箱庭
スピカは、ただ静かに花を見ていた。
白い花びらが風に揺れる。
朝の光が差し込み、花壇の影がゆっくりと地面をなぞっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
箱庭の朝は静かだ。
遠くで木の葉が擦れる音が聞こえる。
それ以外には、ほとんど何もない。
「……この場所、広いですね」
スピカは花壇の向こうを見ながら言った。
「思ってたより、ずっと」
私は周囲を見渡す。
「ここだけ見れば、施設の中とは思えないかもしれない」
「ええ」
スピカは小さく頷く。
「むしろ、外より外みたいです」
花壇の向こうには林があり、その奥にはいくつかの建物が見える。さらに遠くには、小さな丘もあった。
「そうだね。ここには色々な施設もあるし、時間があれば案内するよ」
スピカはゆっくり歩き出した。
砂利道を踏む音が小さく続く。
私はその横を並んで歩く。
「ここって……」
少し迷うようにして、スピカが言った。
「『箱庭』って呼ばれてるらしいですね」
私は軽く頷く。
「そう呼ぶ人もいるね」
「職員の人が話していました」
スピカは前を向いたまま続ける。
「異能力者は、ここから外には出られないって」
風が吹き、木の葉が揺れ、光がちらついた。
やがて、遠くに淡く光るものが見えてきた。空気が揺れているような、不思議な光。虹色の膜のようなものが、遠くに広がっている。
スピカの足が止まる。
「あれ……」
視線の先を見上げる。
「結界ですか?」
「ああ」
虹色の膜は、水面のようにゆっくり揺れていた。空を覆うように広がり、箱庭を包み込んでいる。
スピカはしばらくそれを見ていた。
「あの障壁、触ったらどうなるんですか?」
スピカが結界を見上げながら言う。
私は少し考えて答えた。
「多分触れられない……あと、壁じゃないんだ」
「え?」
「正確には、物理法則が歪んでる…というか…」
スピカが首を傾げる。
「……どういう意味ですか」
「あの膜の近くでは、物体が停止する。動けなくなるんだ。」
私は遠くの虹色の光を見る。
スピカは黙って聞いている。
「だから外から見ると——」
私は少し笑った。
「境界の前で、止まって見える」
スピカが小さく呟いた。
「じゃあ……」
「越えられない」
スピカは小さく息を吐いた。それ以上は何も言わない。
少しだけ、空気が重くなる。
私はその空気を切るように歩き出した。
「あ、そうだ」
思い出したように私は言った。
「この先にクレープが売ってるんだ」
スピカが少し驚いた顔をした。
「クレープ、ですか?」
「うん。箱庭の中にも、そういう店はある」
私は林道の方へ進む。道は細く、木々の間を抜けて続いている。
迷うことなく、私は曲がり角を一つ曲がった。
少し歩くと、花壇の横を通り過ぎる。小さな紫の花が群れて咲いていた。
スピカが足を止める。
「この花……」
少し近づいて眺める。
「見たことあります」
「スターチスだね」
風が吹き、紫の花が静かに揺れた。
スピカはしばらくそれを見ていたが、やがて歩き出した。
林を抜けると、小さな屋台が見えてくる。木で作られた簡単な店だ。甘い匂いが漂っていた。
「ここだよ」
私は言う。
スピカは少し驚いたようだった。
「こんなお店もあるんですね」
「箱庭は意外と色々ある」
私はメニューを見ながら聞いた。
「何がいい?」
スピカは少し迷ったあと言う。
「……なんでもいいです」
私は苦笑いを浮かべた。
「それは一番困る答えかな」
スピカが少し笑う。
「じゃあ、おすすめで」
「責任重大だね」
スピカは少し笑った。
「食べ物の好き嫌いはあまりないので」
私はメニューに目を落とす。いくつか並ぶ名前の中から、一つを選んだ。
「ブルーベリークレープを二つ」
店員が頷く。
少しして、紙に包まれたクレープが差し出された。
私は一つをスピカに渡す。
スピカはそれを受け取り、少し目を丸くした。
「……ブルーベリー」
そして、小さく笑う。
「これ、好きなんです」
私は肩をすくめた。
「なんとなくそんな気がした」
スピカは少し不思議そうな顔をしながらも、クレープを一口食べた。甘い匂いが風に流れる。その表情が、ほんの少し柔らいだ気がした。
箱庭の空は静かだった。遠くで、虹色の結界がゆっくりと揺れている。その光は、まるで空を閉じ込めているみたいだった。
スピカはクレープを食べ終え、紙を小さく折りたたむ。
「ごちそうさまでした」
そう言って、少しだけはにかむ。その表情を見てから、私は小さく息を吐いた。
「……そろそろカウンセリングは終わろうか」
スピカが顔を上げる。
「もうですか?」
「うん。初回はこのくらいがちょうどいいんだ」
私は軽く肩をすくめた。
「長くやりすぎると、かえって疲れちゃうからね」
スピカは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……わかりました」
風が吹き、林の葉が静かに揺れる。私は空を見上げた。虹色の結界が、遠くでゆっくりと揺れている。
——この時間を越えると、よくない。
そんな感覚だけが、胸の奥にわずかに残っていた。




