心を診るものは、自分を診れない
ミラとシチは箱庭の結界に近づく。
障壁は、思っていたよりも近かった。
透明なはずなのに、
確かに“そこにある”と分かる。
光が、わずかに歪んでいる。
空気が揺れる。
熱でもないのに、輪郭だけがぼやける。
ミラは足を止めた。
無意識だった。
隣で、シチは何でもない様子でそれを眺めている。
「うん。不具合はないね」
軽い声だった。
確認、というよりは——
既に知っているものをなぞるような響き。
ミラは少しだけ眉を寄せる。
「ここの責任者とはいえ……見ただけで分かるんですか」
「もちろん」
間を置かない返答。
それ以上の説明はない。
シチは一歩、障壁に近づく。
ほんの一瞬だけ、
視線が“奥”をなぞった。
触れてはいない。
それでも、
——何かを見ている。
そんな感覚だけが残る。
「そうだ」
何かを思い出したみたいに、シチが振り返る。
「少し、ARCから出てみないかい?」
唐突だった。
ミラは一瞬、言葉を失う。
「え……箱庭の外ですか」
視線が、もう一度障壁へ戻る。
越えたことはない。
越えようと思ったことも、なかった。
「ん?箱庭って言っていたかな?」
シチは少しだけ笑う。
「ああ、そういう言い方もあったね、言い得て妙だ。」
否定も肯定もしないまま、軽く流す。
「うん。気分転換だよ」
「カウンセリングは、話しやすい場所の方がいい」
あまりにも自然に言う。
最初から、そのつもりだったみたいに。
ミラは何か引っかかるものを感じた。
けれど、
それが何なのかを考える前に、
いつもの癖が働く。
——やめておこう。
深く考えても、ろくなことにならない。
「……はい」
小さく頷く。
「行きましょう」
シチは迷いなく歩き出す。
障壁へ。
ミラは一瞬だけ立ち尽くし、
それから後を追った。
一歩。
もう一歩。
近づくたびに、
空気の感触が変わっていく。
重さがあるような、
ないような。
輪郭だけが曖昧になる。
「そのままでいいよ」
シチの声がする。
振り返らない。
ただ、前に進む。
触れる。
——何もない。
はずなのに、
確かに“越えた”感覚があった。
一瞬だけ、
耳鳴りのようなものが走る。
キィン、と。
そして、
消える。
風が、変わる。
ミラは足を止めた。
振り返る。
さっきまでいた場所が、そこにある。
同じ景色。
同じ建物。
なのに、
どこか遠い。
「どうしたんだい?」
シチの声で、意識が戻る。
前を見る。
そこには——
まだ何もない。
人影も、建物もない。
ただ、緩やかな道が先へと続いているだけだった。
舗装はされているが、どこか簡素で、
箱庭の内部とも、完全な市街地とも違う、
曖昧な“境界の外側”のような場所。
「……ここは」
ミラが呟く。
「外だよ」
シチは軽く答える。
「とはいえ、すぐに街があるわけじゃない。箱庭は少し奥まった場所にあるからね」
風が、静かに通り抜ける。
人工的に整えられた空気とは違う、
どこか不規則で、予測できない流れ。
ミラは小さく息を吸った。
それだけで、わずかに胸がざわつく。
「行こうか」
シチが歩き出す。
ミラも、その後を追った。
しばらく歩く。
足音が、やけに響く。
周囲には低い建物がぽつぽつと並び、
使われているのか分からない倉庫や、
無機質な壁が続いていた。
人の気配は、まだ薄い。
それでも、
完全に閉ざされた箱庭とは違い、
“どこかへ繋がっている”感覚があった。
空は、変わらないはずなのに広く見える。
風が、時折強く吹く。
同じ場所に留まらない空気。
ミラは無意識に、それを目で追っていた。
「……不思議な感じがします」
ぽつりとこぼす。
「そうだろうね」
シチは振り返らずに答える。
「閉じた場所にいると、“外”はそれだけで異物になる」
さらに少し歩く。
やがて、
遠くから音が届き始めた。
人の声。
何かが動く気配。
生活のざわめき。
それは徐々に輪郭を持ち始める。
そして——
視界が開けた。
人がいた。
何人も。
歩いている。
話している。
笑っている。
ごく普通の、街の光景。
一人の男が、何もない場所に手をかざす。
次の瞬間、小さな火が灯る。
隣を歩く子どもが、地面から少し浮いている。
それを、誰も気にしない。
横を通り過ぎる女性の影が、
一瞬だけ遅れて動く。
信号機が、空中に浮かんでいる。
「外に出たのは……久しぶり、です」
言葉にした瞬間、自分でもその響きがどこか他人事のように感じられた。
喉を通る空気はやけに軽くて、それがかえって現実味を奪っていく。
「ん?君さっき“最近ここに来た”って言ってなかったかい?矛盾してるよね?」
シチは首を傾げながら、軽く笑う。責めるでもなく、ただ純粋な疑問として。
「え?あ、それは……」
言葉が続かない。説明しようとすればするほど、どちらの“自分”も嘘になる気がした。
シチは小さく肩をすくめる。
「まぁいいや。あそこは息が詰まるからね。少しでも気分転換になると思って、外に連れ出したんだ」
風が頬を撫でる。
遠くで誰かが笑っている声、靴音、何気ない日常のざわめき。
「どうだい?この日常は」
――当たり前。
胸の奥に、ぽつりと落ちる言葉。
そうだ。これが当たり前だ。
光があって、空気があって、人がいて、時間が流れていく。
こっちが“普通”で――あっちは、異常だ。
じゃあ、私はどうして。
どうして、あの場所に戻ろうとしている?
どうして、スピカを救おうとしている?
最初のループで救えなかった、その罪悪感だけで――
私は、ここまで来たのか?
スピカに対して、何の感情も抱いていないのに。
ただ“失敗を取り返したい”だけで、彼女を追いかけているのか。
――嫌だ。
思考を打ち消すように、強く首を振る。
そんなの、嫌だ。
私はスピカを、大切に思っている。
あの時救えなかったからじゃない。
罪悪感があるから動いているだけなんて、そんなはずがない。
もし、それがなかったら何もしていなかった――
そんな自分であってほしくない。
「違う……」
小さく漏れた声は、風に溶けて消えた。
それなのに。
心の奥底で、もう一人の自分が囁く。
“じゃあ証明できるのか”と。
ずっと目を逸らしてきた問いだった。
見ないふりをしてきた感情だった。
カウンセラーとして、誰かの心には向き合えるのに――
自分自身のこととなると、何ひとつ言葉にできない。
私は、何をしようとしている?
私は、誰を救おうとしている?
記憶が、ふいに揺らぐ。
――あの日。
「初めまして」
柔らかな声。少しだけ警戒を含んだ、けれど確かにこちらへ差し出された言葉。
「うん……初めまして、スピカさん。私はミラです」
あの時の空気。距離感。
初めて触れたはずの名前なのに、なぜか胸が締めつけられた感覚。
あれは――本当に、ただの“初対面”だったのか?
唇が動く。
呼びかけようとしている名前が、喉の奥で引っかかる。
今のこの日常と、あの場所。
そのどちらにも属しきれないまま、私は立ち尽くしていた。
「ねぇ、ミラ君、大丈夫かい?」
シチが呼びかけ、ミラは我に返る
「あ、すみません。」
固唾を呑む
「少しぼーっとしていて。」
「少しぼーっとしてるだって?ふーん、そうかい…でも動くべき時は動かないとね。」
「……え?」
シチは軽く首を傾げる。
「君は一体何がしたいんだい?」
一拍。
風の音だけが、間を埋める。
スピカを救いたいのか。
それとも——救えなかった自分自身を救いたいのか。
罪悪感という枷から
心の中で自問自答をする。
重く、沈む。
私はすぐに答えられなかった。
喉が動かない。
どちらも、否定できなかった。
シチは小さく肩をすくめる。
「まぁ、私は君と関係…ないからね」
興味がないように言う。
「君がどれだけ悩んでも——」
「やることは、最初から決まっているんだろう?」
――そうだ。
息を吸う。
浅い。
うまく入らない。
それでも、無理やり押し込む。
――そうだった。
胸の奥で、何かが軋む。
納得したわけじゃない。
割り切れたわけでもない。
けれど、
止まる理由にはならなかった。
「……私は」
小さく、声が漏れる。
何を言おうとしたのか、自分でも分からないまま——
言葉は途切れる。
代わりに、足が動いた。
一歩。
地面を踏む。
感触が、やけに重い。
「……行きます」
それだけ言う。
振り返らない。
シチは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた気がした。
走り出す。
風が頬を打つ。
視界が流れる。
向かう先は、決まっている。
スピカの部屋。
分かっている。
覚えているのは、私だけだ。
スピカは何も知らない。
何も覚えていない。
それでも——
「……それでも」
息が乱れる。
言葉が途切れる。
「何もしないまま、終わるなんて」
「そんなのは——」
足に力を込める。
速度が上がる。
「嫌だ…」
それだけが、本音だった。




