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或る一皿  作者: 久慈柚奈


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第二話 ふうか

 たっぷり2時間はかかって少女を落ち着かせることに成功した。私たちはようやく話を聞くことができる。同僚が気を利かせてコンビニへ走り、少女に鮭おにぎりを渡した。よほど空腹だったと見える。おにぎりはあっという間に少女の平たい胃の腑へ収められていく。

 少女は「ふうか」と呼ばれていたらしかった。沢崎家の長女であるらしい。三ヶ月前に母親が亡くなってから、歳の離れた兄と二人でここに住んでいるという。正兄は、二階の自室に籠った切り滅多に出てこない。

 兄の話をする時、ふうかちゃんはまるで監視を恐れるように目を伏せ声をひそめた。この場に兄はいないというのに、ふうかちゃんの声が届くあらゆるもの--壁、床、天井の全て--がふうかちゃんの語りを吸収して、建物を伝わり本人の耳に届いてしまうのではないかと恐れているように見える。ふうかちゃんの記憶にある兄は、いつも黙って横を向いているという。不用意に話しかけたりして彼の世界に踏み込むと、彼は抑制を失って暴れ出すことがあるらしい。兄の暴力が人間に向くことはなかったと、それだけはふうかちゃんがくり返し強調して語った。兄は暴れるけれども自分の力が家族を傷つけはしないよう気をつけていた。感情調整がうまくいかなくなると、兄はなにごとか呻きながら階段を駆け上がり、自室のドアをバタンと閉めて閉じこもってしまう。

 自己封印の時間はどんどん長くなる。いつ起こるか分からない爆発を恐れているうちに、兄はいよいよ部屋から出てこなくなってしまった……。

 こぎれいなのは屋敷の外側と玄関ホールまでで、室内はひどい有様だった。特にキッチンは致命的だ。床もカウンターも窓枠も、およそ物を置けそうなありとあらゆる突起がゴミで埋め尽くされている。それらはこの三ヶ月の兄妹の食生活の痕跡だった。お菓子の袋にカップ麺の容器、弁当の容器とフタ、その他雑多なもの。屋敷には相当量の備蓄品があったらしく、おかげて一人で買い物に行くには危険な年齢の少女でも、この90日ほどは生き延びてこられたわけだ。少し前に食料は尽きたそうだが。

 一時保護が必要な事案であることははっきりしていた。私たちは無言のうちにそれを確認しあった。そこで屋敷を離れることを渋るふうかちゃんを宥めすかし、バンに乗せて施設へ連れ帰った。ふうかちゃんはもともと口数が多くない印象だったが、車が発車するといっそう無口で陰気な感じになったのが気がかりだった。

 施設の一人部屋に落ち着いたはずのふうかちゃんの姿は、その日のうちに施設内から消えてしまった。職員総出で施設中を探すが、どこにも姿が見えない。もしかしてと思い、キーボックスからバンの鍵をひとつ借りると、私は夜道を走りだした。昼間にたどった道は黒々とした森に覆い被さられるようになっていっそう陰鬱さを増している。道を見失いそうになりながら辿り着いた沢崎けは、キッチンの電気が付いていた。

 またも鍵が開きっぱなしの玄関をそっと入ってキッチンを覗くと、ふうかちゃんの小さな背中が見える。

 施設の玄関は施錠されていたし、周囲には塀や生垣が巡らせてあって子どもたちを危険から守っていた。ふうかちゃんの身長ではとても乗り越えられない高さのそれを、一体どうやって突破しここまで戻ってきたのだろう。

 尋ねようと口を開きかけた私はしかし、ふうかちゃんが何をやっているかに気づいて息を呑んだ。言葉は胃の奥で消えてしまった。

 ふうかちゃんはキッチンの床に座りこみ、自身の身長ほどもある大きなゴミ袋を広げて散乱したゴミを集めている。ふうかが悪いんでしょ、などと言う。ふうかがちゃんとしていないから、ここで暮らしちゃいけないんでしょ。ちゃんとするから。ちゃんとできるから。ごめんなさい。ごめんなさい。

 痛々しく飛び出す言葉と涙に、私は古い記憶を喚起されて動けなくなった。強烈なデジャヴと確信が私に降りかかり圧倒する。ふうかちゃんは、過去の私だ。何もかも自分が至らぬせいだと思い込み、身の丈にも年齢にも合わない努力を重ねれば状況が好転すると考えていた。それでなければ自分を保てなかった--あの時は、全部私が悪かったのだ。父と母に喧嘩が絶えないことも、父が見知らぬ女性と出かけることも、母がイライラと家を歩き回り荒々しくドアを閉めるのも。

 ふうかちゃんを見つけたら連絡する、と言う約束でここまでバンを走らせてきたが、所長に連絡しなければ、という使命感は私の思考の中で存在感を薄れさせていく。私の前にはふうかちゃんしかいなかった。過去の私も今のこの子も、間違っていない。間違っているけれども間違っていない。拙いなりの自己反省を試み、できることを見つけようとしている。同じ視点に立たなければ、何も伝えることはできないだろう。

 私たちはキッチンのゴミを集めて片付けた。私が手伝い始めた最初、ふうかちゃんは驚いた顔をしたが、私の真剣な顔を見てとったのか口に出しては何も言わなかった。ゴミを集めたら次は床を磨く。ゴミの地層の下に現れた床は玄関ホールと同じような美しい大理石で、磨くと綺麗なツヤが出た。

 ようやく思い出して所長に連絡する。ふうかちゃんを見つけたことは黙っておいた。一人でゴミを片付けるあの姿を見てしまったら、それがこの子の意志であることを否定しようがない。この子はここに住み続けたいのだ。私にはその意志を無視できなかった。

 ふうかちゃんはリビングの巨大なソファで寝起きしているという。広大な部屋に鎮座するL字型のソファは大人でも二人は足を伸ばして寝られるだけの大きさがあった。キッチンよりは随分綺麗で、多少雑然とした部屋を探ればかけて寝られそうなブランケットが見つかる。私はふうかちゃんに倣ってソファに体を横たえた。


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