4話 おいしいものを
「おはようございます!」
「……」
元気いっぱいに朝の挨拶をすると、眠そうな目で私を見上げてくるお姉さま。
何この可愛い生き物。お姉さま……綺麗だって思っていたけど、寝起きは可愛い。まだ頭が働いていないのか、瞼が半分閉じているし、頭がゆらゆら揺れている。朝が弱かったなんて知らなかった。
「朝ですよ、お姉さま! 一緒にご飯食べましょう!」
私はというと、もうバッチリ目が覚めている。よかった、夢じゃなくて。
まだ眠っていたお姉さまの寝顔を覗き込んだり、勝手に嬉しくなったり、昨日の夜に話したご飯を食べるという約束を思い出したりと、色々とこれからのことに考えを巡らせていたら、完全に目が覚めてしまった。
まずは一緒にご飯を食べる。それが最初。
これからお姉さまと食べれるようにしないと。一緒に食べないと、お姉さまに持ってこられる食事はきっと前みたいに腐ったものだ。それは絶対阻止したい。
――その為に、するべきことがあるけれど。
「お嬢様! さあ、奥様がお待ちですよ! ここはお嬢様が来る場所ではありません!」
ノックもしないで侍女頭のジルが部屋に入り込んできた。やっぱり来たか。来るとは思ってたけどさ。
よくよく考えるとおかしな話。この屋敷の主人の娘であるお姉さまの部屋に、何の遠慮もなしに入ってくるなんて。
けれど、それを許しているのはお母様。使用人たちが、女主人の意向に逆らうなんてできないのは分かっているけど、このジルはお母様に色々と便宜を図ってもらっているのか、誰よりも言いなりだ。いわばお母様の腰巾着。
そう、まずはこのジルとお母様を何とかしないといけないんだ。とりあえず、まずはこのジルに言ってみようかなと思って、口を開いた。
「ジル。私はここでお姉さまと一緒にご飯を食べるから、この部屋に持ってきてもらえない?」
「お嬢様、我儘はもう許されませんよ。それに、まだお嬢様の体調だって万全にはなっておられないではないですか。セレスティア様にはセレスティア様に合う食事をお出ししますので」
やっぱり反対してきた。すんなり分かりましたと言うとは思ってなかったけど。
しかもお姉さまに合う食事? よくそういう言葉が出てくるなと思う。前にお姉さまに出された食事を見て愕然としたもの。前まではこのジルの言うことを素直に信じていたけど、それが違うって分かって本当に悲しかった。
だから、もうお姉さまにあの腐った食事は出させない。
ニコーっとジルに笑いかけると、ジルが不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、私もお姉さまと同じもの食べるね! だって、いつもお姉さまは体に優しいスープだったよね! 今の私にもピッタリだと思うな!」
私の言葉を聞いて、一瞬ジルの頬が引き攣った。出せるわけないよね。私にあのドロドロの腐った匂いをさせているスープなんて出したら、それこそお母様に怒られるもん。
「どうしたの、ジル? まさか、同じものが出せないなんて言わないよね?」
「っ……ごほん、お嬢様。セレスティアお嬢様は体が弱いのです。その体に合うようにと、特別な食材を使っているのですよ。お嬢様はセレスティアお嬢様の分の食事を取り上げるおつもりですか?」
「今は私も体が弱ってるよ? なのに、どうして食べちゃいけないの? お母様だって、今は私に栄養がつくものを食べさせるんじゃないのかな?」
「っ……ですから、その特別な食材は数に限りがあるのです。お嬢様にはお嬢様に合う食事をお出ししますので」
あーそー。それで通すんだ。そもそもお姉さまの体が弱っているのは、大したものを食べさせていないからでしょうに。
次は何を言ってやろうかと思ったところで、お姉さまに特別な食材とやらを使わせている本人の声が飛んできた。
「全く、何をやっているの?」
「お、奥様! こ、これは、その……」
本命の登場ってことですか。
お母様が眉間に皺を寄せて、ジルと、それにお姉さまを睨みながら部屋の中に入ってくる。
この人をどうにかしないと、結局は何も変わらない。お姉さまと一緒にこれからご飯を食べるなんて夢のまた夢だ。
その視線が私に移ると、さらに険しく目を窄ませていた。お姉さまに危害を加えてほしくなくて、私がずっと抱き着いているからね。お姉さまはもうさすがに目が覚めたのか、私とジル、お母様と、ずっと視線を右往左往させていたけど。
「フィ。さ、こちらに来なさい。その子と一緒にいても、嫌な思いをするだけですよ? この前の池に落とされた時みたいに、そのベッドから突き飛ばされちゃうかもしれないわ」
ああ。そういえば昨日、そんなことを言っていた。
池に落とされた、ねえ。それで私は昨日まで熱を出していたと。
よーくよく思い出してみると、確かにそんなことがあったかもしれない。でも、落とされたんじゃない。勝手に自分で転んじゃって落ちちゃったんだ。
この頃の私は無邪気にお姉さまと一緒に遊びたいとか思って、無理やり手を引っ張って、そして、池に落ちちゃう前に、お姉さままで巻き込みたくなくて自分で手を離した。
それで風邪を引いて、熱を出した。
お姉さまに突き飛ばされて、池に落とされたことにしたいのは、お母様だ。
「何を言ってるんですか、お母様? 池に落ちたのは私が転んだからです。お姉さまじゃありません」
「本当にあなたは優しい子ね。でもね、そんな庇うようなことを言わなくてもいいの。侍女たちが皆見ているのよ」
「ああ、勘違いさせたのかも。私は自分から手を離したんです。お姉さまを巻き込みたくなくて」
ニコニコとお母様に返すと、またお母様は私の後ろにいたお姉さまを睨んでいた。何がなんでもお姉さまのせいにしたいらしい。あまりそんな目で見ないでほしい。お姉さまは何もしていないのだから。
話題を逸らそうと、またにっこりと笑顔を作ってお母様を見上げる。そんな話よりも今はこれからのご飯の話だ。
「お母様、私、お姉さまと一緒に食べたいんです。いいですよね?」
「何を言ってるの? あなたはまだ病み上がりなのですよ。一緒のものを食べるだなんて」
「さっきのジルも言ってましたが、お姉さまは体が弱いのでしょう? それでしたら私も病み上がりだからこそ、同じものを食べます。そちらの方が早く治りそうだもの」
お母様、その言い分じゃ体が弱いお姉さまに碌なものを食べさせていないことになるじゃないですか――ということを存外に言ってみると、ジロリと今度はジルの方を睨みつけている。ジルは後でお母様に厳しく何か言われそう。あれれ。ジルってば出任せで嘘ついてたんだ。
たっぷり怒られるんだろうなとか想像していたら、お母様はハアと重く息を吐いていた。
「……フィ。いい子だからちゃんとお母様の言うことを聞いてちょうだい。あまりその子と関わってほしくないのよ。碌なことにならないわ。昨日はあれだけ泣き叫ぶほどだったから、特別にこの部屋を使うことを許したの」
碌なことを起こしているのはお母様だと思うけどね。
「今日は昨日とは違うお医者様が来てくださる予定なのよ。お父様にお願いしたの。あの人もね、フィのことすごく心配しているのよ」
「いらないです」
きっぱりはっきりと私が告げると、予想外だったのかお母様が目を見開いていた。
私はいい子を演じていたから、今までお母様の言うことを素直に聞いていた。前も私がご機嫌を取っていれば、お姉さまにさらに酷いことをしないと思っていたから。
だけどね。
もうそんなのはやめる。
私がお母様のご機嫌を取ろうと取らないと、あなたはお姉さまが嫌いなんだよね? お母様のその嫌いという事実は、もう絶対変わらないんだよね? お父様だってそうでしょ? 私が何を言っても、何かをしても、お姉さまのことを考えてはくれないんだよね? 前の時間軸で思い知らされたもの。
だからやめる。
必要ないってはっきり分かったから。
そんなことより、私はお姉さまのそばにいる。
そばにいて、今度こそお母様たちから自分の手で守ってみせる。
にっこりとまた笑顔を作って、私が反抗したのが理解できないのか少し呆けている様子のお母様に向き合った。
「私、もう熱も下がったから元気です。もう元気なのに、お医者さんが来ても何もすることがないから、困ると思います。だからお父様に言って、その予定は取り消してください」
「……フィ」
「それと、私はもうこれからは何をするにもお姉さまと一緒にしますから。お母様が何を言おうが知りません」
「フィ!」
「ご飯は自分たちで貰いにいきますね。もうお腹空いちゃって。やっぱり元気になったからかなぁ。行きましょうか、お姉さま!」
「フィ! どうしちゃったっていうの⁉」
無理やりお母様の手が伸びてきて私の腕を掴もうとするから、パンッとその手を払いのけた。
また目を見開いているお母様。ジルを含めた侍女たちも驚いた顔をしていた。まだ七歳だからって見くびらないでほしい。中身はちゃんと成人してるんだから。
でもね、段々腹が立ってきちゃったよ。
お姉さまへの仕打ちも、変わらないお母様も、仕方がないとはいえ、それに従う侍女たちも。
お母様をしっかりと見据える。
私にとっては、優しい母親だった。
いっつも些細なことでも褒めてくれて、寂しい時は抱きしめてくれて、私のことを守ってくれていた。
この屋敷に来るまでは。
お姉さまと出会うまでは。
お姉さまと会ってから、お母様はどんどん変わっていった。誰かを虐げる母親の姿なんて見たくなかった。そんな母親だなんて、最初は信じたくなかった。
だって、優しかったから。
私と話す時は、昔みたいなお母様だったから。
その優しさを、ほんの少しでもいいから、お姉さまに向けてほしかった。
「あなた……あなた、フィに何をしたの⁉」
その願いが、叶う可能性はもうないんだ。
憎しみを込めた目のお母様が、今度はお姉さまに手を伸ばそうとしてきたから、お姉さまを背中で庇うように腕を広げる。ピタッとお母様の手が止まった。
「どきなさい、フィ。この子に何か言われたのでしょう? それともされたのよね? でも大丈夫よ。お母様が近づけさせないようにするから」
「いいえ、お母様。お姉さまは何もしていません。勘違いしないでください」
「いいえいいえ! あなたは私にこんな反抗する子ではなかったわ!」
逆に私が言いたいことです、お母様。
「お母様こそ、そんな金切り声を上げる人ではありませんでした!」
いつもは優しい声音だった。包み込んでくれるような話し方だった。そんな頭に響くような声なんてしていなかった。
予想外のことを大きな声で私が言ったからか、お母様はまた面食らったような顔をしている。
「フィ……い、今……なんて?」
「そんなキーキーしている声で叫ばないし、なんでもお姉さまのせいにしようとする思い込みをする人じゃなかったです!」
思い込みと言った時に、お母様が手を顔に当ててフラッと体をよろけさせている。しっかりとジルが支えていたけど。どうやら思った以上にキーキー呼ばわりしたことがショックだったみたい。事実だし。
けど、さっきまでの剣幕が消えたみたい。よし、一気に畳み込んで、さっさとご飯を食べにいこう!
「そんなお母様の言うことなんて絶対聞きません! お姉さまに意地悪する母親なんて、私は恥ずかしいです!」
「恥ず……かしい……」
「お、奥様⁉ しっかりしてください! 奥様!」
完全に体をふらつかせているお母様を、ジルだけじゃなくて他の侍女たちも囲んでいる。
自分の愛娘にそんなことを言われて、悲しいよね。うんうん――って私の方が悲しいんだからね! 前に学園でお母様ってどんな人ですかって聞かれた時に、何にも言えなかった私の身にもなってほしい! ちょっとは反省してください! というか、いくら嫌いでもお姉さまに酷いことしないでください!
「さ、お姉さま、行きましょう!」
「え? え?」
え、今? みたいな顔してますけど、今しかないです。侍女たちがお母様に気を取られているうちに、さっさと厨房に行きましょう! ここに持ってきてくれないみたいだし! 今だったらお母様にかかりきりだろうから抜け出せるもの!
戸惑っているお姉さまの手を無理やり取って、さっさとベッドから二人で降りる。「奥様、しっかり!」「今すぐお医者さまを!」と、一気に慌ただしく部屋の中と外を行き来している侍女たちを尻目に、どさくさに紛れて寝間着のままだったけど廊下に出た。
タッタッタッと子供の速度で、うるさくなってきている部屋から遠ざかる。やっぱり追ってこない。すぐ捕まえられるとでも思ってるのかな? あ、そういえばお医者様来るって言ってたよね。私は必要ないけど、お母様が診てもらえばいいじゃない。
「……どこ、いくの?」
「厨房ですよ。えへへ、実は料理長と仲良しなんです! おいしいもの、作ってもらいましょう!」
か細い声でお姉さまが後ろから声を掛けてきてくれた。振り向くと、少し不安そうな表情。もしかして、この後さらに酷いことされるって思ってるのかな?
「お姉さま、大丈夫ですよ! お母様も大分私の言葉にショックだったみたいですから、ご飯を食べている間くらいは何も言ってこないと思います!」
「でも、あなたが……」
え、優しい。嫌いなはずの私のこと、気にかけてくれてるの? また知らないお姉さまの優しさが知れた!
嬉しくなってお姉さまに向き直ると、目をパチパチとさせている。繋いでいたお姉さまの手を両手で包み込んだ。
「お姉さま。私は大丈夫です。お母様の私への溺愛ぶりは知っているでしょう? それよりお姉さまはご自分のことを考えてください」
「自分のこと?」
「そうですよ。自分のことです」
そう、例えば、
「今から食べるご飯のこととかです!」
きっぱり言い放ってから、目をパチパチとさせているお姉さまに、満面の笑顔を返してあげる。少しでも安心してもらえるように。
「やっぱりあったかいものがいいですよね! そうだなぁ、野菜たっぷりのスープと、ふわふわのパンに、あ、卵のオムレツとかもいいかもですね! お姉さまは何がいいですか?」
結局昨日の夜は答えてくれていないからね。ちゃんと聞きたいです。
「お姉さまは、何の食べ物が好きですか?」
「……私は別に」
「だめですよ。何でもいいじゃなくて、食べられるものじゃなくて、お姉さまの好きな食べ物を知りたいんです」
ぎゅっと包んでいる手に力を込めると、分からなそうに首を傾げている。
お姉さまは、そんなこと本当はどうでもいいのかもしれない。本当に食べられれば十分なのかもしれない。
でも、それは、きっと知らないから。
そういうあったかい食べ物を与えられてこなかったから。
だから、
「もし、お姉さまが分からないなら、これからいっぱいおいしいものを知っていきましょう」
これから、私と一緒に。
お姉さまには、これから色々な楽しいことや嬉しいこと、美味しいと感じられるものを、知っていってほしいから。
黙ってお姉さまを見つめていると、お姉さまは分からないなりに考えているのか、目を右往左往させたあと、ポソッと小さい声で呟いた。
「……じゃあ、まず、あなたがおいしいと思うものを教えて」
え、何それ? 何、その可愛い回答! そんなの返事は決まっています!
「もちろんです! じゃあ、今日は私の好物を作ってもらいましょう! 絶対おいしいから!」
これは料理長のタックに絶対いいもの作ってもらわなきゃ! あ、そうだ! デザートも!
一気にテンションが上がって、何を食べてもらおうかと、顔を前に振り向かせた時だった。
「ウッキャアアアア‼」
「へぶっ‼」
「え?」
なんか柔らかいものが顔にぶつかってきて、視界が真っ暗になると同時に、お姉さまの方に倒れこんでしまった。