仮設詰所
夜勤って、なんだか“交代”という言葉が重く感じるときがある。
次の人に引き継ぐだけ。
自分の担当を終えて帰るだけ。
でももし、それが“存在そのものの引き渡し”だったら――?
これは、工場で夜勤をしていたある男が体験した、“引き継ぎ損ねた存在”との遭遇を描いた、静かな恐怖の物語です。
夜の工場というのは、妙に音が響く。
昼間なら機械の騒音に紛れて消えるような足音や、誰かの咳払い、微かな工具の音が、全部むき出しになる。
鉄骨の梁が冷えて鳴る音。油の焼けたにおい。蛍光灯の微かなブーンという音。
今夜も、いつものように交代勤務が始まる。
俺はA班。夜勤側。
相手はB班。昼勤。
「お疲れっしたー」
詰所の中で、B班の連中が交代の記録表に名前を記入していく。
点呼のための名簿には、名前がずらりと並んでいて、誰が来て、誰が帰ったかがわかるようになっている。
――ん?
その表を見て、俺は首を傾げた。
(……一人、多いな)
今日のB班、いつもは8人のはずが、名前は9つ。
見慣れない名前が、欄の一番下に小さく書かれている。
「藤谷 崇」
誰だっけ?
新人か? でも聞いてないな――
「おーい、藤谷って誰?」
俺が口に出すと、班長が軽く手を振った。
「あー、それ多分ミス。古いやつが残ってんだよ、たまにあるんだ」
「ふーん……」
何気ないやり取りだった。
でも、その瞬間だけ、なぜか詰所の空気が、ほんの少しだけ“重く”なった気がした。
たまたまだろう、と思いたかった。
だがその後、俺の背中を、B班の誰かがちらりと見ていたのを、俺は見逃さなかった。
それも、ちょうど“その名前”を指さした直後だった。
午前2時を回った頃、巡回当番が俺に回ってきた。
製造棟のラインを一通り見て回るだけの簡単な仕事だ。
夜中の巡回は、正直なところ気が滅入る。
無人のライン、停止中の機械、誰もいない更衣室――
物音ひとつないはずの場所で、ふと“何かの気配”を感じることがある。
工場というのは、稼働していないときほど、生きているように感じる。
そんな中――
ふと、製造棟の裏手を通ったときだった。
視界の端に、小さな灯りが入った。
(……あれ?)
それは、古い仮設の詰所だった。
以前、工事や増設対応で使われていたプレハブの簡易施設で、今は倉庫としても使われていない。
昼間でも誰も近づかない場所だ。
鍵はかかっているはずだし、電源も落としてあると聞いていた。
だが、確かに明かりが点いている。
蛍光灯特有の青白い光が、すりガラス越しに滲んでいる。
(誰か、いるのか……?)
だが、それはおかしい。
この時間、B班はすでに全員退勤しているし、夜勤のA班で仮設詰所を使う者はいない。
俺は慎重に近づき、そっとガラス越しに中を覗いた。
中には――
誰かがいた。
作業服を着た男が、ひとり、机に向かって座っていた。
背を向けているので顔は見えない。
ただ、右肩のあたりに、油汚れの染みがあるのがわかった。
(……知らない作業員だ)
俺は息をひそめた。
ガラスに触れそうな距離で、じっと様子を伺っていると、
男が、ゆっくりと首だけをこちらに向けてきた。
だがその動きは、途中で止まった。
顔の半分が、こちらを向いたまま――動かない。
表情は見えない。
ただ、まるでこちらに“気づいたのに、何も言わない”ような不自然さがあった。
そのとき、ポケットの中でPHSが震えた。
A班の先輩からの内線だった。
「おう、巡回終わったか? 遅いぞ」
「……あ、いや、今……仮設の前に……人が……」
「は? 仮設? 誰もいないだろ、あそこ」
「いや……明かりが点いてて、作業着の男が……」
「やめとけ、戻ってこい。すぐに。いいな?」
その声は、いつになく真剣だった。
俺は反射的に電話を切り、仮設にもう一度視線を戻した。
だが――
さっきまでいた作業員は、消えていた。
椅子は倒れておらず、机の上には何もない。
電気も、いつの間にか消えていた。
プレハブ全体が、闇の中に沈んでいる。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
翌日、A班の点呼が始まった。
交代表のチェックは、普段どおり淡々と進む。
各自が名前を呼ばれ、「はい」と返事をするだけの、機械的なやり取り。
だが俺は、昨日の“仮設詰所の件”が頭から離れず、ずっと落ち着かないままでいた。
(あれは……誰だった? 本当に、見間違いだったのか?)
工場に戻ってから、先輩に「あそこには近づくな」と釘を刺されたが、理由は教えてくれなかった。
しかも――
今日も、交代表の一番下には「藤谷 崇」の名前があった。
(また……?)
俺は違和感をごまかすように深呼吸し、点呼の輪に加わった。
班長が順に名前を読み上げていく。
「佐々木」
「はい」
「中井」
「はい」
「森川」
「はい」
「藤谷」
……そのときだった。
俺の背後から――
**「はい」**という返事が、確かに聞こえた。
ぞくりと背筋を冷たいものが走った。
その声は、低く、抑えたような小声だった。
でも、確かに聞こえた。耳のすぐ後ろ、ほとんど肩越しに。
(……誰だ?)
俺は反射的に振り返った。
だが、そこには誰もいなかった。
並んでいるはずの作業員たちは、俺より少し前に立っていた。
誰ひとり、俺の後ろにはいない。
班長は何事もなかったように次の名前を読み上げている。
(……俺以外、聞こえてない?)
俺はそのときようやく気づいた。
返事をした声――あれは、昨日の仮設詰所で俺を見たあの男の声だった。
あのときと同じ、喉の奥に引っかかるような、異常な響き。
昼の休憩時間、俺は恐る恐る、交代表のことをもう一度班長に聞いてみた。
「……あの、“藤谷 崇”って名前、また今日も載ってましたけど……誰ですか? どこの人ですか?」
班長は一瞬、目を伏せた。
「おまえ、なんでその名前知ってんだ?」
「昨日、名簿にあって……気になって」
班長は深く息を吐いてから、低い声で言った。
「――そいつは、A班だった」
「え?」
「三年前。夜勤中に死んだ。工場の裏、仮設詰所でな」
「…………」
「でもな、点呼には……毎日、返事があるんだよ」
その言葉に、頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
(じゃあ昨日見たあの男は――)
点呼表には今日も確かに、藤谷の名前がある。
けれど、誰も記入していない。
俺たちは今も、藤谷の返事を聞いている。
それは、自分だった。
巡回中、製造棟の裏手にある仮設詰所。
ふと目を向けると、そこに“誰か”が立っていた。
作業服。
背格好。
ヘルメットの位置、ポケットの膨らみ、そして腕時計のベルトの色――
どこからどう見ても、俺自身だった。
(……何だ、あれ)
呼吸が止まりそうになる。
自分が、そこにいる。
仮設詰所の窓越しに、無言でこちらを見つめていた。
そして、ほんのわずかに口の端を持ち上げ――笑ったように見えた。
その瞬間、俺の胸の奥に、明確な拒絶感と、得体の知れない“納得”が同時に湧き上がった。
(あれは、俺じゃない。けど、俺だ)
そのとき背後から声がかかった。
「……見たな」
工場長だった。
「お前、今、誰を見た?」
「……俺、みたいなやつが、中に」
工場長はしばらく黙ってから、低い声で語り始めた。
「この工場はな……交代制が長い。二十四時間、三百六十五日、誰かが働き続けてる」
「……」
「けどな、たまに“交代できないやつ”が出るんだよ」
「交代、できない?」
「理由は色々ある。事故もあるし、意識不明になったやつもいた。
でも、そういうやつの“役割”だけが、点呼表に残るんだ」
工場長は仮設詰所の方をちらりと見やった。
「その残った“役割”はな、誰かに引き継がれる。知らないうちにな。
返事だけして、実体を持たない“何か”が、そこに居続ける」
「……それ、幽霊ってことですか?」
「いや、もっと始末が悪い。
あれは“名簿上の存在”。勤務記録とシフトの空白を埋めるために、自然と“誰か”が生まれる」
工場長はさらに続けた。
「実は、お前の名前も……最初はこの名簿に、なかったんだよ」
「……え?」
「三か月前、B班の空きを埋めるために、急に回されたろ。
藤谷の交代枠に、無理やりお前が入った。
そして、昨日――あいつは、お前に“交代”を求めに来たんだ」
工場長は、俺の目をまっすぐに見た。
「お前が、“点呼に返事した”その時点で、もう半分、渡してんだよ」
「……」
「見た目が似てたろ? そりゃそうだ。
お前の中の、“仕事だけして、人格を置いてきた部分”が、ちょうどあいつにぴったりだったんだ」
ぞっとした。
(俺の中に、“交代される余地”があった?)
(仕事に慣れて、感情を捨てて、ただの歯車になっていく自分が――)
「だから言ったろ。あそこには近づくなって。
あの詰所は、仮の居場所なんだ。
“次の誰か”が決まるまで、あいつはあそこに居る」
仮設詰所。
“仮”の“詰め所”。
人間じゃなく、“穴を埋める何か”が詰め込まれる場所――。
工場長は静かに言った。
「名前、気をつけろよ。次、書き換えられるのは――お前の本名かもしれん」
それは、何気ない朝のことだった。
夜勤明け。
点呼を終え、ロッカー室で作業服を脱ぎながら、俺はふと掲示板に貼られた当番表に目をやった。
そこには、A班夜勤の担当者名が一覧で記載されていた。
見慣れたメンバーの名前が並ぶ中――俺の名前が、なかった。
(……あれ?)
代わりにそこにあったのは、**「藤谷 崇」**という名前だった。
昨日までは、確かに“俺”がいた位置だ。
でも今は、“藤谷”がそこにいる。
俺は慌てて詰所の名簿を確認した。
点呼表の記録も、勤務時間のログも――すべて、俺の名前が消えていた。
代わりに、藤谷の名前が**“ずっとそこにあった”かのように、自然に収まっている**。
同僚に聞いても、「ああ、藤谷? いつものやつだろ」としか返ってこない。
俺のことを“◯◯”と呼んでくる者は、誰もいない。
(俺は……誰だ?)
家に帰って身分証を確認した。
免許証、保険証、社員証――どれにも、名前が書かれていない。
白紙。
削られたように、そこだけがない。
携帯の連絡帳も空白が多くなっていた。
SNSもログインできない。
写真に写っているはずの自分の顔は、何かで塗りつぶされたように曇っていた。
俺の“名前”が、この世界から、静かに剥がされている。
交代。
それは、業務の引継ぎだけじゃない。
存在そのものを引き渡すことだったのかもしれない。
もう一度、工場に戻った。
仮設詰所の前で立ち尽くすと、中からふと人影がこちらを覗いた。
青白い蛍光灯の下、作業着姿の男。
……俺だった。
けれど、あれはもう俺じゃない。
“俺の成り損ない”――それとも、“成り代わった俺”。
男が静かに口を動かした。
「交代……完了」
その瞬間、何かがふっと途切れた。
言葉が出ない。
足元の感覚も薄れていく。
手を見ると、輪郭がぼやけていた。
まるで――ここにいてはいけないもののように。
俺は静かに詰所のドアを開け、内側に入った。
そして、もう二度と、外には出なかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この作品では、「工場の交代勤務」というごく普通の労働環境に、
“役割だけが残り、人が消えていく”という不気味さを乗せてみました。
幽霊ではない。怨霊でもない。
ただひたすら、穴を埋めるように“記録の中に残り続ける”という発想が、
現代社会の無機質さと奇妙に重なる気がしています。
夜勤明けにふと、誰かの返事が一つ、多かったような気がしたら――
どうか振り返らずに、そのまま帰ってください。