表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
或る一皿  作者: 久慈柚奈


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/11

第九話  メインディッシュ

 私たちは話しながら食べ、さらにまた食べて話した。話したいことは無限にあった。私はあゆむに分かってほしい。私があゆむとふうかちゃん兄妹の状況に理解を示しているのみならず、二人が感じてきただろう辛さもきっと共感を持って受け止めているだろうこと。私は話したくてたまらなくなっていた--私がどこで生まれ、今まで何をしてきたか、どんな時にどんなことを考え感じてきたか--何もかも知ってほしい。あゆむは何度も頷きながら聞いてくれ、彼もまた話した。

「僕もそういう瞬間に怒られたことある。説教されている途中に全く別のことを考えはじめちゃって、話についていけなくなってまた怒られる。だって思いついたことがあるとそれについて考えはじめちゃうんだ。あ、ほら例えば、パンってどうしていつもバターやジャムやクリームが塗られてる方を下にして落ちちゃうんだろう、とか」

 ちょうどほっそりした手に持ったパンを静かに見つめ、物憂げに語る。

「今からパンを食べようとする者の喜びを阻害する理だよ、あれは。パンそのものはもちろん小麦粉と水とバターとイーストの混合物としての固有の味というものを持っているけれど、そこにさらに風味を加えたいから、ヒトはパンに何か塗ったり載せたりするんだろう。それをうっかり取り落としてしまうという、いつでも誰にでも起こりうるありふれた失敗のせいで、いちばん美味しいだろう部分が損なわれてしまうって、あまりにも不条理なことじゃないかい?」

 あゆむは手にしたパンを一口かじり、それをある絵皿の上に休ませる。さらに別の絵皿を遠くへ置き直して、ビスケットの載せられた絵皿を近くに置く。私は気にかかって尋ねた。

「あの。こんなにお皿を使ってしまって大丈夫なの。これから箱詰めしてどこかへ送るために作ったものたちでしょう」

「いいんだ。君に使ってもらえる方が、百倍うれしいから。見ず知らずの誰かの手に渡るっていう曖昧な想像より、ずっと実体があるからね。そうだ、次はこれを食べてみてよ。この中でいちばん美味しいから」

 椅子から腰を浮かし、テーブルのずっと向こう端から鮮やかな赤色の絵皿を持ち上げて私に差し出す。私は差し出されるまま両手で受け取った。あゆむが勧めるものなのだから、とびきり美味しいおかずか、スイーツのようなものに違いない--。

 しかし受け取ったものをよく見て、私はとっさに頬が引きつるのを感じた。

 皿の上には白くててろてろとしたものがふたつ横たわっていた。強いて見た目の近いものを挙げるとしたら、魚の精巣か。だがもっと血の気の引いた肌のような奇怪な白さをしていて、紡錘型に近いそれが皿の上におとなしく身を並べているのはあまり快い光景には思われない。ましてそれを「食べる」、つるりとしていそうなそれを己の口内に迎え入れ、さらには嚥下しなければならないなんて……。

「とっておきのご馳走だよ。見た目はちょっとおいしそうに見えないかもしれないけど、飲み込んでみたらおいしいのが分かるから。噛まずにね、すっと流しこむんだ。さあ試してみて」

 私は小皿を押し頂くように持ったまま、あゆむと皿の上のものとを見比べる。言われた通りにすれば、あゆむは喜んでくれるだろう。喜んでもらいたい。逆に、もし食べなかったら……。

 さあ、食べろ。私は自分の両腕に、小皿とその上の白いものを口元まで運ぶよう命じる。腕は動いてくれない。

 あゆむは私の葛藤などに気づきもせず、話を続けている。

「パンは古来、丸や楕円に焼かれてきたのに、あえて四角い形に規定されたものが現れたこと、不思議に思わない? ヒトはパンにいろんな働きかけをしてきた--型にはめてみたり、ひねったり、ちぎったり。世界にも同じようなことをしてる。パンて世界の縮図、それとも世界そのものかもしれないよね。ヒトは世界に対して働きかけることができるけれど、理そのもの、いちばん古くからあって、ほとんど知られていないものも含めて--には、たどり着くことも曲げ伸ばすこともできない。パンを人力だけで膨らませることができないのと同じだね。

 食パンの四角さが、僕には箱のように見える。食パンは世界の収められた箱。そうであるならば食パンを食パンらしい形にする型は、世界の枠そのものだね。食パンをうすく削り取って食すたびに、僕たちはこの世界の一端を消費する。スライスした時に内側から溢れ出る香り。あれにはパンの中に封じられていたこの世の秘密が刻み込まれているんだ。本当は人の目に触れてはいけないようなものが、パンが切られた分だけこの世に流れ出してヒトの作り上げた世界を侵食していく。そんな風に思ったことはない? 僕は、よくそういうようなことを考える。それにしても、食べないの?」

「私、は……」

「パンが世界の縮図だとしたら、ヒトがパンを手にする時、そのヒトは世界そのものを手にしたことになると思う? パンに齧り付いて噛みちぎり、咀嚼することが、文字通り世界に齧りつくような影響を与えはしないかな?

 縮図じゃなくて実際の世界を、手にとって眺めている存在、僕たちをじっと観察する存在がもしかしているかもしれない、って考えたことはない? 空は青いものだって、あの色味を『青』と最初に呼んで規定したのは一体誰なんだろうね? ヒトの目は景色そのものじゃなくて、光の反射を見ているというじゃないか? おいしいよ、食べなよ。そうだとしたら空は青じゃなく、むしろそれ以外の全ての色をしているはずなんだ。物事の実際が見えていないと分かっているのに、みんな自分には真実が見えているふりをして正気を保とうとしている。むしろ狂気に取り憑かれたと見做される人の視界にこそ真実を見出せるかもしれないのに、誰も試して見ようとしない。ほら、食べなよ。空が本当は青くないなら、ヒトの目には見えないこの星の観察者が存在していたって、何もおかしくないと思わないかい?」

「わ、たし……」

 楽しげに細められたあゆむの両目、なめらかに動き続ける口元、軽やかに言葉を補完しようと動く手。私はあゆむから目が離せない。あゆむが私の手にした皿にちらと目をやる。あゆむの視線を追って私も白い軟体を見る。またあゆむの声と手振りに視線を誘われる。

 あゆむを熱心に見つめるうち、私の境界は輪郭を薄れさせていく。皮膚は透過してあゆむの言葉に合わせて振動しはじめる。あゆむが手を動かしたことで渦巻いた空気の波及を感じ取れる。それとも手振りを交えて闊達に話しているのは、私の方? 頭の芯が痺れ、私は椅子と、床と、あゆむと溶け合って区別を失う。

 体が動かない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ