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20話 教えてくれていた―セレスティアSide


「お嬢様、こちらを」


 アネッサが冷やした布を差し出してきた。手に取ると冷たい感触が手に伝わってくる。これをどうすればいいのだろうと首を傾げてアネッサを見上げると、膝の上にいつのまにかいたスクルがその布を取って、私の目元に当ててきた。


「賢いな……」

「フィリアお嬢様が一生懸命躾けているみたいですし、セレスティアお嬢様には非常によく懐かれているのですよ。まあ……たまにこちらの言葉が通じているのか、ハッとさせられる行動もしますが……」


 ボソリと向かいのソファに座った父が呟き、バールが父の隣でクスリと笑っていた。


 なんだか、変な気分だ。

 さっきまでの出来事も、今、目の前の父と向かい合ってソファに座っていることも。


「……それにしても、フィに本当に懐かれているんだな」


 困ったように、どこか気まずそうに、父が言葉を探すように言ってくる。


 あの子は今ここにいない。

 頬も目元も赤くして私にしがみついていたけど、父が「セレスティアと二人で話そう」とあの子に言っていた。それでも私の腕から離れようとしなかったので、カンナが困りながら抱きかかえて部屋から連れ出していたけど。


「お二人は本当に仲睦まじく、日々過ごされていますよ。旦那様が全く見ていなかっただけでございます」

「アネッサ」

「あら、バール様? 事実を言っただけですよ?」


 アネッサの少し棘がある声にバールが溜め息をついていた。父はまた気まずそうに下を向いていて、重く息を吐いている。


「……アネッサ、悪かった」

「先程フィリアお嬢様が仰られていたことをもうお忘れで? 謝る相手が違うでしょう?」


 こんなアネッサは初めて見る。いつもニコニコしているのに、今は明らかに怒っているから。ついスクルの手を置いてからアネッサを見上げると、困ったように笑っていた。


「……どうしていいか、分からなかった」


 ポツリと父が呟いたから視線を戻すと、今まで見たことない目で、私のことを見ていた。


「……ミアラの先が長くないと知って、どうすればいいのか分からなくなった」


 こんな声も、初めて聴いた。


「自分でいいのか、育てられるのか、ミアラ以上にお前を大切にできるのか……何も分からなくなったんだ」


 ……それは私もだ。私も、この人とどうすればいいのか分からない。会話も碌にしていなかったから、それが普通だと思っていた。


「そんな時に、救われた。ヴィエラとフィに」


 あの母娘に?

 自嘲するように、父は笑った。


「バカだと思う。目の前のお前から逃げたんだから。二人と一緒にいるのが居心地がよくて、俺は自分のすべきことを考えることから、ただ逃げたんだ」


 逃げた。私から、逃げていた。

 そう言われても、分からない。父の今までの行動が、逃げていることだったなんて考えたことなかったから。


 父は苦しそうに、ハアとまた息を吐いている。ぼんやりと眺めるしかできない。どんな言葉をかければいいのだろう? 逃げていると言われても、自分には逃げているように見えないから。


 逃げることは、辛いことなのだろうか?


「本当にどうかしていたと今は思う。フィに言われて気づくなんて」

「本当にそうですわね。幼い子に諭されないと何もできないなんて、そんな教育を旦那様にした覚えはありませんよ?」

「アネッサ、お嬢様の前ですよ」

「バール様、この際だから言わせていただきますけど、ミアラ様が亡くなった後、旦那様が私たちにした所業をお忘れですか?」

「それは……」

「喪も明けていないのに後妻をすぐに娶り、もう用はないと言わんばかりにずっと仕えていた私たち使用人を次々に解雇して、挙句の果てにはミアラ様の忘れ形見であるお嬢様を蔑ろにしていたんですよ? 何も思わないでいるなんて、そんな出来た人間ではございません」


 珍しいアネッサの強い圧に、バールも顔を下に俯けている。何か思うことでもありそうだけど、それが何なのかは分からない。そんなアネッサに「そうだな」と父がまた小さく呟く。心なしかものすごく暗い。空気が暗い。さすがに分かる。


「どうしてそんなことをしたのか、俺も分からない。でも、それでいいとあの時は思っていたんだ」

「旦那様……」

「いいんだ、バール。アネッサの怒りは最もだ。父の頃から仕えてくれていたのに」


 ちょっと驚いてしまう。アネッサって、そんな長くここにいたんだ。


「自分でも分からないが、ずっと頭の奥に靄がかかっている感じがしたんだ。ミアラがいなくなってからは特に。ヴィエラとフィと一緒にいる時、他はどうでもいいと、そう考えることしか出来なくなっていた」

「言い訳ですわね」

「アネッサ、言い過ぎです。旦那様は――」

「バール、やめろ。アネッサの言う通り、これはみっともない言い訳だ」


 バールの声を遮って父が困ったように笑っている。

 なんの言い訳なのか分からないでいると、スクルが何故かピョンッと父の膝の上に飛び乗っていた。いつの間に。


「なんだ?」


 いや、私にも分からない。スクルは基本、私かあの子のそばにいる。あまり離れようとしない。なのに、いきなり父に近づくなんて。


 スクルの行動にバールもアネッサも目を丸くしていた。これは、スクルを止めた方がいいのだろうか?


「うわっ」


 小さい体と腕を伸ばして、スクルが両手で父の顔を掴んでいた。引っ張って、父の目を覗き込んでいるようにジーっと見つめている。たぶん。ここからだとスクルの頭しか見えない。


「ど、どうしたんだ? バール、どうすれば?」

「いや、その……」


 父もバールも明らかに動揺している。でもスクルはその場から離れない。右、左、と父の顔を動かしながら、ついでに父の両頬を引っ張っている。これはやっぱり助けた方がいいのだろうか? 


「スクル」


 いつものようにスクルの名前を呼ぶと、つぶらな瞳を向けてきた。何がスクルの琴線に触れたのか、そのまま父の両頬を引っ張ったり縮めたりと一通りしてから、身軽にピョイッと父の膝から降りて、私の肩に乗ってくる。飽きた?


「い、一体何だったんだ?」


 訳が分からなそうに父が自分の手で頬を触りながら、パチパチと目を瞬いていた。私も分からないけど、スクルは今ので十分満足したらしい。尻尾を振りながら、私の頬に頬ずりしてくる。短い白い毛がかかって、ちょっとくすぐったい。


「懐いてるな……」

「旦那様に怒ったんじゃありませんか? 言い訳してないで、お嬢様を大切にしろとか」


 アネッサの言葉につい顔を上げてしまった。「スクルが怒るのも分かります」と、アネッサはアネッサで何かを納得したように首を縦に振っている。大切に?


「先程のお嬢様の涙の意味を、旦那様はちゃんと考えるべきです」


 はっきりとそうアネッサが口にして、先程の自分に起きたことを思い出す。


 涙。

 あれが、涙。


 あの子もよく泣いているから、涙がなんなのかは分かるけど……なんであの時、あんなに胸が苦しくなったのか分からない。


 父にすまなかったと言われて、どうしようもなく胸が騒めいた。

 知らない間に、自分の目から水が零れていて、訳が分からなかった。


 小さいスクルの手が頬を撫でてくる。ふにふにとして、やっぱりちょっとくすぐったい。


 でも、その頬に、さっき涙が流れたんだ。


「セレスティア」


 自分でも何故泣いたのか分からなくて戸惑っていると、父が向かいのソファから立ち上がって、私の近くに膝をついた。ちょうど目線の高さが一緒になる。


「今更、本当に遅いと思う。何を謝っても、もうお前には届かないかもしれない」


 届かない? 謝る?


「ずっと見ないふりをしていた。言い訳をしたところで、事実は変わらない」


 スッと先程と同じように父の大きい手が頬を包んでくる。スクルがいつの間にか膝の上に座っていて、私の顔を見上げていた。


「お前が苦しむことも、苦しんでいたことも……本当は分かっていたのに、本当に自分は愚かだ」


 苦しむ? 苦しんでいた?

 私は、苦しんでいたのだろうか?


 でも、その大きい手が、その温かさが、耳の奥に響いてくる。


「傷つかないはずがないのに」


 大きな腕の中に、体が包まれる。



「本当に、すまなかった」



 その言葉が、重く、低く、耳を通して胸に響いてくる。


 さっきと同じように、目頭が熱くなってくる。


 どうして?


「大切にできるかどうかじゃない。いつもミアラは言っていたのにな」


 胸の奥が痛い。


「大切にするかしないか、それだけだと、ミアラは言っていたのに」


 ああ、ほら、まただ。

 知らない間に、頬を伝る感触がある。


「自分の不安を優先するべきじゃなかったのに、お前を誰よりも優先するべきだったのに」


 私を包んでくれる腕が強くなる。



「セレスティア、お前を大切に想う気持ちは、ちゃんと自分の中にあったのに」



 大切に、想う気持ち。


 何度も何度も、父は「すまなかった」と呟いた。


 その言葉が何度も胸に響いて、どうして自分が泣いているのかが、少しだけ、少しだけ分かった気がする。


 大切に、されたかったのだ。


 父に、私は、ちゃんと。



 そう、言ってほしかったんだ。



 今まで、父がどんな目をしてこようが、自分にはどこか関係ないと思っていた。

 どうでもいいとさえ思っていた。


 でも、父があの子に向ける瞳が違っていて、その度に胸の奥が苦しくなった。


 見ない振りをしていた。

 気づかない振りをしていた。


 だって、そうしないと、どこか惨めな気持ちになって。

 息をするのも、苦しくなって。


 でも、そうか。

 ちゃんと、大切にしてほしかったんだ、私は。

 だから今、父に「大切だ」と言ってもらえたことに、安心しているんだ。


 そんな自分がいることに自分自身で驚いてしまうけど、父にこういう風に思われたかった、なんて、思っている自分がちゃんといる。


 今まで知らなかった温もりに包まれているのも、本当は今も信じられなくて。


 でも、どうしてだろう。

 信じられないけど、それでも安心できるのは。


 この温かさを、私はもう知っている?


 ……ああ、そうだ。

 あの子だ。


 あの子が、いつも与えてくれる、温かさだ。


 あの子がくれる、安心だ。



 父が今くれる安心を、あの子がいつも与えてくれていたんだ。



 思い出すのは、あの子の顔。

 知っていたのは、あの子の温もり。


 あの子が、教えてくれていた。


 あの子が。



 フィリアが。



 私に、教えてくれていた。



 ……?


 いつから私は、あの子のあの温かさを、知っていたのだろう?


 あの温かさが、安心できるものだって、いつから?


 ふとした疑問が、頭を過った。



次話から3章になります!

お読みくださり、ありがとうございます!

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