところにあって掴めないようなそんな感覚に陥る。
シチは一瞬だけこちらを見る。
ほんのわずかに、目が細まる。
「どうしたんだい?ぼーっとして。」
それだけ言って、視線を戻す。
まるで、大したことじゃないみたいに。
風が吹く。
木々が揺れる。
さっきと同じ音のはずなのに、
少しだけ違って聞こえた。
「……じゃあ」
行き場を失った言葉が、零れる。
「今日は、何を……」
シチは少し考えるように間を置いてから、
軽く笑った。
「せっかくだ」
「少し歩こうか」
あまりにも自然に言う。
まるで、
最初からそういう予定だったみたいに。
二人はゆっくりと歩き出す。
砂利を踏む音が、規則的に続く。
朝の光は柔らかく、影もまだ淡い。
風が抜けるたびに、葉がざわ、と揺れる。
どこにでもあるはずの風景。
けれど、どこか現実感が薄い。
「こうして外を歩くのは、嫌いじゃない」
シチがぽつりと呟く。
視線は前に向けたまま。
「施設の中は、どうしても“流れ”が固定されるからね」
——流れ。
その言葉に、わずかに反応してしまう。
「外は違うんですか」
「多少はね」
間を置かずに返ってくる。
「少なくとも、予定通りじゃないことが起きる。」
軽く言う。
まるで、それを面白がっているみたいに。
ミラは何も言えない。
ただ隣を歩く。
足音だけが揃う。
「うーん、せっかくおしゃべりに誘っておいてなんだけど話題がないなぁ…」
しばらくして、シチが思い出したように口を開く。
「そういえばね」
「昔こういうことがあってさ」
ミラは視線だけ向ける。
シチは続ける。
「ある事業で、とても優秀な人材が必要になったんだ」
「でもその人、どうしてもチームに入りたがらなくてね」
風が吹く。
木の葉が擦れる音が、わずかに間を埋める。
「皆でどう説得するか悩んでいたときに——」
シチは少しだけ口元を緩める。
「私、こう言ったんだ」
一拍。
「“断るならクビにすればいいんじゃない?”って」
ミラがわずかに眉をひそめる。
「……冗談、ですよね」
「もちろん」
即答だった。
「その場ではね」
さらりと言う。
「で、しばらくして」
シチは視線を少しだけ落とす。
「今度は私が、別の仕事を断ったんだ」
少しだけ、間。
「そしたら上司にこう言われたよ」
声色をほんのわずかに変える。
「“クビにでもすればいいんじゃないかな?”ってね」
ミラは息を呑む。
シチは肩をすくめた。
「巡り巡ってやつだ」
軽い口調。
まるで、本当に大したことじゃないみたいに。
「……それで終わりですか?」
思わず聞いてしまう。
シチは少し考える素振りをしてから、
「ああ、いや」
と小さく笑った。
「その後、社内で“最も愚かな女”って呼ばれていたらしい」
さらっと言う。
風が吹く。
さっきより、少しだけ強い。
ミラは言葉を失う。
何か言うべきなのに、
何も出てこない。
「……笑っていいんですか、それ」
「さあ?」
シチは前を見たまま答える。
「少なくとも私は、面白いと思っているよ。」
一歩、踏み出す。
足音が、わずかにずれる。
「言葉ってね」
ぽつりと続ける。
「思っているより、残るんだ」
風が止む。
一瞬だけ、音が消える。
「どこかに留まって、」
「忘れた頃に、ちゃんと返ってくる」
ゆっくりとした口調。
けれど、その一つ一つが妙に重い。
「避けたつもりでも、順番を変えてでも——」
そこで、ほんのわずかに言葉を切る。
「ちゃんと巡る。」
ミラの胸が、強くざわつく。
理由は分からない。
けれど、その言葉は——
聞き流してはいけない気がした。
「……順番を、変えてでも?」
思わず、繰り返す。
シチは少しだけ視線を寄越す。
ほんの一瞬。
「そう」
短く答える。
それ以上は、何も言わない。
また前を向く。
風が戻る。
木々が揺れる。
さっきと同じはずの音なのに、
どこか違って聞こえる。
ミラは歩きながら、
自分の手の中のカルテを見る。
白い紙。
変わらないはずの内容。
——なのに。
頭の中で、何かが噛み合わない。
順番が。
流れが。
少しずつ、
ずれている。
「……」
言葉にならない違和感が、胸の奥に溜まっていく。
その隣で、
シチは何も言わずに歩いていた。
ただ、それだけが——
やけに引っかかった。




