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仮設詰所

掲載日:2025/05/07

夜勤って、なんだか“交代”という言葉が重く感じるときがある。


次の人に引き継ぐだけ。

自分の担当を終えて帰るだけ。

でももし、それが“存在そのものの引き渡し”だったら――?


これは、工場で夜勤をしていたある男が体験した、“引き継ぎ損ねた存在”との遭遇を描いた、静かな恐怖の物語です。

夜の工場というのは、妙に音が響く。


昼間なら機械の騒音に紛れて消えるような足音や、誰かの咳払い、微かな工具の音が、全部むき出しになる。

鉄骨の梁が冷えて鳴る音。油の焼けたにおい。蛍光灯の微かなブーンという音。


今夜も、いつものように交代勤務が始まる。


俺はA班。夜勤側。

相手はB班。昼勤。


「お疲れっしたー」


詰所の中で、B班の連中が交代の記録表に名前を記入していく。

点呼のための名簿には、名前がずらりと並んでいて、誰が来て、誰が帰ったかがわかるようになっている。


――ん?


その表を見て、俺は首を傾げた。


(……一人、多いな)


今日のB班、いつもは8人のはずが、名前は9つ。

見慣れない名前が、欄の一番下に小さく書かれている。


「藤谷(ふじたに) 崇(たかし)」


誰だっけ?

新人か? でも聞いてないな――


「おーい、藤谷って誰?」


俺が口に出すと、班長が軽く手を振った。


「あー、それ多分ミス。古いやつが残ってんだよ、たまにあるんだ」


「ふーん……」


何気ないやり取りだった。

でも、その瞬間だけ、なぜか詰所の空気が、ほんの少しだけ“重く”なった気がした。


たまたまだろう、と思いたかった。

だがその後、俺の背中を、B班の誰かがちらりと見ていたのを、俺は見逃さなかった。


それも、ちょうど“その名前”を指さした直後だった。






午前2時を回った頃、巡回当番が俺に回ってきた。


製造棟のラインを一通り見て回るだけの簡単な仕事だ。

夜中の巡回は、正直なところ気が滅入る。

無人のライン、停止中の機械、誰もいない更衣室――

物音ひとつないはずの場所で、ふと“何かの気配”を感じることがある。


工場というのは、稼働していないときほど、生きているように感じる。


そんな中――

ふと、製造棟の裏手を通ったときだった。


視界の端に、小さな灯りが入った。


(……あれ?)


それは、古い仮設の詰所だった。


以前、工事や増設対応で使われていたプレハブの簡易施設で、今は倉庫としても使われていない。

昼間でも誰も近づかない場所だ。

鍵はかかっているはずだし、電源も落としてあると聞いていた。


だが、確かに明かりが点いている。


蛍光灯特有の青白い光が、すりガラス越しに滲んでいる。


(誰か、いるのか……?)


だが、それはおかしい。


この時間、B班はすでに全員退勤しているし、夜勤のA班で仮設詰所を使う者はいない。


俺は慎重に近づき、そっとガラス越しに中を覗いた。


中には――


誰かがいた。


作業服を着た男が、ひとり、机に向かって座っていた。

背を向けているので顔は見えない。

ただ、右肩のあたりに、油汚れの染みがあるのがわかった。


(……知らない作業員だ)


俺は息をひそめた。

ガラスに触れそうな距離で、じっと様子を伺っていると、


男が、ゆっくりと首だけをこちらに向けてきた。


だがその動きは、途中で止まった。


顔の半分が、こちらを向いたまま――動かない。


表情は見えない。

ただ、まるでこちらに“気づいたのに、何も言わない”ような不自然さがあった。


そのとき、ポケットの中でPHSが震えた。

A班の先輩からの内線だった。


「おう、巡回終わったか? 遅いぞ」


「……あ、いや、今……仮設の前に……人が……」


「は? 仮設? 誰もいないだろ、あそこ」


「いや……明かりが点いてて、作業着の男が……」


「やめとけ、戻ってこい。すぐに。いいな?」


その声は、いつになく真剣だった。


俺は反射的に電話を切り、仮設にもう一度視線を戻した。


だが――


さっきまでいた作業員は、消えていた。


椅子は倒れておらず、机の上には何もない。

電気も、いつの間にか消えていた。


プレハブ全体が、闇の中に沈んでいる。


まるで、最初から誰もいなかったかのように。



翌日、A班の点呼が始まった。


交代表のチェックは、普段どおり淡々と進む。

各自が名前を呼ばれ、「はい」と返事をするだけの、機械的なやり取り。


だが俺は、昨日の“仮設詰所の件”が頭から離れず、ずっと落ち着かないままでいた。


(あれは……誰だった? 本当に、見間違いだったのか?)


工場に戻ってから、先輩に「あそこには近づくな」と釘を刺されたが、理由は教えてくれなかった。


しかも――

今日も、交代表の一番下には「藤谷 崇」の名前があった。


(また……?)


俺は違和感をごまかすように深呼吸し、点呼の輪に加わった。


班長が順に名前を読み上げていく。


「佐々木」


「はい」


「中井」


「はい」


「森川」


「はい」


「藤谷」


……そのときだった。


俺の背後から――

**「はい」**という返事が、確かに聞こえた。


ぞくりと背筋を冷たいものが走った。


その声は、低く、抑えたような小声だった。

でも、確かに聞こえた。耳のすぐ後ろ、ほとんど肩越しに。


(……誰だ?)


俺は反射的に振り返った。


だが、そこには誰もいなかった。


並んでいるはずの作業員たちは、俺より少し前に立っていた。

誰ひとり、俺の後ろにはいない。


班長は何事もなかったように次の名前を読み上げている。


(……俺以外、聞こえてない?)


俺はそのときようやく気づいた。

返事をした声――あれは、昨日の仮設詰所で俺を見たあの男の声だった。


あのときと同じ、喉の奥に引っかかるような、異常な響き。


昼の休憩時間、俺は恐る恐る、交代表のことをもう一度班長に聞いてみた。


「……あの、“藤谷 崇”って名前、また今日も載ってましたけど……誰ですか? どこの人ですか?」


班長は一瞬、目を伏せた。


「おまえ、なんでその名前知ってんだ?」


「昨日、名簿にあって……気になって」


班長は深く息を吐いてから、低い声で言った。


「――そいつは、A班だった」


「え?」


「三年前。夜勤中に死んだ。工場の裏、仮設詰所でな」


「…………」


「でもな、点呼には……毎日、返事があるんだよ」


その言葉に、頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。


(じゃあ昨日見たあの男は――)


点呼表には今日も確かに、藤谷の名前がある。

けれど、誰も記入していない。


俺たちは今も、藤谷の返事を聞いている。




それは、自分だった。


巡回中、製造棟の裏手にある仮設詰所。

ふと目を向けると、そこに“誰か”が立っていた。


作業服。

背格好。

ヘルメットの位置、ポケットの膨らみ、そして腕時計のベルトの色――


どこからどう見ても、俺自身だった。


(……何だ、あれ)


呼吸が止まりそうになる。

自分が、そこにいる。


仮設詰所の窓越しに、無言でこちらを見つめていた。

そして、ほんのわずかに口の端を持ち上げ――笑ったように見えた。


その瞬間、俺の胸の奥に、明確な拒絶感と、得体の知れない“納得”が同時に湧き上がった。


(あれは、俺じゃない。けど、俺だ)


そのとき背後から声がかかった。


「……見たな」


工場長だった。


「お前、今、誰を見た?」


「……俺、みたいなやつが、中に」


工場長はしばらく黙ってから、低い声で語り始めた。


「この工場はな……交代制が長い。二十四時間、三百六十五日、誰かが働き続けてる」


「……」


「けどな、たまに“交代できないやつ”が出るんだよ」


「交代、できない?」


「理由は色々ある。事故もあるし、意識不明になったやつもいた。

でも、そういうやつの“役割”だけが、点呼表に残るんだ」


工場長は仮設詰所の方をちらりと見やった。


「その残った“役割”はな、誰かに引き継がれる。知らないうちにな。

返事だけして、実体を持たない“何か”が、そこに居続ける」


「……それ、幽霊ってことですか?」


「いや、もっと始末が悪い。

あれは“名簿上の存在”。勤務記録とシフトの空白を埋めるために、自然と“誰か”が生まれる」


工場長はさらに続けた。


「実は、お前の名前も……最初はこの名簿に、なかったんだよ」


「……え?」


「三か月前、B班の空きを埋めるために、急に回されたろ。

藤谷の交代枠に、無理やりお前が入った。

そして、昨日――あいつは、お前に“交代”を求めに来たんだ」


工場長は、俺の目をまっすぐに見た。


「お前が、“点呼に返事した”その時点で、もう半分、渡してんだよ」


「……」


「見た目が似てたろ? そりゃそうだ。

お前の中の、“仕事だけして、人格を置いてきた部分”が、ちょうどあいつにぴったりだったんだ」


ぞっとした。


(俺の中に、“交代される余地”があった?)


(仕事に慣れて、感情を捨てて、ただの歯車になっていく自分が――)


「だから言ったろ。あそこには近づくなって。

あの詰所は、仮の居場所なんだ。

“次の誰か”が決まるまで、あいつはあそこに居る」


仮設詰所。

“仮”の“詰め所”。

人間じゃなく、“穴を埋める何か”が詰め込まれる場所――。


工場長は静かに言った。


「名前、気をつけろよ。次、書き換えられるのは――お前の本名かもしれん」



それは、何気ない朝のことだった。


夜勤明け。

点呼を終え、ロッカー室で作業服を脱ぎながら、俺はふと掲示板に貼られた当番表に目をやった。


そこには、A班夜勤の担当者名が一覧で記載されていた。

見慣れたメンバーの名前が並ぶ中――俺の名前が、なかった。


(……あれ?)


代わりにそこにあったのは、**「藤谷 崇」**という名前だった。


昨日までは、確かに“俺”がいた位置だ。


でも今は、“藤谷”がそこにいる。


俺は慌てて詰所の名簿を確認した。

点呼表の記録も、勤務時間のログも――すべて、俺の名前が消えていた。


代わりに、藤谷の名前が**“ずっとそこにあった”かのように、自然に収まっている**。


同僚に聞いても、「ああ、藤谷? いつものやつだろ」としか返ってこない。


俺のことを“◯◯”と呼んでくる者は、誰もいない。


(俺は……誰だ?)


家に帰って身分証を確認した。

免許証、保険証、社員証――どれにも、名前が書かれていない。


白紙。

削られたように、そこだけがない。


携帯の連絡帳も空白が多くなっていた。

SNSもログインできない。

写真に写っているはずの自分の顔は、何かで塗りつぶされたように曇っていた。


俺の“名前”が、この世界から、静かに剥がされている。


交代。

それは、業務の引継ぎだけじゃない。

存在そのものを引き渡すことだったのかもしれない。


もう一度、工場に戻った。

仮設詰所の前で立ち尽くすと、中からふと人影がこちらを覗いた。


青白い蛍光灯の下、作業着姿の男。

……俺だった。


けれど、あれはもう俺じゃない。


“俺の成り損ない”――それとも、“成り代わった俺”。


男が静かに口を動かした。


「交代……完了」


その瞬間、何かがふっと途切れた。


言葉が出ない。

足元の感覚も薄れていく。


手を見ると、輪郭がぼやけていた。

まるで――ここにいてはいけないもののように。


俺は静かに詰所のドアを開け、内側に入った。


そして、もう二度と、外には出なかった。









ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この作品では、「工場の交代勤務」というごく普通の労働環境に、

“役割だけが残り、人が消えていく”という不気味さを乗せてみました。


幽霊ではない。怨霊でもない。

ただひたすら、穴を埋めるように“記録の中に残り続ける”という発想が、

現代社会の無機質さと奇妙に重なる気がしています。


夜勤明けにふと、誰かの返事が一つ、多かったような気がしたら――

どうか振り返らずに、そのまま帰ってください。

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― 新着の感想 ―
 めちゃくちゃ怖かったです。それと同時に自分とは何者なのかと考えさせられる物語でした。
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