第十話 その一皿
「観察者の存在に僕たちが気づくことは可能かな? これはそういう存在が実際にいるかどうかの仮定について話すわけじゃなくて、観察者がいるものとして、っていうかいるんだけど、観察者の存在にヒトが気づけるかってことね。ヒトはこの星の支配者みたいに振る舞っているけど、もしも、もしもだよ……。ヒトが植物や動物やヒトを都合よく動かしたり役立てたり殺したりしてきたように、ヒトもまた観察者に観察され実験され生かされたり殺されたりしていることが広く知られるようになったら、その時ヒトはどうなっちゃうんだろうね。きっと世界は逆さまになる。正気だと思い込んできた者たちこそが狂った視野狭窄に陥っていて、今まで見向きもされなかった者たちこそが正しく物事を見ているということがはっきりする。食べて。見えないふりを続けることのほうがよほど滑稽で危なっかしいと思うけれどね。それでもヒトは簡単には認めようとしないんだ。そういう観察者や、不可視の隣人たちの存在を。食べな」
それにしても。あゆむは本当にこんな顔だっただろうか?
私は初めて見た時の彼の顔かたちを思い起こそうとするが、うまくいかない。あゆむは小皿から目を戻すたび違った印象で私の前に立ち現れる。細く儚げな好青年、褐色の肌に精悍な顔立ちの男、黒いフードに頭まですっぽり包まれたローブ姿。それから全く姿が見えないかと思えば、微かに空気が振動していて……。
「ヒトが外界から受け取った情報は全て脳に集約されるよね。食べな。もしかしたらヒトが僕らを正しく認識できないのは、脳の回路の問題かもしれない。少し脳の設定をいじってやれば、目を瞑ったままでいようとするような人にもこの世の真実を否応なく見せてあげられるのかな。時間は一直線に流れているわけじゃないこと、知ってる? 食べな。街で声をかけてきた知り合いは、もしかして未来から来たその人かもしれないよ。食べな。君は聞いたことのある声にそっちを向くかもしれないけれど、脳が君の見ているものに影響を与えて、現在の知り合いの姿に見せかけているだけなんだ。食べな。ヒトはヒトを騙すけれど、そもそも自分自身の脳に騙されているのさ。そうとも気づかずにね。食べな。その機能はヒトが観察者を見ないように搭載したもの? あるいは観察者がヒトに施した何か? 時間が一直線とは言い切れないのなら、どちらの可能性だって平等に存在しているわけだ。食べな。おもしろくていつまでもあれこれと考え込んでいられるよ。食べな」
私はもはや自分が自由に動かせるのは、自分の両腕と唇だけだということに突然気がついた。あゆむはまだ何かを話し続けているが、もう相槌を打つ間もない。とっくの昔になくしている。そもそも相槌って必要だろうか? 今やあゆむの声は私のうすくなった皮膚も内臓もやすやすと通り抜けて、私の内奥に、脳に直接響き渡っているようなのに。食べな。食べな。食べな。食べな。それはあゆむの発する音の端々に織り込まれた命令であり、今や私の脳から発せられる指示だった。私は食べなければいけなかった。そもそも最初から、それは思うほど奇怪なことでもなかったかもしれない。日差しを浴びてきらきら魅力的に光っているではないか。
両腕はどう動くべきかを完璧に理解していた。私の両腕が持ち上がるにつれ、顎も上を向いていく。両手で掬った水を飲み干そうとする時のように。白い軟体を喉元深く取り込もうとして。
美しい絵皿のふちに唇を触れさせる。皿を傾けて行くと、白い軟体はすんなりと皿の上をすべり私の口へ向かってきた。丁寧に、ひとつずつ。あゆむが言っていた。噛まずに流しこむのだ。それが、これの食べ方。私はその通りにした。軟体もまた食べられ方を知っていた。一瞬、舌の上をあらゆる不快なものの味が通り過ぎたが、次の瞬間にはもうそれは喉を滑り落ちて味の次元を超えた場所へ去っていた。
大切なことをやり切った気分だ。強烈な安堵で力が抜けてきた。背中に椅子の背もたれの硬さを感じる。あゆむが話続けている--。
急にドアが開き、拳銃を構えた男たちが4人、部屋に飛び込んできた。ざっと部屋全体を警戒した4つの銃口は、すぐにあゆむに集中する。警察だとかなんとか、男が怒鳴る。人質を解放しろとか言っている。やめて。あゆむにそんな乱暴な言葉を投げつけるなんて。私はあゆむを庇いたいと願ったが、体を起こすことも声を出すこともできなかった。私の言いたいことは思考の中で上滑りする--彼はもう十分、鋭い言葉に耐えて生きてきたんですから。あろうことか彼自身の母親から向けられた、尖った音たちに……。
私はあゆむが取り乱したり、不快を顔に表したりすると思ったのだが、実際のあゆむはずっと落ち着いていた。
むしろ微笑んでさえいた。敵意はないと示すように両手を挙げる。私の耳にシュルシュルという、何かがほどけていく音が聞こえる。それも、すぐ近くから。
「大丈夫ですか。わたしの声が聞こえますか」
警官のひとりが私に呼びかける。肩に人の手が触れる。私は急に眠気のいちばん深いところから浮かび上がってきたようになる。何度かまばたきをして初めて、私は私の体を離れていく半透明の触手に気づいた。内側に走る銀色の管に、陽光が当たってきらきら光る。
触手はあゆむの方へ収縮していく。私は顔を上げてあゆむを見た。そこにはあゆむが座っていたが、あゆむではないものが座っていた。まばたきのたびに見える姿が変わった。私はすんなりと理解する。あれが本来のあゆむの姿。
触手で体を支え、椅子に座ったふうに落ち着いている。ヒトより巨大な陸上のクラゲ。警官たちに銃を向けられ大人しく席を立つ。部屋を出ていく刹那、私に満足そうな笑みを残す。私の視界も暗転した。




