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35話 お姉さまが、笑顔になる為に

 

『よかったね、本当』

「……うん」

『何々、浮かない顔じゃんか?』


 ねえ、スクル。心配してるのか安心してるのか分からないけど、なんでそんなにほっぺたをギュイーっと押し上げてくるのさ。やめてください。


 ふうと息を吐いて、スクルのその小さな手を離させた。


 今はお姉さまは入浴中。アネッサはそのお手伝いで、カンナは私のこの腫れあがった目元を何とかするために冷たいタオルを取りに行っている。ついでに今日の夕飯のことでタックに相談してくるとも言っていた。


 泣いてしまった。

 どうにも抑えきれなくて。


 バールから聞いたお母様の今の状態に、私の胸の内はざわざわと忙しない。


 心の病? 何それ? そんなので許されるわけない。

 病気だったら、何を言っても許されるの? 

 傷つけても許されるの? 


 許されていいはずがない。


 なのに、お姉さまは、


『治ればいいと、私は思う』


 はっきりと、そう言った。


「優しすぎる……」

『何? セレスのこと?』


 スクルがどっから出したのか、リンゴを食べて顎を動かしていた。いや本当、いつも思うけど……それ、どこから出してるわけ? 今はツッコむ気力が出ないから放っておくけどさ。


 ハアとまた重い息を吐いてから、ベッドに背中から飛び込んだ。ボフンと柔らかな感触に包まれる。スクルも枕元にちょこんと座っていた。


『てっきり元気になるかと思ったけど、全然元気じゃないね?』

「なんで元気になるの?」

『だって、母親が普通になるってことでしょ? 喜ばしいことじゃん』

「普通、ねえ……」


 もうどれが普通なのか、遠い昔のことだよ。

 遠い遠い記憶を思い出そうとして、お父様とバールが言っていたことが先に頭に浮かんだ。


 嫌いにならないでほしい、かぁ。


「好きなのかなぁ、まだ」

『母親が?』

「もうさ……いらないって、捨てていいって……そう思ってたのになぁ……」


 治療って聞いて、病気だって言われて、どうしてこんなもどかしい感情でいっぱいになるんだろう。


 遥か遠い記憶の彼方に閉じ込めていた、幸せだった時のことがぶわあって広がっちゃって、何故か涙が溢れて止まらなかった。


 変わる前の、私が知っているお母様の姿が、思い浮かんで。

 この屋敷に来る前の、私の話を聞いて楽しそうに笑っていたあの頃の姿が、胸を締め付けてきて。


 でも同時に、お姉さまにしてきたことへの酷い言葉も仕打ちも、全部が思い出されて。


 悲しいのと、

 嬉しかった記憶と、

 苦しいのと、

 楽しかった思い出が、


 全部全部ごちゃまぜになって。


「まだ、望んでいるのかなぁ」


 望んでいる自分を認めたくない。

 お姉さまが一番大切だから。


 シャリシャリとリンゴを食べている音が聞こえてくる。


『望んでいいんじゃない? なんか駄目なの?』


 めっちゃ他人事。いや、うん。スクルにとっては他人事だよね。お姉さまが無事ならそれでいいのかも。それでいいんだけど。


 もう興味なさそうにまた一口噛り付いているスクルの姿を見て、ふと、気になっていたことを聞いてみた。


「ねえ、スクル?」

『うん?』

「あの時、何をお母様に思ってた? ほら、今日お母様が来た時さ。なんか言ってたよね?」

『……ああ、あれは』


 言葉を止めて、スクルがジッと私を見下ろしてきた。え、何? やっぱり、あの時何かあったの?


『いや、あんたは知らなくていいかな』

「は?」

『フィリアにどうこうすることも出来ないし、セレスも同じ。それに気のせいかもしれないし』

「気のせい?」

『ちょっとだけ、ほんのちょっとだけね、違和感があった程度だから』


 何それ。気になるじゃんか。ものすっごい険しい表情になってたよ。今のクリクリの目じゃない感じで睨んでた気がするんだけども。


 というか、どうすることもできないとか、知らなくていいとか、なんか私が役立たずみたいじゃん! 何も役に立ってないかもだけど!


 ムッと頬を膨らませて見上げると、スクルがすかさずペシンと尻尾を顔に振り下ろしてくる。いきなりなんで⁉


『いいのいいの。そんなことより、あんたはこれからどうするのさ? もう魔力測定も終わったし、それに婚約者のことも王子様はする気ないって言ってたじゃん。お母様の件も、とりあえずはもう会わないらしいしさ。もうセレスが未来で死ぬことはないんじゃない?』

「そうかなあ?」

『なんかまだ不安なの?』

「そりゃあね」


 とりあえずスクルのフサフサ尻尾を顔からどけて、ん~と腕を伸ばしてから息を吐く。一気に今日一日でいろんな事がありすぎて、しかも感情がごちゃごちゃ過ぎて、頭働かないや。


 でも、不安は消えない。


 魔力測定の結果は、婚約者になりうる魔力量を誤魔化せた。

 殿下もお姉さまを婚約者にする気はないってはっきり言った。

 今回の件で、より一層バールは監視を厳しくするはず。だからお母様も簡単にはもう領地の屋敷から出てくることはないだろう。


 でも、やっぱり消えない不安。


 多分、お母様のあの様子を見たせいもある。お姉さまが憎くて仕方がないというあの顔を見たから。どんなに遠くにいても、何をするか分かったものじゃない。

 それに、殿下は言っていた。王宮でお姉さまを殿下の婚約者にと望む声があることを。


 ……かといって、その二つに対して今何ができるかって聞かれると、困ってしまうんだよなぁ。


 だって王宮のことは私ではどうしようもない。そもそもそんな簡単に行くところじゃないし。お母様のことだって、結局はバールとお父様頼りだ。バールがそれこそ絶対お姉さまに会わせないようにすると思う。


 だから考えるべきは、今度は学園のこと。唯一私が干渉できること。


 これからお姉さまは学園に入る。王国で唯一の学園に。貴族たちの子息子女の学び舎。


 この国の貴族に生まれた以上、学園に入ることは義務付けられている。十三歳から十八歳までの六年間、魔法とか領地経営とか、他にも色々と勉強しなければならない。


 でも私はまだ行けないんだよなぁ……。憎い! 今の幼い自分が! お姉さまと同い年で生まれなかった自分が!


 どうすればこの先、お姉さまが安心して学園で生活できるのかがさっぱりだし。前は殿下の計らいで個人授業だったけど、絶対今回はないだろうし。


「はあ……」

『らしくないなぁ。そろそろセレスも戻ってくるんだから、そんな辛気臭い顔してると、また具合悪いとか思われちゃうよ?』


 うっ……お姉さま、心配してるもんなぁ。さっきも泣いちゃったし、余計に。さすがにお母様の件では具合悪いとか思ってないと思うけど。


『フィリアがそんなだと、こっちも調子狂うんだけど。ほれほれ、いつもみたいに変なこと口走ったり、明後日の方向の思い込みして奇行に突っ走りなよ』

「……スクルって、私のことなんだと思ってるわけ?」

『思い込み激しい上に人の話を聞いてなくて、自爆するただの変人』


 ……自爆する変人って何⁉ 自爆してませんけど⁉ 魔力測定のことを言っているなら、ちゃんと成功してますけど⁉ お姉さまに助けられたけども! こっちはこっちで必死に色々と考えてるってのにさ! 


 と、言い返したいけど、やっぱり今日はそんなことをする気力も湧いてこない。


 ジトーッとした目でスクルを見ると、シャリシャリとリンゴを食べながら『ほ~れほれ』とか言って、スクルがペシペシペシとまた尻尾を顔とか首とかに叩きつけてくる。というかくすぐってくる。


 いや、あのさぁ⁉


「何、その中途半端な悪戯みたいなの⁉」

『全然いつもみたいに噛みついてこないから、今しかないなって』

「そんなに構ってほしいわけ?」


 何それ。

 なんかそんなおとぎ話あったような……。ああ、精霊の絵本と同じ場所に、そういえばあったよね。子供の頃にジルが精霊の絵本と一緒に読み聞かせてくれていた本だ。


「そんなの、妖精の悪戯じゃあるまいし……」

『……え?』


 ついそのおとぎ話の妖精のことを呟いたら、ピタッとその尻尾が止まって、聞こえていたシャリシャリという音も消えた。どうしたんだろ?


『……フィリア、今なんて?』

「? 妖精の悪戯」

『妖精を、知ってんの?』


 うん? 何言ってるんだろう? 誰もが知ってるとは言えないけど、知ってる人は知ってるんじゃないかな? 絵本あったくらいだし。


 ああ、でもスクルは精霊界にいたから人間の絵本なんて知らないか。精霊の絵本の時もそうだったしね。


「おとぎ話だよ、おとぎ話。ほら、精霊のことも絵本で知ったでしょ。同じように絵本で描かれてたんだよ」

『絵本……』


 どこか呆然としたように呟いているスクルを放っておいて、んーと思い出してみる。どんな話だったかな?


「確か……妖精さんは悪戯が大好きで、でもその理由が人に気づいてほしいとか、構ってほしくてだった気がする。小さい悪戯をいっぱいするんだよ」


 そうそう。言ってて段々思い出してきた。


「でも気づいてもらえなくて悲しんでいたら、一人の子供がその妖精にやっと気づくの。で、怒られたはず。『悪戯は迷惑だよ』って。それで改心して、その子供とお友達になって、仲良く過ごしましたとさ、みたいな話」


 だったはず。さすがにちゃんとした内容は朧気だけど。


 言い終えた時にスクルを見ると、すっごい険しい目つきになって、考え込むように下に顔を俯けている。え、何? どうしたの? 怖いよ、顔。


「スクル?」

『……』


 え、無言? だからなんで? ただのおとぎ話なのに?


「おーい、スクル?」

『……』

「ちょっと? どうしたの?」


 いやいや、本当に分からない。あれ? まさか精霊もいるぐらいだし、妖精も実はいたりする? というか、そこまで無言だと怖くなってくるんだけど? 


 妖精がいるのかも知りたいし、反応してほしくてチョンチョンと尻尾を突いていると、私の方を向いたかと思ったら、ボソリとスクルが呟いた。



『まんま……フィリアじゃん?』



 どこが⁉


「全然似てませんけど⁉」

『え? でも……セレスに構ってほしくて周りをチョロチョロしてるし、セレスに気づいてほしくて、色んなこと勧めてるよね、無理やり』

「言い方! 私のは全然悪戯じゃないんだけど⁉」


 ねえ! なんで、「そんな嘘だろ、気づいてなかったの?」みたいな顔してるの⁉ 違うじゃん!


 さすがに起き上がって、スクルの正面に座り直す。全然違うことをちゃんと証明してあげようじゃない! と、気合を入れてバシッと自分の胸を叩いてみせた。


「あのね! 構ってほしいは構ってほしいけど!」

『あ、そこは否定しないんだ?』

「じゃなくて! チョロチョロって言ったけど、私はお姉さまのそばにいたかったの! 一人にはしたくなかったから!」

『はいはい』

「それに! 刺繍だって料理だって色々と勧めてたのは、お姉さまに色々と知ってほしかったから! スクルもそれはよ~く知ってるでしょ!」

『うんうん、ソーダネー』


 どうでもよさそうな返事にものすごく腹が立つ!


「楽しいとか嬉しいとか、色んなことを知ってもらいたかったっていうのも、ちゃんと知ってるくせに!」

『何の為に?』

「は⁉ 何の為⁉ 何の為って、それ……は……」


 揺るがない、私の願い。



 お姉さまが、笑顔になる為に。



 ふふん、とスクルが楽しそうに笑った。


『そうそう。そこを譲らないのが、フィリアじゃん』


 私が心の中で思ったことを見透かしたのか、ちょっと勝ち誇った顔をしてまたリンゴを一口齧っていた。


 ……何だ、まだちゃんと心配してたってこと? 私がいつもみたいに喧嘩しかけたり、反論したりしなかったから。お母様の件でお姉さまに罪悪感を感じているのも、素直に喜べないのも分かってるから。


 でも励ますとか。スクルのくせに。

 そんなスクルの気遣いにほっこり胸をあったかくさせていると、満足そうにリンゴを食べながらスクルが口を開く。


『その為にバカやって、空回りして失敗して、で、最終的にセレスによしよしされる、と』


 ――言わなくていいことまで言うのもスクルだよね! 


 こうなったら、スクルでこの嫌な気持ちを発散させようじゃない! とりあえず、振り回してあげようじゃないの! お望みどおりに!


『うん? うわっ! だ、だから! いきなり持ち上げるの禁止――ってぎゃあああ! 振り回すなあああ!』

「え? こうされたかったんでしょ?」

『はあああ⁉ 誰が好き好んで体振り回されたいって思っ――やぁめぇろぉ! ひいいい!』


 叫んでいるスクルをグルグルと自分を軸に回してあげていると、体も丁度良く動いて気分がスッキリしてきた。はっ! これはすごくいい気分転換になるじゃない! 今更気づいた! ありがとう、スクル!


 なんてお姉さまとアネッサが戻ってくるまで二人でクルクル踊っていたら、そんな私たちを見てアネッサは苦笑して、お姉さまは「えーと……」という何とも言えない顔をしていたよ。とりあえず「スクルと遊んでました!」と元気よく答えてみたけど。


『うえっぷ……フィリア……後で覚えてなよ……』


 ごめんごめん。さすがにやりすぎた。それでもリンゴ食べたいんだね。ちゃっかりさっき落としたリンゴにしがみついているよ。仕方ない。今日はいつもより多めにあげよう。


 お姉さまはスクルの背中を擦りつつ、でもスッと私の方にも手を向けてくる。ゆっくりと労わるように私の頬に手を添えてきた。


 まだ心配なのかな? 目元を親指で撫でてくる。くすぐったい。まだ腫れてる? さすがに泣きすぎたよなぁ。


「カンナは?」

「まだきてないですね」


 そういえば、大分経つけど戻ってきてないな。どうしたんだろう? というか、さすがに動き回り過ぎたかも。カンナが戻ってきたら、私もお風呂に入りにいこう。


 それにしてもお姉さまの手、お風呂上がりだからポカポカする。


 あったかいな。


 ギュッと自分の頬を押し付けて、スリスリと頬ずりしてみる。お姉さまは優しいから私のしたいようにさせてくれてるけど。はい、スクル。こっちを呆れた目で見てこないの。


 ……優しすぎるから、お母様のことも許してしまう。


 私は、やっぱり許せそうにない。

 好きにはもうなれない。


 だって、



 お姉さまが亡くなった時、あの人が笑ったことをまだ覚えている。



 どんなに私のことを大切だと分かっていても、


 大事だと言われても、


 どんなに相手を憎んでいたとしても、



 その人の死を笑う母親はいらない。



 だから、私はまだ許せそうにない。


 お姉さまが、お父様が、バールが、皆が望んでいても。

 ごめんなさい……お姉さまの優しさを、なかったことにしようとしていて。


 でも、



 今は、貴女を笑顔にする方が大事だから。



「すいません! 遅くなりまして!」


 珍しくカンナが慌てた様子で部屋に入ってきた。


 アネッサが「あらあらまあまあ」と何とも気の抜けた声を出している。アネッサも珍しいと思っているみたい。あれ? 顔赤い? 大丈夫かな? 


 でもお風呂行きたいんだよね。もし具合悪いなら休んでていいけど、とりあえず言ってみよう。


「カンナ、私もお風呂行きたいです」

「え? あ、は、はい! 今準備しますね!」


 パタパタと忙しなく動きだしたカンナに、私もお姉さまもスクルもアネッサも顔を見合わせた。カンナがあんな焦っている感じなの、本当に珍しい。ゆっくりで大丈夫なのに。


「お姉さま、私も行ってきますね」

「……」


 え? な、なんでここで無言? あの、お姉さま?

 何も言わないでジッと見てきたかと思ったら、今度は両手で頬を挟んできた。いやいや、なんで⁉


「お、おねえひゃま?」

「……」


 無言でまた殿下と一緒にいた時と同じようにコネコネしてくる。だからなんで⁉


 目の前のお姉さまは何故か首を傾げて、コネコネコネコネ。

 そんなに気に入ったのかな⁉ いいけど! もう好きなだけコネていいけど!


 とりあえずお姉さまが落ち着くまで、準備を終わったカンナに目配せして待ってもらったよ。


「……」


 手を離したお姉さまが、どこか不満げに私とカンナをお風呂に送り出してくれたけど……どれだけ気に入ったの⁉ はっ、でもこれはお姉さまを喜ばせるチャンスでは⁉ 


 と思ったので、急いでお風呂を終わらせて、夜寝る前に自分の頬を突き出してみた。

 でもお風呂前に十分満足していたらしく、「もう寝ましょう」と普通に寝てしまったよ。


 気に入ったんじゃなかったの⁉


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