2話 こんな奇跡、もう二度と起こらない
『セレス……』
お姉さまの、声が聞こえる。
『セレスティア……』
初めて会った時、小さい声でそう自分の名前を教えてくれた。
ちゃんと教えてくれたのが嬉しくて、笑ってしまったのを覚えている。私が笑ったのが変だったのか、お姉さまは戸惑っている顔をしていたけど。
なのに、
あの戸惑っているお姉さまは、最期の瞬間、見たことない顔で笑っていた。
血に塗れながら、
満足そうに、
『フィリア……』
最期の最期に、
初めて私の名前を呼んで、
目を、閉じた。
「いやあああ‼」
ハアハアと息を吐きながら、体を起こす。思い出したくない過去を見せられて、心臓が苦しくなるくらいに脈打っている。汗が体にへばりついて、気持ち悪い。
「お嬢様!」
え?
聞き覚えのある、でもあまり聞きたくない声が耳に届いて顔を上げた。
「ああ、お嬢様……よかった。よかったです」
泣きながら私を見下ろしている侍女の顔に、驚きを隠せない。なんでここに? 誰にも会いたくなくて、教会にいたのに。
それに……なんか変。ジルって、こんな顔だった?
「体は痛みませんか? お腹は? ああ、それより奥様にお知らせしないと」
矢継ぎ早に捲し立てる昔からいる侍女に戸惑っていると、「誰か! 誰かいない⁉」と扉の向こうに声をかけている。
「すぐ戻ってまいります。奥様もお喜びになりますわ」
奥様? え? お母様もいるの?
いやだ、会いたくない。
やめて、と言おうとしたところで、伸ばした自分の手がふと視界に入った。あ、あれ? 小さい?
自分の手が小さいことに違和感を感じて、手から自分の体に視線を移す。この服、子供の時の? なんで?
服もそうだけど、よく見ると手だけじゃない。足も短くなっている。胸もぺったんこ。なのに、この子供服はちょうどいいサイズで。
――何がどうなっているの? 今の自分の状況と、でもさっきまでの記憶が混乱する。
私はあの教会にいたはずなのに。そこで、変な恰好をした女の子がいて、なんかすっごい大きな魔法陣が――
「ああ、フィ! よかった、本当によかった!」
考えが全然まとまっていない時に、扉からお母様がお医者さんと一緒に現れた。あれ? なんかお母様の様子も……というか若くなってない⁉ お母様、こんな若かった⁉ 会いたくなかったけど、その変化ぶりに驚きなんですが⁉
「心配したのよ。全然目を覚まさなくて」
「え?」
「ずっとあなた臥せっていたのよ。覚えてない? あの子に池に落とされてから高熱を出して」
……あの子?
母が優しく頬に手を添えてきて、顔を覗き込んでくるけど、それどころじゃない。
『あの子』って、今お母さま言った?
「ふむ。熱も無事下がったようですな。これならば問題ありませんよ。お嬢様、他にどこか痛いところとかありませんか?」
「え? ない、です」
「本当なの、フィ? 遠慮しないでちゃんと言っていいのよ。あの子に突き飛ばされたって、侍女たちも言っているのだから」
「奥様、落ち着いてください。そんな詰め寄るようにしては、お嬢様のお体にも障りますよ。それに、まだセレスティアお嬢様も八歳なのですから。そんな怪我をさせるほどのことは考えませんよ」
お医者さんがまだ納得がいかないような顔をしている母を宥めてくれているが、聞き捨てならないことを言った。
八歳、って今言った? 言ったよね? それに、
「セレスティア、お姉さまが、いるの?」
年老いたお医者さんは呟くように小さい声で言った私の言葉に気づいたようで、ニコリとしてから頷いた。
「いますよ。セレスティアお嬢様も念のため診させていただきましたが、特に異常は――ってお嬢様⁉」
「フィ⁉」
お医者さんが言い切る前に、ベッドから飛び降りた。お母様たちの間を走り抜け、いきなりの行動を起こした私に戸惑っている侍女たちの横も通り抜ける。
部屋を出て、見慣れた廊下を走る。すぐ息が苦しくなったけど、それでも手と足を動かした。後ろからはお母様たちの声が聞こえたが、それどころじゃない。
お医者さんは八歳って言ってた。
だから、だから、
いるんだ。
あの人が、いるんだ。
いつもの部屋が視界に入った。
ノックする時間も惜しくて、すぐにでもこの目で確かめたくて、乱暴に扉を開ける。
閉ざされてない、前は氷で閉ざされていた扉を開けると、
「……え?」
小さい声で、椅子に座っていた女の子が、目を見開いてこっちを振り返った。
あの煌めいている銀髪を揺らして、
あの透き通るような綺麗なサファイアの瞳を向けてきて、
もう会えないって思っていた、
「セレスティア……お姉さま……」
もう二度とその目が私を映すことはないと思っていた、
お姉さまの姿が、そこにある。
「……? なんで?」
私の知っているお姉さまの戸惑っている姿に、涙が込みあがってくる。
さっきまで全力疾走したせいか、その姿を見て安心したのか、息を切らしながら、へたりとその場に座り込んでしまった。でも、関係ない。
お姉さまだ。
ちゃんとお姉さまだ。
涙が止まらない。
嬉しくて止まらない。
「なんでここに?」
いきなり泣き出したからか、お姉さまが遠慮がちに近づいてきて、しゃがんで顔を覗き込んできた。困っている。
その顔が、初めて会った時のお姉さまの顔で。
ちゃんと実感したくて、
ここにちゃんといるんだって、分かりたくて。
そのお姉さまに思いっきり抱き着いた。
「あ、の……?」
勢い余って床に倒しちゃったけど、そんなの考えていられない。
あったかい。
お姉さまがあったかい。
もう冷たくない。
心臓の音が聞こえてくる。
間違いない。
ちゃんと、生きてるんだ。
「ねえ?」
戸惑っているだろうお姉さまの声が心地よくて、それでもギューッと私が離さないでいると、遠慮しがちに私の頭に手を置いてくれた。
その手が優しくて、こんな優しい手だったんだなって、今更ながら知って嬉しくなってくる。
「っ……お姉さま」
「……何?」
「会いたかったっ」
「一昨日、会ったけど……?」
お姉さまからしたら、そうかもしれない。
でも、本当にもう会えないと思っていたの。
もうその声も、聴けないと思っていたの。
「会いたかったんですっ」
この温もりに触れることなんて、もうないと思っていたの。
なんでありえないことが起きているのかさっぱり分からないけど、
こんな奇跡、もう二度と起こらない。
失敗できない。
今度こそ、ちゃんと、
あなたを救ってみせる。
「あの……もういい?」
「だめです! まだだめです!」
泣きじゃくって離さない私に、お姉さまがものすごく困っている声を出した。