第八話 箸休め
初めて許可を得てから向かう二階が、とても神聖な場所に思われてくる。それに、不思議だった。あゆむは見る限り落ち着いていて礼儀正しい。支援施設と繋がりケアを受ける必要性があるようには思われないのだ。それとも必要な支援を得られたからこそ、落ち着いて暮らせるようになったのか?
ふうかちゃんから初めてあゆむの存在を聞かされた時、その言葉から構築された印象はより凶暴なものだった。あゆむの話をするふうかちゃん自身が、一番あゆむのことを恐れているようにも見えた。寡黙さと、爆発しそうなエネルギーの同居した人。この兄妹は感情的な母親のもとで自分を守りながら生き延びるために、まったく方向の違う反応を身につけたのだろうと私は思った。
だが実際に対面したあゆむからは全く怒りっぽい印象を受けない。全身がほっそりしていて、むしろ儚げですらある。ふうかちゃんと通じる雰囲気もあった。先に階段を上り終えたあゆむがちらと私を見下ろし、愉快そうに尋ねる。
「不思議そうな顔。僕に何かついていますか?」
「あ。いいえ。ただ雰囲気がとても。事前に聞いて想像していた感じとずいぶん違うものですから」
あゆむの反応を確かめつつおずおずと、私は私が知っていると思ってきたことを話してみる。亡くなった母親。ひとり備蓄品で食い繋いできたふうかちゃん。母親の神経質さ。あゆむ自身のこと。
「母は」
と切り出したあゆむの目は、特有の憂いと遠さを帯びていた。
「あのひとは、僕たちを育てることに耐えられなかったんです。自分の面倒を見ることさえままならないこともあったのに、そこに自分が責任を持たねばならぬ幼子が二人も。余裕など消し飛んでしまうことは想像に難くない。母は僕を僕たらしめるもののために僕を遠ざけようとしましたが、本当に距離と休養が必要だったのは彼女の方でした。母は僕たちのことなど捨て置いて、さっさとここから逃げてしまってもよかったんです」
「それではあなたたちは、ネグ……」
「でも彼女はそうしなかった。愛情なのやら義務感なのやら分からない何かが、彼女に『母親』という役割を演じさせ続けた。どんな相手との間にできた存在だろうが、ヒトの形をした我が子には違いない、と。彼女は自分で自分を窒息させてしまった。僕たちには静かに看取ることしかできませんでした」
細く長い息を吐き出すようにすらすらとここまで語ってから、くすりと笑い声を漏らす。
「嗚呼すみません。つい足を止めて長話を。貴女を二階へお連れするんでした」
言いながらこちらに手を伸ばし、私が最後の5段ほどを上るのに手を貸してくれる。エスコートの動作は流れるように洗練されていた。
二階は一階よりもどことなく薄暗かった。窓にはレースカーテンだけがかかり日差しを和らげているのだが、そもそも入ってくる光がどこかくすんでいる。
階下に注意を向ければ、ふうかちゃんたちの遊び回る声が変わらず響いてくる。だがそれも二階の廊下に目を戻した途端に、遠のいて消えてしまった。私は薄暗い廊下を進んでいった。
あゆむがひとつの部屋のドアを開け、私の来るのを待っている。どうぞと言われるまま部屋に踏み入ると、私は色彩に包まれていた。
ワックスの気配がない床とテーブルの置かれた、くすんだ印象の部屋だった。横に長い部屋の中央には6人掛けのダイニングテーブルと椅子が鎮座しており、剥き出しの木肌の上に白いテーブルランナーだけがかけられている。色彩はその卓上に集結していた。
奥の窓からの日差しを浴びてつややかに光る小皿たち。すべて片手に載るくらいの大きさで統一されているが、40も50もあると思われる小皿たちは、やはりひとつとして同じ模様をしていない。つくられたばかりの赤や、青や、緑の美術品たち、まだ世界で作り手と私だけしか知らない色が、静かにここにある。
「昨日、焼き終えたばかりの作品たちだよ。綺麗に色がついてよかった」
あゆむは後ろ手にドアを閉め、テーブルに歩み寄るとそこに整列した小皿の幾つかに白くて細い指を滑らせる。指先が皿のふちをなぞるのを見る時、私は濡れた指でワイングラスを擦った時に出るような音を聞いた気がする。
「あとは絵をつけるだけっていうところまで作り上げられた皿がここに届くんだ。僕はそれに絵をつけて、電気窯で焼いて完成させる。すごいこと、ありがたいことだよ。僕の絵皿に価値を見出してくれる人がいるというのは。絵皿を最初に大量に依頼された時、僕は一度断ったんだ。まるい皿に絵を描くのは好きだし、できあがった作品は綺麗だとは思っていたけれど、依頼された量を、依頼された期日までに作れる自信がなかった。安定して焼ける窯もなかったし……。でも理由を話した上で断ろうとしたら、必要な設備を用意するからぜひ引き受けてほしいって言ってもらえてね。それでお言葉に甘えさせてもらった。よく僕が皿に描く模様は不思議な魅力があるって言ってもらえる。もしも生まれる場所か時間が違っていたら、僕は曼荼羅か宗教画を描いていたかもしれないね」
私はあゆむに手振りで勧められるまま、出来上がったばかりの絵皿をいくつか手に取って眺めてみる。丸い皿の中心に向かっていくような、あるいは中心からこちら側の世界へ広がってくるような図柄。遠目から見てもその絵の魅力に心を掴まれるが、近くで見ると別の美しさに気づく。向かい合わせに設置された鏡のように、相似形がどこまでも続いて終わりがない。
あゆむはテーブルを挟んだ椅子に腰掛けた。
「まあ、座りなよ。今日は僕に君をもてなさせてくれ。君には今日までたくさんお世話になったんだから」
そう言って身をかがめたかと思うと、テーブルの下から様々な食べ物を取り出してはできあがったばかりの小皿に並べていく。そう豪華なものではない。箱や容器を開ければすぐ口に運べるものばかりだ。中には格安のスナック菓子さえある。しかしそれらも、魅惑の絵皿に載せられれば全てご馳走になるのだった。




