1話 ただ笑ってほしかった
ただ、笑ってほしかった。
それだけだったのに。
「お姉さま……」
ポツリと呟いた言葉が、虚しく空気に溶けていく。
窓の外に広がるのは眩い星の瞬き。
なのに、心は晴れない。
輝いてもいない。
目を閉じても、頭に浮かぶのは最期の義姉の顔。
……笑っていた。
初めて見た、お姉さまの微笑み。
私の義姉。
血の繋がらない、美しい義姉。
セレスティア・ローザム。
初めて会った時に、艶やかな銀髪を靡かせ、その引き込まれるようなサファイアの瞳を、戸惑いながらもまっすぐ向けてくれた。
血塗れの手で、それなのに満足そうに笑っていたお姉さまの笑顔が、頭から離れない。
どうして……笑っていたんだろう。あの時から消えない疑問。
あんな形で、見たくはなかった。
ずっとずっと、初めて会った時から望んでいたお姉さまの笑顔だけれど、見たくなかった。
私は、
私は、生きている温かい笑顔を見たかった。
死ぬ時に見たかったわけじゃない。
それなのに、
それなのにどうして、あの時に限って、笑っていたんですか……。
心の中で何度も何度も問いかける。でも答えが返ってくることは無い。そう思うたびに苦しくて、胸の奥が苦しくて、息がし辛くなっていく。自然とギュッと膝に置いた自分の手を握りしめた。
望んでいた。
私は確かに望んでいた。
お姉さまが笑う顔を見たかった。
だけど、
「こんな形で……望んでいないのに……」
何も出来なかった自分の不甲斐なさに吐き気までしてくる。
視線を下げた先に、視界に入ってきたのはテーブルの上に置かれたスープの器。置かれてから時間が経っていないからか、湯気が立っている。今いる教会の下働きの人が持ってきてくれた。明日はここでお姉さまの葬式が行われるから、無理を言って空いている部屋を使わせてもらっている。
……お姉さまは、こんな温かい食事も与えられなかった。
脳裏に浮かぶのは屋敷で虐げられた子供の頃の義姉の姿。
血が繋がっているはずなのに無関心な父親と、もういない義姉の母親に対しての憎しみで一杯の母。
あの二人はここにいない。仮にも侯爵家の娘が亡くなったのに、悲しむ素振りさえない。それどころか、母に至っては喜んでいるんじゃないかとさえ思う。義姉の亡骸を見た母が、わずかに笑ったのをこの目で見たから。
――姉が一体何をしたというのだろう。
私から見る義姉は、とても静かな人だった。
父にいないものとして扱われても、母に何を言われてもされても、怒る訳でも反抗的なことをするわけでもない。
あの二人から優遇されている私にも、彼女は何もしてこなかったのに。
今までの義姉に対する両親の仕打ちに、涙がまた自然と頬を伝っていく。食欲なんて湧いてくるはずがない。
変えたかった。
姉の置かれている立場を。
助けたかった。
姉自身を。
だけど、私が何かを言っても、やっても、状況は悪くなるばかり。父はやっぱり無関心だし、母は逆に激昂した。
何も出来ない自分に不甲斐なさを感じていた時に、第三王子のラーク殿下が姉を婚約者に選んだと聞かされて、助けてほしいと願った。自分では何も出来ないから、王族の人なら助けてくれると思った。
姉の表情は変わらなかったけど、でも、普通の部屋と食事を父は与えるようになった。
感謝した。
私に出来ないことを殿下はやってくれたから。
良くなると思っていたの。
殿下の隣なら、殿下のそばなら、あの人は笑えるようになるって思っていたの。
それなのに、殿下は根も葉もない噂を信じた。
母の妄言を聞いて、それを信じた。
私が何度もそんな事実はないと言っても、もう殿下の中で私は義姉に虐げられている存在になっていた。
殿下を信じたかった。
殿下しかいなかった。
裏切られたと感じたのは私の身勝手。
そんなことは分かっている。
私の方こそお姉さまに何もしてあげられなかったくせに。
家族に虐げられていた彼女を、
学園で浮いた存在になっていた彼女を、
何も救えなかったのは私だって分かっている。
それでも、それでも縋るしかなかった。
だけど……。
あの人は、義姉は、誰からも救われなかった。
ポタポタと次から次へ涙が頬を伝ってくる。
泣く資格なんか私にはない。
家族からは優遇され、挙句の果てには私を慕っていたカーラが義姉を手にかけた。止められなかった私が、悲しむ資格なんてない。
それでも涙は勝手に出てくる。
最期に微笑んだ彼女の顔を思い出すたびに、胸の奥が苦しくなる。
なぜ、なぜと、答えが返ってこない問いかけをずっと心の奥で唱え続ける。
「……お姉さま」
また自然と声が出るけど、その言葉もまた空気に溶けていく。
この数日ずっとこんな調子だから、殿下も母も父も、「君のせいじゃない」とか言ってくる。
それが嫌で嫌でたまらなくて、会いたくもなくて、だから私はここにいる。同情されるのも、勝手に恨んでいる私を思い知らされるのも、全てが今は嫌で仕方がない。
けれど、明日にはもうここを出ていかなければならない。
明日、本当にお姉さまとは会えなくなるのだから。
棺の中で眠っているあの人を、見送らなければならないから。
お姉さまの顔を思い出すと、自然とまた見たくなってきた。もう何度も何度も見にいって、やっぱり目を開けないことに虚しさが胸の中に広がるけど、それでもまた会いたくなる。
袖口の服で軽く目元を拭ってから、椅子から立ち上がった。ここにいても、どうせ来るのは殿下だけ。
義父にも母にも会いたくないと伝えてある。ここに留まるようになってからは頑なに面会を拒否した。
でも殿下は違う。
さすがに王族だからか、教会の人たちもすんなりと殿下だけは通してくる。私は会いたくないけど、教会の人たちには良くしてもらっているから、無理を言えない。
それに義父と母が来ないようにしてくれているのもきっと殿下だ。私も会いに来られたら、さすがに会うしかなくなる。
今の時間なら殿下はきっと来ない。いつも来るのは夕方だから。さすがに夜までは会いにこないはず。
軽く息を吐いてから、扉を開けた。碌に食べてないせいか、少し体がふらつくけど、無理やり足を動かした。
お姉さまの顔を見たら、また泣くんだろうな。目をまた開けてくれないかな、とか、思ってしまうのは我儘なのかな。そうしたら、お姉さまに聞きたいな。
どうして、あの時、笑っていたんですかって。
……でもきっと、お姉さまは何も言わないんだろうなとも思ってしまう。困ったような顔で見てくるに違いない。それに、お姉さまは私のことを最後は嫌っていたみたいだから、余計教えてくれなさそう。
――そういえば、昔お菓子をくれた時も何も言わなかった。殿下の婚約者を選ぶお茶会に出た時、お姉さまはお土産に可愛らしいお菓子をくれた。
嬉しかったなぁ……。
戸惑いながら、でも私の手にそのお菓子を乗せてくれて……自分の方がお腹を空かせていたはずなのに。
数少ないお姉さまとの思い出。
でもお姉さまの優しさに触れられた、最期の思い出。
「……もっと、他にも色々としたかったのにな」
一緒にご飯食べたり、一緒に学園に行ったり、他愛無いお喋りとかでもよかった。
そうしたら、そうしたらもっと、お姉さまのことを知れたのに。
母のことを気にして、義父のことを気にして、殿下のことを気にして。私が何かをすればするほど、お姉さまを傷つけていると思って、何も出来なかった。
でも、恐れないで、気にしないで、何かしていれば……
「笑ってくれたのかな……」
あんな最後の場面じゃなくて、
日常で、
あの微笑みを向けてくれたのかな。
そんな幻想を抱いて、義姉がいる部屋の扉に手をかけた時だった。
「はあ⁉ 何を無茶苦茶言ってるんですか⁉」
知らない女の子の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「いやいやいやいや! そんなんしたら、全てが終わりますって! 分かってるでしょうに!」
誰? それに、誰かと喋っている?
静かに少し扉を開けて、隙間から部屋を覗き込んでみる。お姉さまがいる棺の前に見覚えのない後ろ姿がいた。しかも見たことない恰好をしている。昔、母に読んでもらった絵本に出てきた魔法使いみたいな恰好。真っ黒なコートに、とんがり帽子。現実であんな恰好する子いたんだ。
「はあ……分かりました! 分かりましたよ! やればいいんでしょ、やれば!」
誰かと喋っているようなのに、誰も彼女の周りにはいない。本当、誰と喋ってるの? というか、本当に誰? お姉さまの知り合い? いやでも、あんな恰好の人と話しているの見たことも聞いたこともないし。
「こんなことして、どうなるか分かりませんからね! 決して、あたしのせいじゃないですからね! 怒られるのあんただけですからね!」
彼女の話している内容がさっぱり分からないけど、その彼女はいきなり手を上にあげた。その手の先には杖が浮かんでいる。え、いつのまに出したの? なんの魔法、これ?
「ホント、最悪だわ……こんな主マジ嫌すぎだから……ってあんたのことですよ、あんたの! ハア……もう全てが終わったらめっちゃ休んでやる! 誰にも文句言わせないし! って、だからあんたに言ってんだよ⁉」
彼女が誰かに怒鳴っている最中にも、彼女を中心に大きな魔法陣が描かれていった。何、これ? こんな魔法、知らない。どの本にもこんな複雑な魔法陣なんて書かれてなかった。
でも、嫌な予感がする。
だって魔法陣の中心には、お姉さまが眠っている棺がある。
魔法は魔法陣の中心で行われるのだから。
何かが、起こる。
「無茶はもうこれっきりにしてくださいよっとぉぉぉ‼」
彼女が手を振りかざすと同時に、杖がお姉さまの棺の上に突き刺さる。棺を中心に強烈な眩い光が放たれた。
だめ。
だめっ!
お姉さまに、何をするつもりなの⁉
「やめて‼」
「へ?」
少し開けていた扉を思いっきり開け放って、私は二人のところに駆け出した。
知らない誰かが私の方を振り返ると同時に、より一層強い光が、部屋を、今いる空間を包んでいく。魔法陣を中心に暴風が巻き起こる。
あまりにも強い光で、目が開けていられない。眩しくて、それに食べていなかったせいなのか、体が言うことを聞いてくれなくて、足を縺れさせ転んでしまう。
「あ――た、どう――⁉」
知らない誰かの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
だけど、お姉さまを何とかしないと!
必死で手を伸ばす。
手が届くのかなんて分からない。
それでも、ちゃんと掴みたかった。
今までみたいに誰かに頼るのじゃなく。
今度は自分の手で、ちゃんとあの人を掴みたかった。
そばにいるよって伝えたかった。
けれど、何故かどんどん体が重くなっていく。
暴風のせいなのか、それとも体力がないせいなのか、光のせいなのかは分からない。
「おねえっ……さまっ……」
微かに開けていた目に映るのは揺らいでいく視界。
何も見えない。
頭が重い。
こんな形で、もうあなたと会えなくなるのは嫌なのに。
目の前が真っ暗になった。