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母親が老人ホームへ入居する

従姉の父親が死んだらしい。最初LINEで連絡が来ていたらしいが、俺はそれを見過ごしていた。昼過ぎに電話で連絡があった。「父親が死んだ」という内容ではあったが、いやに他人行儀な口調だった。

「香典とかはいいから」

と何回も繰り返し繰り返し強調される。言外に『いいから葬式には来ないで』という意図を強く感じた。そういえば、従姉の家族とはこの10年ろくろくお付き合いもしていなかったことを思い出す。下手に香典とか渡されて、そこを糸口にして何かしらを要求されても面倒だし、といった思いが透けて見えた。

そういえば彼女が大家をやっているビルを買わせてくれ、といったのは、つい先月の話だ。従姉が「ビルを売ろうと思っているの・・」と今年の1月に言っていたので、その話の続きというか、まぁこちらに売ってくれませんか、という話をしに行ったのだった。だがもう他の業者との話が着いていて、遅すぎた。

またその話を蒸し返されたくはなかったろう。実際従姉の家族にとっては、俺なんて厄介な親戚そのものだから、葬式には来ないでほしいというのが本音だと思う。そういえば、

「来年からは年賀状のやり取りを辞めさせて頂きます」

という文言が年賀状にあった。まぁもう年賀状なんてやり取りするのも馬鹿らしいご時世だとはいうものの、やはり俺とはあまり関わりを持ちたくないということなのかなぁと。

俺と関わっていると、自分達の日常が壊されてしまいかねない、という事実の方が重要であり、だからこそ俺は親戚の葬式にも呼ばれないような存在になってしまった、という訳。冠婚葬祭でも会いたくないような人間。恋人も友達もおらず、仕事となるような技能も身に着けておらず、ただ父親から引き継いだ会社だけにしがみつく人生。ビルの管理だけが仕事の会社を継いだ当時は

「ビルにしがみつくだけの人生なんて嫌だ!俺は絶対に小説家になってやるんだ」

と思いながら生きていた。今の俺の姿をあの頃の自分に見せたら、発狂してしまうだろう。最悪な中年のおっさんになっておりました、と。


この先どうやって生きていけばいいのか、とか。母親が死んだ後の葬式には誰を呼ぼうか、とか。どうやればもっといい人生が選べたのか、とか。そんな事ばかり考えている。そういう具合だからいい小説が書けないのだ、という事は承知している。もっと明るくポジティブに振舞って、無理やりにでも小説を捻りだせばいいだけの話だと頭では理解している。現状は、小説を書くという上ではこの上なく最適な環境だ。家の近くには図書館があり、母親は老人ホームに入居してしまい、自分は普段なんの仕事もありはしない。

だがそうやって小説家きどりで文章を書いても、直木賞を受賞した連中のレベルには達していないことが自分でも解るのだった。無理やり1万字くらいのSF小説もどきを書いてみる。筋書きも一本調子だし、古代中国にテレパシーを使える人間たちを放り込んだだけで、あまり躍動感みたいなものがない。俺自身が社会人経験が殆どないせいなのか知らないけれど、出てくる登場人物同士の会話がロボット同士で交わされているような平べったい、書き割りじみたものに感じられてくる。小説の世界の大御所たちの頭の中ってのは一体全体どんな具合なのかね、と驚いてしまい、それは単純に自分に文章を書く才能がないだけの話なのではないかという結論に達する。

最近「三体」という中国の小説に成程と思わせるようなセリフが書いてあった。

「作者はキャラクターを動かす神ではない。本当の意味でキャラクターを作り込んでいければ、もう作者の意図を離れて勝手に動き出していくんだ。作者なんてものは、その勝手に動き出したキャラクターをじっと間近に覗き見するだけの存在」

なのだとか。俺はそんな境地に達したことはない。けれども尊敬する漫画家や小説家は、そういったことを書かれていた。だからやはり俺のキャラクターに対する作り込みが足りないだけなんだろう。


考えてみれば、俺はこの12年間、小説を書こうと思えば書くことも出来たのに書かずにフラフラと色々な事ばかりやっていた。

プログラムや電子工作に手を出して、「ビルの水道メータを遠隔検針してやるんだ!」などと息まいていた事もある。だがある時フト、『あぁ今俺がやっていることは所詮趣味の延長だな』という事に気が付いてしまい、それっきりとなった。

或いは新しくサバイバルゲームフィールドを開設してやるんだ!などと息まいていた時期もある。荒地を開拓するために、3t未満のトラックを運転するための免許を取ったこともあった。新型コロナウィルスで自粛云々といった日々だったと思う。

だがサバイバルゲームフィールドの方は、無理やり開設した所で到底採算が合わない、という事実によってとうとう開設せずじまいとなった。

あれだけ苦労して免許をとったにも関わらず、その後一度もトラックを運転することはなかった。ヤクザみたいな地主から『俺のことを騙してたら、お前はここから生きて出れないよ』と恐喝されたりしながら土地の契約書を交わしたことも無駄となった。その土地を取得するために、様々な役所だの先生と折衝していた日々は一体なんだったのか?俺が費やした努力や年月といったものはなんだったのか、と呆然としてしまう。

結局、サバイバルゲームフィールドにする予定だった土地は、太陽光発電パネルを敷設する会社に売却する運びとなった。今はその準備段階らしい。上手くいけばいいが。


一時期、ボードゲームに嵌まっていたこともある。2017年の正月から2024年の年末までだった。大してボードゲームの才能がないにも関わらず、何故嵌まっていたのかというと、友達が欲しかったからだと思う。あとは恋人、あわよくば結婚相手が欲しかった。結論から言うと、友達も作れず、恋人も作れなかった。自分の精神年齢が12歳ほどでしかなく、その為に皆から気味悪がられてマトモに相手にされない、という事の連続だった。大学の頃に所属していたサイクリング部での人間関係と同じだ。それに気が付いてからというもの、少し気が楽になった。誰のことも恨む必要はない。要するに自分自身が欠陥商品だと解っただけだ。

俺に色目仕掛けで近づいてくる女も居るには居た。それも飛び切り上玉の女。俺には不釣り合いなほどの。で、周りにいる連中、母親とか、親父の代から付き合っている業者とか、そういう連中に相談してみたが、

『どう考えてもおかしい、辞めておけ。』

というのが皆の意見が一致する所だった。それから当時入り浸っていたボードゲーム屋の女主人からはこう言われた。その上玉の女は、カタンという風変りなボードゲームが大得意であり、そのボードゲーム屋の女主人もかつてはカタンの大会で優勝した経歴の持ち主だ。彼女たちは個人的に友達同士でもあった。その女主人曰く

「彼女は難しいカタンのプレイの仕方をする。Aさんからはある資源を貰う。Bさんからはまた別の資源を貰う。私にはそんなプレイの仕方は真似できない」

と。

要するにその上玉の女は、色々な男に貢がせるのが得意だった、そしてこの俺自身もその中の一人に過ぎないのだ、という事を教えてくれた。お陰でその女とそれ以上関わりを持つこともなく、今日にいたっている。もしも関わりを持っていたら、財産を巻き上げられていたことだろう。だがこの女主人というのが曲者だったのだ。

彼女は裸一貫で近畿地方から上京してきた女性であった。なんでも、25歳でアイドルになるべく、芸能事務所へ書類を提出したらしい。25歳というのはアイドルへ志願できる年齢の上限を既に超えていた。本人がいうところでは

「私の書いた文章がしっかりとしていたので、25歳という年齢も多めに見てもらえた」

とのことだ。実際のところ、真偽のほどは解らない。俺は芸能界の内情には全く疎いので、実際にはまたべつの力が働いたのかも知れない。

ともかくその女主人はアイドルを何年か続けたがあまり売れなかった。引退してからは、ボードゲーム屋を開いて今に至るという訳だ。

当時の俺は、今と同じく友達もおらず、そして恋人もおらず、孤独だった。であれば小説を書くにはうってつけの状況だったと思うが、小説を書くこともなかった。自分の書くものが下手糞でつまらない、という事を認める勇気がなかったのだ。そしてカタンというボードゲームにのめり込みながら、「これこそ、俺の生きる道だ!」などと勘違いしていたという次第。

もっと正直にいうと、

『カタンの競技人口を10倍から50倍にしてやるぞ!そして俺こそが影の支配者となるのだ!』

とかふざけたことを妄想していたのではないかと思う。当時30代半ばだというのに、まるで考えていることは10代の少年じみている。幼稚なことだ・・・。

そして俺は密かに、ボードゲーム屋の女主人と結婚したいなあなどと思っていたのだった。勿論、そのボードゲーム屋の女主人は既に結婚している。しかし今の旦那と別れて、俺と再婚してくれんじゃねえか、とかなんとか、自分勝手に都合の良い妄想を頭の中に膨らませていた。我ながら気持ち悪い。人間孤独になって周りに相談相手がいなくなると、自分にとって都合の悪いことは綺麗さっぱりと見えなくなるものらしい。

ーカタンをやっているとその人の人生がにじみ出る。

ボードゲーム屋の女主人の口癖であり、確かに俺のカタンは素直過ぎた。ではその女主人のカタンはというと、自分だけに得になることをあたかもプレイヤー全員の利益であるかのように装う。更に自分の意見が通らないとやたらと不機嫌になる。ともかくゲーム全体をコントロールしようとする。まぁこんな人間と近づいたら不幸になりますね、という見本のような人間であった。様々な事情があって、今では俺はカタンをしていない。本当にこのゲームにのめり込み過ぎたと反省している。今ではその店にも行くこともなくなった。


最近大学の研究室で世話になった指導教官が定年退職なされた。その指導教官の最終講義に呼ばれる。普段人と関わる機会がないので、ここは一つお邪魔しておこうと思って出席することにした。学生時代には死ぬほど憎んだ教官である。今でいうアカデミック=ハラスメントそのものであり、指導するというよりも精神的に叩きのめすような物言いで生徒に接していた。流石に体罰はなかったが。我々生徒としては、ゼミを迎える度に恐れ戦いていたものだった。

最終講義は、意外に聞き入ってしまう内容だった。

その指導教官も家庭にそれなりの事情を抱えながら血反吐を吐く思いで研究者の道を志していたこと。懸命な努力の甲斐あって、学者としてのポストを見事に獲得したこと。その後順調に学者としてのキャリアを重ね、あと一歩で世界の背中が見えるかな、という地点で大病を患ってしまったこと・・・。

あぁ、あの異常なまでの攻撃性というか、アカデミック=ハラスメントは、自分自身の不甲斐なさに向けられたものでもあったのだ。勿論、もう一度経験しろと言われても御免被る。だが色々と彼にも事情はあったという事が理解できた。

その指導教官から

「自分の研究者としてゾーンに入っていたのは、35から45歳の間だったように思われる」

という言葉を聞いて、現在40歳の自分は愕然としてしまう。何も為しえぬままに時間ばっかり過ぎ去ってしまった・・・。研究者にもなりきれず、かといって一般企業にも就職できず、それでいて今更他に何かやれることがあるとも思えず・・。

といって諦める訳にもいかない。だとすればやはり、小説を書ききる他はないのだ、と思い直してパソコンの前にこうして向き合い、下手糞な小説まがいを書き連ねる。面白くない。やはり俺には何の才能もないのだ、と諦めるが、ではこのまま寿命で死ぬまでぼやぼやと時間を過ごしていくのか、と問われるとそれはそれで恐ろしいと思い直す。

解ってはいる。

”下手糞でもいいから、キチンと最後まで小説を書き上げる。下手糞でもいいから、限りなく沢山の量をこなす。量をこなすうちに質も上がってくる。ともかく10000時間はやれ。毎日5時間以上は小説を書くのに費やせ。”

こういった正論に正面から立ち向かい、黙々とこなせる人間は少数派だ。そして俺は多数派だった。目の前にある課題に掛かり切りとなって対処しているうちに、いつの間にかとんでもない時間が流れていた。

大学のサイクリング部での同期の男は

「いいから書けよ!!」

と言ってくれた事があった。最初は下手糞でも、書いているうちに上手くなるということもある。四の五の言わずに書けと。確かそれを言われたのは、7,8年前だった気がする。自分に有難い言葉ってのは、後になってから解るものだ。

「無駄な努力なんてない。努力したことは、皆、いつかは役に立つものだ」

嘗ての指導教官が最終講義で言っていた言葉だ。この言葉通り、俺のこれまでやってきた努力というのが無駄にならずに実を結ぶ日がいつか来れば良いと思っている。だがそういう日を手繰り寄せるためには、毎日毎日必死で文章を書くしかないのだ。

文章を書く気力がないときには、名作を読む。これまで何故か名作とされるSF小説や直木賞受賞作品を避けてきた。名作を読んで、自分が圧し潰されるのが怖かったからだと思う。こういった所は親父譲りだと思う。親父は写真家であり、現代美術の世界で一時名が売れたことがある。あるとき現代美術の聖地であるN.Yはソーホー地区へ引っ越そうとしたが、結局日本に住み続けることにした。理由は『N.Yになんか行ったら、圧し潰されちゃうよう』だった。名作を読んでいると、何気ない一文を書き連ねるためにどれだけ資料を集めて調べ上げているのかがよく解る。あるいはキャラクター同士の極々自然なやり取りを築き上げるために、そのキャラクターを幼少期に遡って築き上げているということも解る。いずれも俺がこれまでやってこなかった事だ。


2023年に入ってから、母親は寝込みがちになった。元々そこまで活動的な人間ではなかったが、それでも皇居の桜を一般公開するイベントには参加出来た。毎年3月下旬に開催されるイベントであり、俺たち親子(というか俺が無理やり母親を連れ出しているだけなのだが)は毎年参加していた。ただそのときですら、「脚が痛い、脚がむくれて大変。膨らんでいる」と言っていた。ただでさえ文句の多い人間だから、そのときには取り合わなかった。だが月日が経過するにつれ、徐々に事態は悪化していく。

以前は一日一回の散歩くらいは出来ていた。

俺は老いた母親の面倒を見ているんだ、これは息子の義務なんだ、とか思いながら、母親を色々な所へ連れ出し、毎日母親を散歩させていた。ただこれも今にして思えば、小説を書くことから逃げるための口実にしていた様に思える。

だが4月になると、母の脚は信じられないほどに膨らんでいた。これまで履けていた靴に脚が入らない。全般的に浮腫んでいる。病院に行かないとまずいことは一目瞭然だった。最早散歩がどうたらこうたらと言えなくなってくる。しかし本人は死んでも病院には行かないつもりだったらしい。

「お医者さんなんて皆同じ!患者を薬漬けにして儲けようとしているのよ!!」

母親は昔から友達がいないので、暇な時間はテレビを見るか週刊誌を読むかして過ごしていた。(俺も似たようなもんだ。スマホのYoutubeアプリとkindleアプリが友達の代わりだ)周りに相談相手がいないと、自分が普段から接するメディアに書いてあることが真実だと錯覚するようになる。

病院にいけ、いや行かないという押し問答の末にまたも歳月だけが過ぎていく。そしてとうとうどうにもならない所まで容体は悪化した。母親は家の中にあるソファへ一日中寝込んでしまい動くこともなくなったのだ。偶に動くとすればトイレに立つときだけだ。何かしなくてはならないと思ったので、強引に母親を手当たり次第、外科だの耳鼻科だのに見せていく。すると、掛かりつけの医者となっていた自宅近くの町医者さんの所で、漸く原因が判明した。


「どうやら脚に血栓が出来ている。肺にも水が溜まっている。こりゃあ、もう、こんな町医者では面倒見切れないよ!」

「ただちに入院しねえと。大体、息子さん、アンタ、ひとつ屋根の下で同居しといてさ。こんなになるまでなんで放っておいたんだ!」

「そもそもオタクの母親は、俺の処方する薬飲んでくれないんだもの。打つ手がないよ!薬飲んでくれないと・・・」

医者から処方される薬を母親が飲まないのはいつものことだ。週刊誌に『医者が処方する薬は飲むな』とかなんとか書いてあったのだろう。だからといって俺にどんな手が打てる?

医者にはこう言った。

「医者から処方された薬も飲みやしない。だからって無理やり母親の口をこじ開けて飲ませたら、虐待じゃないか。僕は一体どうすれば良かったというんだ。。。」

少し幼い意見だったろう。母親を説得すれば良いという意見だってあったろう。だが、ウチの母親は妄想に取りつかれたが最後、近所中に聞える声でギャアギャアと喚き散らす人間だった。よく父親も殺さなかったと思う。その代わりに、父親はしょっちゅう母の首を絞めたり、殴ったりしていた。そうなる前に離婚すれば良かったのに。結局俺は母親を説得するのは諦めていた。家の中で薬が処方されたまんまの状態で見つかっても、「母ちゃん、薬飲めよ」というだけで何もしなかった。

もう一つ嫌な現実が判明する。

母親はとっくの昔に痴呆症を患っていたらしい。2020年から新型コロナウィルス蔓延に伴う自粛生活のせいで、家の中に籠っていたために気がつかなかった。気づこうとしなかっただけかも知れない。だがそのかかりつけ医からすれば

「もうとっくにこの患者は痴呆症だよ!だから私の処方する薬ものんじゃくれないんだ!」

と言って母親の頭を軽く叩いた。人の母親の頭を叩かないで欲しい所だ。


まぁそういう訳で、2023年5月に母は家の近くの一次救急病院へ緊急搬送された。それくらい事態は急を要したということだ。更にその一か月後には、母親は二次救急病院へと転院することになった。どうやら家の近くにある一次救急病院では見切れないほどの症状らしい。またしても救急車で移送されたとのことだ。「循環器系の診療科がないもので・・」と言われて当初なんのことか解らなかったが、搬送先の二次救急病院にいったら合点がいった。心臓の血管がらみで大変なことになっている、という事らしい。運び込まれたのは集中治療棟の一角だった。嫌な予感がした。本当に、以前母親が言っていた通り、入ったが最後、出てこられないのではないかと。

集中治療棟は部屋が通常の区画から分かれている。集中治療棟へ入るドアの手前に、家族へ病状を説明する小さな部屋がある。そこへ呼びこまれた。担当医師らしい男から説明を受ける。


静脈からの使用済み血液が逆流してくるのを防ぐ心臓の弁が機能しなくなっているらしい。その逆流防止弁は、僧帽弁というのだと説明された。僧帽弁がカチコチに硬化して閉まらなくなったせいで、使用済みの血液が心臓内部に溜まっていく。すると血栓がそのうち出来上がる。今回のケースでは、脚に血栓が飛んだみたいだ。

「今は脚だからまだいいものの。。。これが脳にでも飛んだら脳梗塞だし。。。」

「ただ最悪脚を切らないといけないってこともあり得ます」

「ともかく今は血栓を溶かす薬を処方しています」

そういう風に説明を受けた。頭の中にデータが収まりきらない。


「一度会われますか?」

集中治療棟に一般人は基本立ち入ることが許されない。それなのに許可されるというのは、相当に悪い状況なのだろう。下手すると死んでもおかしくない位。

母の姿を見てみる。怖かったが見るべきだと思った。下手をすると今生の別れとなりかねなかったので、スマホで撮影しておいた。(スマホの静止画データを見返すと、2023年6月17日午後4時のことだった。)母親はだいぶ前から頭が白髪ばかりとなっていたので、毛染めをしていた。だから少し茶色がかった髪の毛と、鼻から伸びたチューブがアンバランスで、意識さえハッキリしていれば笑っていたかもしれない。だが眠っている。だから声の掛けようもない。

本来であれば、その時から狂ったように小説を書いていれば良かったのだと思う。だがスマホの静止画データを見返す限り、母がそんな容体のときですら、俺はカタンというゲームにのめり込んでいた。どうしようもない大馬鹿野郎だと思う。現実逃避したかったんだろうけど。顔見知りが沢山いる空間で、慣れ親しんだゲームを楽しんでいれば嫌な事を一瞬忘れ去ることが出来る。


だが現代医療の力というヤツは凄かった。母親はこの状態から生きて帰還したのだった。7月に入る。二次救急病院から電話が掛かってきた。

母親の脚にあった血栓も溶け切り、後は一次救急病院で面倒を見れば良い段階になったらしい。一安心だ。そこで息子の俺の出番という訳。まさか病院着のまま、一次救急病院まで移動するって訳にもいかない。着替えと、移動手段としてのクルマ・・・。まさか又救急車って訳にもいかないし。

もう真夏の手前の時期だ。半袖で過ごしたほうがいい頃合いだった。二次救急病院から一次救急病院まではクルマで40~50分ほど掛かる。だが以前よりも気がラクだった。何よりもう母親の容体は峠を越したのだから!クルマの中に飼い犬を連れて母親を迎えにいく。勿論、着替えを詰め込んだ袋と一緒に。車椅子に乗っかった母はだいぶやつれた様に見えたが、それでもクルマの中にいる飼い犬を見て「あらケラちゃん。。」と嬉しがるくらいの元気さはあった。

ー良かった、これで又二人と一匹の暮らしに戻れる。。。

恐らく俺にとって、母親が奥さん代わりだったのではないか。そんでもって、メスの飼い犬が娘の代わり。いい年して結婚も出来ない中年男が、そうやって結婚生活もどきを味わっていたのではないか。だとしたら、滑稽を通り越して哀れという他ないけれども。


一次救急病院には7月下旬から入院することになった。仕事といっても普段は暇だから、ほぼ毎日母親の見舞いに通い続けた。どうやら母親へ薬を投与した医者は凄腕だったらしい。病院の中でも結構なお立場にある先生から

「よくあそこから生きて戻れましたね・・・」

と驚かれてしまった。うちの母は悪運にだけは恵まれている模様だ。だがそこからがいけなかった。

何度も書くようだが、救急病院というのは、救急車で搬送されてくるような患者をまず受け止める病院だ。患者が後から後から押し寄せてくる。つまり少しでも体調が良くなった患者から、病院を追い出される。患者の数は多く、俺の母親が入院している階層など、ナースステーションの中にまで患者のベッドがあるくらいだった。

「齋藤さん、ちょっといいですか?」

と年配の女性看護師に問われる。退院はいつ頃と考えているのか、と問われる。逆にそちらとしては、いつがいいんですか、と問い返すと、明後日とかどうですか、と。何とも急な話だった。

その当時の我が家は、雑然と散らかっており、文字通り足の踏み場もない有様。今更母親が戻ってきたとて、一体何処で面倒を見ればいいのか解らない。当時の母親は車椅子に乗ったきりであり、階段の上り下りなんて到底不可能に思えた。であれば一階にベッドなりなんなりを設置しないといけない。だがそもそも何を何処でどうやって購入すれば良いのかも解らない・・。けれども退院を先延ばしにする訳にもいかない。

「解りました」

と了承する。退院できるのに病院の中にダラダラといても良いことなんて一つもありゃあしない。


とうとう母が退院する日がやってきた。やってきてしまった。

もう不安しかない。第一、今の自分たちには車椅子すらないのだ。今後部座席に座っている母親を、これからどうやって家の中に帰そう。。。。

そこで頼りの綱としたのは、「高齢者何でも相談室」である。自治体で運営されている相談室であり、文字通りなんでも相談できる。だから退院したその足で駆けこんだ。

「すいません!ともかくこれから車椅子を買いたいんですけど!それから何をどうすりゃあいいのか解らないから、そういうのを相談できる窓口みたいなのを・・」

我ながら酷い相談の仕方だとは思うが、笑わないでほしい。本当に何の知識もない状態だと、何をどうすればよいのかすら解らないものなのだ。だからこそ、ここに来ている。

高齢者何でも相談室の係員は、こう応えた。

「まずこういった介護の世界では、家族と共にケアプランを考えていくケアマネジャーというのがいる。そのケアマネジャーとまずは契約する必要があります」

「また車椅子であれば、まずはレンタルという形でそちらへお渡しすることが出来ます。ともかく、まずは今連絡取れそうなケアマネさんと契約しましょう。それから機材を取り揃えていく感じで・・」

といっても少子高齢化のこのご時世、何処のケアマネジャーも世話しなきゃいけない老人を抱え込んで手一杯だった。唯一手が空いていたのが、俺の自宅の近くを活動区域としているケアマネジャーさんであった。


まず紹介されたケアマネジャーのお方と電話し、急遽その電話でもって車椅子とかそれ以外の歩行の補助器具とか、そういったものをレンタルしていく話を取り纏める。これから我が家に来てくださるとの事。本当なのかどうなのか解らない。不安一杯だ。なにしろ、今の俺は車椅子でないと移動できない母親を抱えて身動きできない状態。こんな具合で何をどうすればいいのか解らない。親戚といったって、普段はろくにお付き合いもしている訳じゃない。ご近所とも同様である。

高齢者何でも相談室で急遽借りることが決まった車椅子でもって、自家用車で自宅まで移動する。

自宅に着いたら着いたで、今度は玄関口という関門がある。玄関口には階段が3段ほどあり、車椅子のまま出入りするのは不可能だ。かといって退院したての母親を一旦車椅子から降ろすという訳にもいくまい・・。

仕方ないので、車椅子ごと無理やり持ち上げた。これも3段くらいしかないからこそ出来る芸当だった。けれどもこれから先、毎回こんな事を続ける訳にもいかない。玄関の工事どうしよう、という思いが心の隅に澱のように広がるのを堪えながら、母親を一先ず1階のお茶室へ連れていく。そこくらいしか今のところ母を置いておける空間がない。

「これからどうすればいいのぉ・・」

と母親は尋ねてくる。母親は車椅子に乗った切り、身動きも取れない。だが家の中に閉じ込めておく訳にもいかず、さりとて・・・。

「ともかく、ここで俺たち二人であぁだこうだと言っていても始まらない。だからケアマネジャーさんだっけ、その人が着てから色々と話を詰めていこう」

途方に暮れている所にケアマネジャーさん達が到着する。


ケアマネジャーは女性であった。彼女の他にも数人、介護器具販売店の方々を数人ほど引き連れていた。現状を説明すると、テキパキと対応策を示してくれる。頼もしい限りだ。

まずは玄関口の問題。

以前試しに近所の工務店の人間を呼んでみたら、三桁万円という数字を挙げられてしまった。これは玄関口の階段を無理やりスロープにしてしまうという見積だ。だがそんな大金を用意できる訳もない。

玄関口で車椅子を一旦降りてから、本人には手すりで上り下りして貰えば良い、というコロンブスの卵みたいなやり方をケアマネジャーは提案されてくれた。たしかに母親は車椅子に乗っているとはいえ、階段を3段くらいであれば何とか上り下りできないこともない。気が付いてみれば簡単な話だ。それに後付け式の手摺りであれば、そこまで大仕掛けなおカネは掛からない。

玄関の三和土にも、母が掴まるための手すり房を設置する。床からの柱をもう一本増やすイメージだ。手摺り棒には横から掴む取ってが付いており、その取っての取り付け位置自体も上下に調整することが出来る。同様の手摺り棒をお風呂場の入口にももう一本。

1階の茶室(長い間俺が勉強部屋として使ってきた部屋)にはパラマウントベッドを急遽搬入。テレビのCMとかで流れている介護用のベッドだ。ボタンを押すだけで背中が持ち上がったりする優れモノ。

暫く母親とは1階の茶室で共同生活することになる。これまで母は2階のリビングルームで寝起きしていた。

最後にシャワー椅子とゴムマット。

当面母がお風呂に一人で入るのは不可能だとしても、身体を洗わないと臭くなって仕方ない。そこで当面はシャワー椅子に座ったまま髪と身体を洗ってしのぐこととする。

これら一式を購入すると、本来ならば20~30万ほどのおカネが掛かるところではあった。だが介護保険が効くので一か月あたりのレンタル代金はそんなに掛からないらしい。掛かって月額4,000~5,000円ほど。素晴らしい。介護保険制度の有難みをこうして思い知るのだった。車椅子に乗ったきりになりそうな母親への歩行訓練に使う器具もレンタルできた。自分の身体の前に補助器具を置いて体重を支える。器具には4本の足がついていていた。この器具は後に大変重宝することになる。


これらを決めてくれたのは、ケアマネジャーだった。地獄に仏といった塩梅で、これほどのお方と巡り合えたのは本当に幸運だった、と心の底から思ったものだ。後にそれは誤りだったことが判明する。


7月13日に退院してから、一か月死にもの狂いでリハビリを重ねた。その結果かどうかは知らないが、8月になればもうクルマ椅子を押しながら自然に移動できるまでに回復していた。9月にはクルマ椅子すら要らなくなくなった。

何故ここまでするのか?老人ホームへ行かずに自宅に住み続ける為だ。

老人ホームというのがどういう所なのかは知らないが、入居するには毎月それなりの費用が掛かるに決まっている。行った所で母親の人生がバラ色になる訳でもない。であればこのまま自宅で過ごしたほうが良い。そもそも当の母親が老人ホームへ行くのを断固拒否していた。

a. 母が自分の脚で歩ける。

b. トイレも風呂も自分で済ませる

c. 自宅の階段の上り下りも自分一人でやれるようになる。

これら三条件が揃えば、何とか老人ホームへ行かずにすむ。


だがその為には、自分の脚で歩くための歩行訓練が必要となる。母親の介護をしながらのリハビリは、結構大変だった。


朝、起きる。まずは母親の背中に湿布を貼る。季節は既に夏。湿布の交換を怠るとそこから汗疹が出来かねない。それにベッドに敷いているシーツも洗濯しないといけない。小まめに洗濯しないと臭くなる。それと共に母親をお風呂へ連れていく。どうやら風呂とトイレは自分で出来るみたいだ。これが不可能であれば、老人ホームへ入居して貰うよりなかったから不幸中の幸いだ。母親がお風呂へ入っている間、犬を散歩させて近所のスーパーマーケットで飯の材料を買う。自分用の朝飯は、コーンフレークで済ましておく。母親がお風呂から上がる前に昼飯や晩飯のおかずになりそうなものをこさえておく。これをサボると後々地獄を見るのだ・・・。お昼時には母親を散歩へ連れ出す。予め歩行器具と車椅子を一緒にクルマの中に詰め込み、それに飼い犬と母親を乗せる。この準備だけで一苦労である。目的地は決まっており、近所の公園だ。


公園は自宅からクルマで数分の距離にある。慣れるまでは歩行器具を一体クルマの何処に収めておけばいいのか解らなかったし、母親のリハビリといっても何をすればいいか解らなかった。だが回数を重ねていくうちに、

1. 歩行器具は助手席に収まること

2. 車椅子も非常用として後ろの荷物入れに収納しておくべきだということ

3. 一回の歩行訓練は1時間ほど

といった練習の目安みたいなものが見えてきた。

時間が短すぎれば訓練する意味がない。長すぎると、訓練を毎日できなくなってくる。丁度いい塩梅を見つける必要があるのだ。

公園の駐車場で母を車椅子に乗せ、適当な所まで移動させてから、今度は歩行器具を使って立たせる。訓練の開始だ。


最初から飛ばすと碌なことがないので、ゆっくりゆっくりと移動させていく。はじめは4,5m移動するだけで息が切れていくものの、慣れてくると地面が木の根っこでボコボコしているような所でも平気で歩けるようになってくる。かと言ってここで安心して一日サボるとどうなるか。その翌日には、確実に歩けなくなっているのだ。毎日の訓練の積み重ねというのは、裏切らないものだなと感じた。同じ公園ばかりだと飽きてくるから、別の公園に行って違うメニューもこなしてみる。例えば手摺りに掴まって移動するとか、坂道に挑戦してみるとか。いずれも時間が掛かる。カタツムリが移動するのを見ているような気分となってくるが、それでも辛抱強く続けるしかない。一緒に連れている飼い犬は、事情も解らずに何をそうダラダラとしているのだ、という表情になっている。お気楽なものだが犬だから仕方ない。

こうして歩行訓練が終わるあたりには夕方になっている。後は晩飯を作って寝るだけだ。ここまで書いて解る通り、この頃の俺の一日はほぼ介護と母の歩行訓練とで占められていた。なぜそこまでするのか?ケアマネジャーが言う通り、老人ホームへ母を入居させてしまえば生活は遥かにラクになるのに。この当時、俺が自由に使える時間は一日2時間ほどしかなかった。大抵疲れて居眠りしてしまうか、ボーっとYoutube動画を見て時間が過ぎてしまう。一層のこと、誰かに母親の面倒を見るのを頼んでしまいたい。だがそれは無理な相談だった。なにしろ当のケアマネジャーその人が信用できないからだ。


ケアマネジャーへの不信感が芽生えた切っ掛けは、歩行補助器具だった。そもそも四本足の歩行補助器具というヤツは、階段で使ってはいけない。簡単にバランスを崩して転倒してしまう。俺ももう少し慎重に考えておけば良かった。ただ最初の頃は、がむしゃらに母親をリハビリさせることしか考えていなかった。自宅の玄関口にある3段からなる階段も無理やり歩行器具を使って登らせようとしてしまった。挙句の果てに母親は転倒する。

転倒といっても、本当にあっけないものだった。

「あ」といって背中からころーんと転がってしまう。普通の年齢であれば何てことはなかったろう。だがウチの母は当時78歳だった。チョット転倒しただけでも半身不随になりかねない年齢だった。この転倒で母親が歩けなくなるという事はなかったのだけれども、背中からの痛みが1ヶ月ほど引かなかったそうだ。それからは暫くサロンシップのお世話になった。

翌日、ケアマネジャーが自宅へやってくる。ケアマネジャーという仕事柄、定期的に高齢者自身と会って様子見をしないといけない。母親が階段で転倒した、という一報を聞き、そのケアマネジャーは感情を押し殺した表情となった。

ーどういう感情を押し殺しているんだろう

と思ったが、今にして思えば上手くいった、と飛び跳ねたい気持ちだったのだろう。背中に貼ってある湿布を見た時の嬉しそうな表情ときたら。これでこの老人も、自分の思いのままだと内心思っていたに違いない。

転倒したその現場で、

『こういったタイプの補助器具は階段では使ってはいけませんからねえ』

と嬉しそうにアドバイスされた。そういう事はもっと早く言ってほしいところだ。ケアマネジャーや彼女の仲間たちには、ここから違和感を感じ始めた。更にケアマネジャーは

「この近所に私の知り合いが老人ホーム経営してるんですよ。そこに入居しましょ!」

としつこい程に勧めるのも忘れなかった。だが母はそういった事を幾ら言われても、でもねぇ、と言葉を濁すだけだった。やはり住み慣れた我が家を離れたくはないようだ。

「ここまで介護の専門家が言ってくれているんだし、老人ホームもいいんじゃないの」

などと当初は俺も無責任なことを言っていた。介護なんて煩わしいことから逃れたかったのだと思う。だがケアマネジャーの人間性が段々と明らかになっていくにつれ、こんな連中の知り合いが経営する老人ホームに母が入居したらどういう事になるのか解ったものではない、という風に考え方が変っていった。

「老人ホームへ入って、何か良いことあるんですか?」

と尋ねると、「毎日お風呂に入れる!」とケアマネジャーは返答した。

だが当時の母は、普通に毎日自分でシャワーを浴びていた。だから身体は清潔そのものであり、べつにお風呂に入りたいとは思っていなかった。


ケアマネジャーを信じられないと感じた他のやり取りは、まだあった。

あるときケアマネジャーが「近くまで来たので」といって我が家に立ち寄った。その際、彼女は空を見上げて

「あぁ、もうすぐ雨が降るわねえ」

と呟く。なるほど、確かに入道雲みたいなのが立ち上っている。暫く会話したあとで

「私ね、自転車でここらの界隈回っている途中で雨に降られると、近くでお世話しているお客さんの家にお邪魔させて貰うの」

とも言っていた。

これらはそれぞれのやり取りだけを切り取ればなんてことない。だが空を見上げて雲の様子を見るだけで天候を判断できるような人間が、自転車で移動中に雨に降られるなんて失敗を犯すだろうか?それともわざとやってるのだろうか?目を付けた家庭の内情をそれとなく探るために。

もう一つ不信感を重ねたのは、母が呟いていた一言だ。

「あの人ねえ、アタシが居るお茶室からの景色を愛しげにいつまでも眺めて居るのよねぇ・・」

うちの家をケアマネジャーさんへ売るなどという話は全くしていない。確かに今住んでいる家は決して小さくはない。老いた母親と俺だけが住むには十分過ぎる。そこをリフォームして、自分達の老人ホームへ改造すればいい収入源となるだろう。こちらとしては真っ平御免だが。

決定的だったのは、母親が嘗てそれと知らずそのケアマネジャーとすれ違ったときの思い出話。どうやらケアマネジャーの女性は、「派手な服装の方々と一緒に歩いていた」らしい。どうやったらそういう人種と知り合えるのだろうか?日頃の生活を聞いてみたいものだ。その後、ケアマネジャーとは契約を解除することにした。繋がりを持たなければ、何かされる心配はない。

結果として、ケアマネジャーに頼らず、死ぬ物狂いでリハビリしたのが良かったのだろう。住み慣れた我が家を他人に奪われることもなく、老人ホームへ入居して法外な料金を請求されることもなく、何より母親は引き続き自宅で過ごすことが出来た。

2023年の中盤はこうして慌ただしく過ぎ去っていった。丁度新型コロナウィルスに対するワクチン接種が普及し始めていた時期でもあり、よしこれから自粛を解除していくかな、という頃合いでもあった。


この頃には自分が本当にしたいことが何だったのかすらアヤフヤになっていた。

ーまぁそんな難しいこと考えなくともいいじゃないか。無事に母親はこうして生きている。それどころか健康に自宅で毎日を過ごすことが出来ている。そりゃあ、毎日毎日沢山の薬を飲まないといけないし、それに毎食毎食ビタミンKを摂取しないように食事を用意するのは簡単なことじゃないけど、世間の人々とて育児をこなしながら仕事をしつつ介護やってるなんて例も聞かない訳じゃない。ならばこれくらい出来て当然だろう。ともかくこんな日々がこのまま永遠に続いてくれればいい。

そんな事ばかり思っていた。二人と一匹で近所の公園を散歩しているときなどは、とりわけそういう事を考えていた。この小規模な日常が壊れずに続いてくれればいいとだけ考えていた。だがそうもいかなかった。


当時母は自宅からクルマで10数分ほどの場所にある病院へ月に一度ほど通っていた。一命を取り留めて退院したとはいえ、定期的に身体を検査しておく必要があったからだ。この病院は地域の一次救急病院も兼ねていた。だからしばしば救急車が駆けこんでくる。母がかかりつけ医から紹介されて救急車で駆けこんだのも、この病院である。病院の一階で受付を済ませ、血液を検査して心電図を取ってから、2階の内科病棟のソファで只管待つ。銀行で見かけるような大き目のディスプレイがソファの前に掲げられている。患者は担当科のお医者様が勤めている部屋で自分のカルテを渡すと、後はひたすらディスプレイに自分の番号が掲示されるのを待つのだ。これが長い。下手すると1時間半くらい待たされることもザラだった。だから何か暇つぶしになるものを用意しておく必要があった。

1時間ほど待って漸く自分の番が回ってくる。いかにも神経質そうな、白衣を着た細身の男の先生が書類を片手に椅子に座っている。パソコンのディスプレイを見つめたまんま、患者本人には身体を向けようともしない。面白い診療スタイルだが、少くとも自分の身体を物理的に患者に向けたほうがいいのではないか、と感じてしまった。薬指を見るとどうやら結婚されているらしい。俺たち患者にはこの態度でもいいかも知れないけど、まさか自分の奥さんにはこうじゃないだろうな、と要らない心配をしたくなるようなお方であった。


挨拶もそこそこに母親の身体の現状を説明される。

「結局、弁に未だ問題があります。これをどうにかしないことにはどうにもなりませんね」

「便?大便のことですか?うちの母親の直腸にやはり問題があるんですか?便秘とか?」

「全然違います!!!」

俺も気づくべきだったんだ。内科の先生が直腸の話する訳ないじゃないか。それに7月には二次救急病院で僧帽弁の話して貰っていたのだから、その話を思い出しておくべきでもあった。勿論、俺は頭が悪いからすっかり忘れていたのだけれども。そこで内科の先生から再度母親の心臓についての説明を受ける。


静脈の逆流防止弁である僧帽弁がカチコチに硬化している状況は、まるで変化していないということ。今は途轍もなく強い薬で無理やり血栓を溶かし続けているということ。だがそんなやり方は長続きする筈もないという事。

「今処方されている薬は相当に強い薬なんですよ。本来であればお母さんに処方するかどうか躊躇うくらいの」

「それに薬って長いこと飲んでると徐々に効かなくなってきますからねぇ・・」

よくよく見ると、先生はカルテに

”こうした薬を処方するのは如何なものだろうか(コンプライアンス的に)”

という所見を書かれている。当時、母親は素人目にみても大量の薬を投与されていた。おまけに血栓を溶かす薬は、ビタミンKと相性が悪く、小松菜だの納豆だのを食べることが厳禁とされていた。退院してから最初の頃は、そんな事お構いなしに納豆を食べてしまい、先生から『おかしいなぁ、薬の効きが悪いなぁと思ってたんですよ・・』などと言われてしまっていた。


結局、心臓の問題は何一つ解決はしておらず、寧ろこれから徐々に事態は悪化していく一方だという事を告げられた訳である。

「ま、私は心臓手術を普段からやってますからねぇ。何てことないみたいに言いますけど、でもやっぱりご自身の問題だから。まぁよくよく考えてからお決め頂かないと・・」

「お母さんも78歳ですからね、今はまだまだ元気ですから。だからこれはチャンスなんですよ。これ逃すと後がない・・」

一難去ってまた一難とはまさにこの事。今度は心臓手術を受けるかどうかという大きな決断を下さないといけなくなった。母親は何かを自分の判断で決めるというのが出来ない人間だった。というよりも、いつも誰かに相談し、そして事態がどうにもならなくなるまでズルズルと先延ばしにしたのちに、誰かに頼むという最悪なやり方を取ってきた。だから今回も、母親に決めさせるのでは絶対に埒が空かないのだろうな、とは思っていた。


その後も何回かその内科の先生に診察して貰うことになるが、大体このパターンだ。

1, 俺と先生が懸命に心臓手術を受けるように説得する

2, 診察室では明確な返答をすることはない

3, 家ではウン、そうねぇと母親は納得したように見える

4. しかし病院の診察室に来て、いざ先生から手術の話をされるとまた躊躇する


俺はとうとう痺れを切らした。だから診察室で母親にこういった。

「母ちゃん、母ちゃんは手術さえ受けなきゃあ、今の生活がずっと続くもんだと思っているだろう?違うよ、今服用している薬は段々効き目が悪くなっていくんだ。だからこそ、いつかどっかしらの時点で手術をしないといけなくなってくるんだよ」

「でね、これを病院の先生の目の前で言うのも如何なもんかと思うのですが・・・。ただウチの母親、医者なんて信用できないとか何とか、ふざけた事言ってやがるんですよぉ・・」

そういうと、この神経質そうな内科の先生は思わず身を乗り出してきた。それは確かにそうだ。自分達の沽券に関わる話だしな。

「じゃあさ、母ちゃん。解りましたよ。俺が日本全国駆けずり回って、とにかくどこかしらの腕の立つ、凄い医者を見つけたとしましょうや。勿論腕が立つだけじゃダメよ、信用できる人間でなくてはね。でもさ、コネも何もない俺が、一体どうやってそんな先生見つけるのって。まぁ奇跡的にこれから、そうさなぁ、半年以内に見つけられたとしましょう。でもそこからすぐ手術って訳じゃない。母ちゃんの身体を診察し、その先生に手術して下さることに納得して頂き・・。そうなることにはもう、平気で1年とか1年半時間が経っているという訳だ」

「で、そうなった時にね。果たして俺らに選択肢が残っているのかと。今さ、こちらにいる先生も言われていたじゃん、お母さん、まだまだお若いからギリギリ手術には耐えられますからねと。でもこれからズルズル手術するかどうか先延ばしにしたとしましょう。そうして2年も経つころには、確実に身体は弱まってきている。だがその頃には手術することなんてもう叶わない。」

「すると失敗確実な手術をやるか、それとも緩慢に死に近づいていくかの絶望的な二択を迫られる。それって控え目にいっても地獄でしょ、と」

「さてはて時間を現在に巻き戻します。今すぐ手術をするんだったら、まぁ幾らか勝算はある・・。あるからこちらの先生は『今が最後のチャンスでしょうからねえ』と言われた訳だ」

すると先生は深く頷いた。そして切り札を見せてくる。

「私は松戸にある二次救急病院の心臓血管外科にも籍を置いているんですよ。今回の手術では私の上司が執刀します」

如何にも自信ありげな口調だった。俺は心臓手術の世界のことは、何一つ知らない。だがこの喋り方からして、尋常ではないなと思った。相当凄い先生なんだろう。これは後から知ったことだが、その二次救急病院における心臓手術の顔みたいな凄腕医者だという事が解った。「医者の中の医者賞」というヤツがあって、そういった栄えある賞を何回も受賞しているのだった。

内科の先生は更に続ける。

「これまでは心臓手術って胸を切り裂いてから中を手術して・・っていう、まぁ大げさなやり方ばかりだったんですよ。でもそういうやり方だと患者の身体への負担も大きいしね。だから最近じゃ新しい術式が開発されたんです。心臓には小さな穴だけを開けて、あとはロボットアームを使って手術するっていう。このやり方であれば患者の身体へのダメージも大したことない」

有難いセリフではある。ただこういったお話をそのまんま信じられる訳でもない。勿論この内科の先生は嘘を付いている訳ではないと思う。だが新しい術式で心臓手術に挑戦してみたい、成功したらそのデータで論文書いてみたい、という野望だってあっただろう。野望といって悪ければ、医者としての性というべきか。それに俺の母親は当時78歳。失敗しても、寿命だったと諦めのつく年頃である。そういう目線がまるきりなかったといえば嘘になろう。


けれどもここで選択を先送りすれば、それはそれで母親の病状は悪化していく。どの道何処かで博打を打たないといけないのだ、ならばリスクを最小化すべく、なるべく早めの手術を行ったほうが良い。

「だから結局、今やるしかないんだよ。勿論、この先生たちだって神様じゃない。もしかしたら、手術は失敗して母ちゃんは死ぬかも知れない。或いは重篤な後遺症が残るかも知れない。手術すりゃあ、薔薇色の未来が待ってるなんて誰にも約束は出来ない」

「だから博打だよ!本当に。でも人生、博打を打つしかない瞬間て必ずあるんだよ、他の選択肢が悪すぎるんだ・・。今やらねえと・・・」

ここまで俺が捲し立てると、母親は

「いつもこうやって理屈を並べ立ててくるんです」

と愚痴なんだか不満なんだか解らないことを抜かしてくる。

「だからさ、理屈で判断するしかないんだって。やりましょう!!!」

すると先生も『今が最後のチャンスでしょうねえ』と合いの手を入れてくる。

母親は観念したのか、「解りました・・」とだけ言った。これが心臓手術の第一歩だった。

もしかしたら、俺は手術が失敗して母親が死ぬことを望んでいたのだろうか?いつまでも続く介護の日々に疲れ切っていたから、こんな博打まがいの手術を受けるように勧めたのだろうか?傍目からは正論ばかり振りかざしているように見えるが、本当に心の底から母親の幸せを願ってこういった言葉を喋っていたのだろうか?今こうして下手糞な小説を書いて、自分はそんな邪悪なことなんて考えていませんよ、と後から言い訳をしたかったのだろうか?


・手術への準備

何事もすぐに準備できる訳ではない。まず手術に先だって、二次救急病院へ行って執刀チームを率いる先生との顔合わせを済ませ、更に考えられる限りの失敗要因を除いておかねばならない。母親は長年虫歯を放置してきたから、大至急それを抜く必要があった。下手すると虫歯の歯茎から流れ出た雑菌のせいで手術が失敗することもあり得るのだそうな。さらに手術予定日に合わせて、身体を最高のコンディションに持ってゆかねばならない。結局、最後は体力がモノをいう。だからこれまで以上に、毎日毎日公園なり、ショッピングモールを散歩させておいた。最低でも15分は歩かせないといけない。歩く時間は長ければ長いほど宜しい。だが高齢者の悲しさ、少し歩いただけですぐに疲れたとか、休ませてと言ってくる。甚だしきは、今日は散歩に行きたくないなどと言ってくる日もある。そういう母親をなだめすかしたりなんなりして歩かせる。最早子育てと変らない。子育てから未来を取り去ると、介護になるんだと思う。


2023年12月9日、自宅の修繕工事の真っ只中だった。我が家はもう長いこと修繕しておらず、その為に雨漏りが酷い状態になっていた。台風だの大雨になるたびに電気配線に漏電が発生し、ブレーカが落ちる。今後も家に住み続けるため、まずは屋上の防水シートを張り替え、それから外壁塗装を塗りなおす。そのための工事の真っ最中であった。もしも手術に失敗して母親が死んだら、今やっている工事は無意味になるのだろうな、と思いながら母親を二次救急病院へと送り届ける。片道50分ほどの行程であり、もう何回通ったか解らない。事前に病院から説明された通りの書類と、病院の中で過ごすための着替えを持たせて、病室へ送った。そのまま家路につく。


2023年12月11日、手術の事前説明を受ける。最近はInformed_concent(納得診療)とか何とか、色々と面倒くさいのである。なんでも「患者に手術内容を納得して貰い、同意を取り付けた上で初めて手術をする」ことが大事なんだとか。こちらは医学の知識が皆無と来ている。まぁ説明はないよりあった方がいいとは思うけど。説明を受ける1時間程前に入院している病室に行くと、母はテレビを前にして食事をしていた。といっても病院食であまり美味しそうには思えない。外の天候は曇りであり、まさしく今の心象風景を表していた。さっさと終わらせて欲しい気分が半分、でも失敗したら怖いなという気分が半分。母親には当時から嵌まっている月刊ムーを差し入れて置く。

「ツキ君、こういうの好きねえ・・」

本人は微妙そうな表情を浮かべて脇に置いただけだった。


夕方ごろに事前説明が始まる。本来であれば執刀医の先生から直接説明される筈だったが、その先生は出張だか学会だかで忙しく、その代わりに執刀チームにおける女医の先生から為された。

1.5%の確率で死亡するし、4~5%の確率で重篤な後遺症が残ると言われた。

初めて数値化されて説明されると、なかなかに迫力がある。例え頭では受け止めるべきリスクなんだ、と解っていても感情では受け入れがたい。息子の俺でそうなんだから、母は猶更だと思う。

「それから事前の説明では身体の負担を少なくするように、新しいやり方で執刀すると説明していましたけど」

と女医の先生は切り出してから

「よくよく調べてみたら、思った以上にお母さんの心臓の石灰化(解ります?もうカチコチに硬化してしまっているんです。心臓の壁面が至る所)が進んでいて・・・。

それで小さな穴を開けて、そこからロボットアームで手術するってやり方じゃあ無理だって解りました。」とのこと。

つまり石灰化した壁面を削り取ろうにも、心臓に開けた小さな穴からロボットアームで削るなんてやり方では全体像が全く見えず仕事にならないらしい。

「今回の僧帽弁を置き換える手術では、石灰化した箇所を削り取らないといけない。でも幾ら石灰化した箇所を削り取らないといけないからって、やり過ぎると心臓の壁に穴を開けて、ウチの母親は死ぬ。

心臓の壁に穴開けるなんてリスクを犯さない為にも、従来型のやり方でやるしかないって事ですね」

というと、女医の先生は押し黙ったまま頷いた。

心臓を縦に切り開いてある程度視野を確保してから、少しずつ少しずつ石灰化した壁面を削り取っていくしか方法がないようだ。致し方ない。大体ここで駄々をこねてどうなるものでもないし。


女医の先生は、心臓の内側に取り付ける人工僧帽弁も見せてくれた。どうやら動物性タンパク質から培養して作り上げたものらしく、透明で綺麗な外見をしていた。これを自分の心臓に取り付けるのか、と母親もしげしげと眺める。

「本当ならチタン合金製の僧帽弁もありましてね、そちらの方だとずっと使い続けることが出来るんだろうけど。その代わり一生血栓防止のお薬を飲み続けないといけないんです。

 で、こちらの動物性タンパク質で培養した僧帽弁を心臓に取り付けるやり方だったら、一旦取り付けさえすれば10数年はそのまま使い続けることが出来る・・」

ここで母親が要らないことを聞く。

「え、じゃあその後は?」

「今から10数年も経てば、94,5だろ?その頃にはもう寿命で死んでるだろうから、問題ないよ」

母親はうわぁ、と非難がましい声を出した。なんて酷いことを言うの、という所なんだろうが。だが母が今から乗り越えないといけないのは、まずは手術だ。その先のことは後で考えりゃいい。


2023年12月13日、とうとう手術当日である。手術の2時間前から唯一の肉親である息子の俺が立ち会う。こんな日だというのに、天候はムカつくほど爽やかな晴模様だった。寧ろドラマみたいに雨が降るとか、どよんとした曇りの方がまだ良かったと思う。

母親の入院している病室にいくと、一次救急病院で母親を診察していた内科の先生がひょっこりと顔を出して

「お母さん、どうですか?」

と見に来てくれた。患者にあまり思い入れをしないタイプなのかと思っていたので、とても意外だった。

「今日はね、勝負の日ですから。頑張りましょう」

そういわれた母親がなんと返答したか思い出せない。確か、はい、よろしくお願いします、とかそんな感じの言葉を発したのではないかと思う。

ここで今生の別れといわんばかりにお互いオイオイ泣くのかと思いきや、そんな事はなかった。気負いというか、気張った感じは見受けられない。勿論、手術に失敗したら自分が死ぬ事は理解しているが、もう事ここに来てジタバタしても始まらない。

母が入院していたのは、4人1組となる相部屋である。隣の患者さんがおむつの中に糞をすりゃあ、当然看護師さん達が取り換えなきゃいけない。そうなるとぷーんと饐えた臭いが病室の中に立ち込める。

「なんだかウンコ臭いわねえ」と母親が漏らす。

看護師の姉さんが先輩の男性看護師から

「髪の毛は短くしといた方がいいぜ、先っぽに糞が着くことあっからさ」とアドバイスされている。

手術の前にこんな力が抜けるようなやり取りをするとはまさか思ってなかった。母親の傍らには、俺が差し入れた雑誌が二冊あった。月刊ムーの最新刊だったが、手に取って読んだ形跡はなかった。やはり週間女性とかスポーツ新聞みたいなのを差し入れるべきだった。


いよいよ手術室へ向かうことになる。車椅子ごと移動すべく、大型のエレベータで集中治療棟のある階層まで移動する。集中治療棟のドアを通り抜ければ、もう家族は別に設けられた待合室に行かないといけない。

「サヨナラ」とかいいながら、母は俺に手を振っていた。要らないときに悲劇のヒロインを気取りたがる。

「何考えてんだ!無事に生きて、手術を終えて、家に帰ることだけ考えてりゃあいいんだ!」

と言って、待合室へ行く。別れ際に「戦争じゃあるまいし・・」と言われたが「外科手術なんて、戦争みたいなものだ」と言い返す。


待合室では何もすることがないので、コンピュータ関係の技術書を読みこなすことにする。だが手術のことが気になって内容が頭に入ってこない。それでも無理やり読み込もうとし、いつの間にかスマホの画面を弄っている自分を発見するも、電波が悪すぎるのでいつまで経っても画面が遷移しない。そこで仕方なく本に戻る。この繰り返し。何も考えないようにしていた。何か考えても、悪い方向にしか進まないからだ。ならば余計なことは考えずに黙々と作業していた方がよい。頭では解っている。そうやって何時間も経過する。もう夜中だ。もう少しで日付変更線を過ぎようという時に呼び出された。執刀医の先生である。

「手術、一応ね、成功しました。お母さんの容体は安定してます」

余りにもあっけなく成功しました、と伝えられた為に現実感が湧かない。まぁでも、髪の毛をぐしゃぐしゃにして憔悴しきった表情になっている先生がこの様に言われているのだから、事実成功したのだろう。。

「大変でしたよ・・・。他の病院では断られていたかも知れない」

額には汗が幾つも見えている。一仕事終えた後でもう、すぐにでも寝たいという状態の先生を見るにつけ、『ありがとうございます』というありきたりな言葉しか出てこなかった。


手術が終わったあと、母親はみるみるうちに容体を回復させていった。手術から2日後に集中治療棟にいる母親を見に行ったときには、もうすぐ酸素マスクを外せる段階に差し掛かっていた。

その翌日には、早くも一般病棟の相部屋に移り、普通に食事できていた。幾ら手術が上手くいったからといっても、尋常ではないスピードの回復だった。やはり毎日散歩させていたのが効いているのか?

一週間後には、最早自分の足で立って普通に小便を足すことも出来るようになっている。もうすぐ退院できるだろうこれは、と喜びも一塩だった。

そして12月23日にはすんなりと退院できた。家族の俺ですらびっくりするようなあっけなさであり、この時には自分の判断は間違っていなかったのだ、と確信していた。

これで小松菜だの納豆だのを避けなきゃいけない暮らしともオサラバだ。それどころか、毎食毎食大量の薬を飲まないといけない暮らしともあと少しで決別できる。これで二人と一匹の何ということもない暮らしが戻ってくるのだ。そう思っていた。

だが世の中そう甘くはない。


・脳溢血の予兆

2024年3月あたりから母親は「目が回るのぉ・・」と体調不良を言い立てることが増えてきた。

ーいい加減にしてくれ

それが当時俺が思った、正直な感想だった。母親のために一日一回は共に散歩し、さらに三食の飯を作ってあげている。これ以上、俺に何を背負いこめというんだ。ここまでやっているんだぞ。

だが母親が手にしている週刊誌に「脳溢血云々」と書いてあることも気にはなる。だからまず、駅前の眼科病院へ連れて行った。だが返答は釣れないもので

「べつにこれといって異常は見受けられないですねぇ。。。耳鼻科か内科に診てもらった方が」

と言われる。

心臓手術後の経過観察で定期的に診てもらっている一次救急病院の内科では、

「あーあ。肺にまた水が溜まってますねぇ。多分、これが原因でしょう。呼吸困難に陥ってそれで意識が遠のいてしまったと」

という診察を受けた。良かった、原因が見つかった。その時はそう思っていた。だがここで俺は医者にこう質問すべきだったのだ。『心臓に血栓が残っていた可能性はないのですか?』と。

医者だって人間だ。自分たちが死力を尽くして執刀した手術が不十分だったなんて思いたくない。この時期の母親は、血栓を溶かすための強い薬を服用していなかった。(何しろ、手術は成功した訳なんだから!)

だがこの時、血栓を溶かす薬を飲まなくなったために、新しく出来てしまった心臓内部の血栓が脳に飛んでいる可能性をもっと追及しておくべきだったのだ・・。


・2024年6月28日夜8時半ごろ、脳梗塞発症

そのときもいつもの通りに日々を過ごしていた。俺は海鮮パエリアを作っておき、1階にある自分の部屋へ降りて行った。そこで勉強をしていたのである。当時の俺は『いつか格安の遠隔検針できる水道メータを作ってやるんだ!』という目標に憑りつかれていた。そうしたメータを自分の会社で設計するためにも、色々と勉強しておくことは多い。大学のころ学んでいた教科書を再び取り出しては、学生時代に学んだことを復習していた。母親に「母ちゃんキチンと血圧測定しとけよお」と言い残して1階の元々茶室だった部屋に降りていく。今では何の変哲もない洋間に改装しており、勉強するにはもっとこいの落ち着く空間だった。1時間ほど過ぎて9時手前に2階へ上がる。もうこの時期の母親は30分と目が離せなくなっていた。痴呆症であり、5分前に言われたことも忘れてしまい、毎日をひたすらテレビを見るだけでボーっと過ごしているだけの存在になり果てていた。


何やら母の様子がおかしい。ソファから立ち上がるという当たり前の行動が出来なくなっている。

「おい、母ちゃん、何やってんだよ。ふざけてるのかよ」

と言っても何の反応もない。相も変わらず、ソファから立ち上がろうとしては失敗することの繰り返し。

「ねえ、母ちゃん?」

そういっても反応はない。


・救急車を呼ぶ。近くの病院へと搬送

このまま様子を見てみようか、という考えが頭に浮かぶ。暫く安静にさせたまま眠らせておけば、明日には具合も良くなってるんじゃないかと。

ーだがそれが間違っていたらどうする?

もしも今選択を誤ったら一生後悔することになる。救急車をいますぐ呼んだ方がいいだろうか?大袈裟だって怒られるんだろうか?最近は「救急車の適正利用」云々と煩いご時世だ。でもソファから手をついて立つこともままならないというのは、どう考えても正常じゃない。それにこのまま放置して一晩経ったらケロッと治っていればいいものの、そうでないとすれば?手遅れになってしまったとすればどうなるんだ。多分、一生後悔する。

俺はスマホで救急車を呼んだ。夜の9時前だったと記憶している。救急隊員から

「患者さんを安静にね、無理に動かさずに・・」

と言われていたのに気が焦っていた俺は、無理やり母親を玄関までおぶさって連れて行った。もう母親はこれまでの表情をしていない。何か訴えようにも声が出ない様だ。この時点では母が一体どんな病気に掛かったのかまるで理解していないのだった。

10分ほど経ってから救急車が自宅に到着する。しかしその頃から、既に母親の表情はおかしかった。右側半分だけ顔が引き攣り笑いしているような表情だった。典型的な脳梗塞が完成した症状である。もう救急隊員たちも、最早慌てることもなくなっていた。

「あ、笑ってるような表情になってますねぇ・・」

と指摘され、これはもう末期的な症状なんだな、と何となく悟る。そのままいつもお世話になっている一次救急病院に搬送される。


夜中に緊急搬送されたあとで、当直として勤めていた脳外科の先生から診察結果を報告してもらう。

「救急車の中でも言われていたかも知れないけど・・。心臓の中に出来た血栓がね、左脳の根本に飛んでしまってるんです。左脳に血液を送る根本の所から栓をしちゃってる状態ね。そんでもってウェルニッケ野っていう言語をつかさどる所も壊死してしまってるし。右半身動かすことも出来ない。」

「治る可能性は・・?」

「もう、脳梗塞が完成しちゃってるので。。。今後は保存的治療っていって、悪くならないように見守ることくらいしか出来ないですね・・」

暫くしてから脳外科の先生は、運がなかったですね、と付け加えた。馬鹿野郎、何が運だ、と言い返したかったけれども、結局その通りなのだと後になってから気が付いた。


・無駄だったのか?

もう少し俺に救命知識があれば、母が脳梗塞だったという事が解っただろう。それだけじゃない。「目が回る」云々していた時から、脳梗塞を疑うことも出来ただろうし、医者の判断を疑うこともできただろう。脳梗塞と解っていれば、母親の身体を無理やり動かすこともなかっただろう。

だが実際にはどうなんだろう。

一度脳梗塞になると、再度脳梗塞になりやすいと言われる。それに医者が下した判断にも関わらず、脳梗塞の可能性を疑って無理やり検査して貰った挙句に脳梗塞と解った所で、俺に一体どんな事が出きたというのか?心臓手術が終わってからというもの、母親は目に見えてぼーっと過ごす時間が増えていった。医学に詳しい親戚に言わせると、心臓手術をしたあとは心臓に残っていた血栓が全身に飛びやすくなるらしい。


その後の母は各種病院を転々とした。最初は近所の一次救急病院。お次は近所の沼添いにあるリハビリテーション病院。(老人ホームへ入居する手前の段階の老人は、リハビリテーション施設で訓練を受ける。少しでも介護度を下げるためだ)

この頃は、ほぼ毎日の様に母の見舞いに行った。だが懸命なリハビリテーションの努力にも関わらず、母の容体は大して良くならない。

考えてみれば当たり前なことで、左脳が壊死したあとで半身不随、そのうえ言語機能を喪失している状態で患者を引き渡されても、この上何をすればいいんですか、という話ではある。


今更の話だけれども。やはり心臓の手術なんてしない方が良かったんだろうか、とフト思う瞬間がないでもない。

けれどもやはりそんな事はない、と思い直す。あのまま心臓手術を受けず、薬を大量投与する暮らしを続けていた所で、何処かで破綻することは目に見えていた。何処かで薬の効き目が悪くなり、そして絶望的な二択を迫られることになる。

失敗するのがほぼ確実な手術か、それともそのまま緩慢に死ぬのに近づいていくのを受け入れるのか。

であればあのタイミングで手術を受けたのは正解というべきだった。

誰も悪くないと思う。手術を勧めてくれた先生も、執刀してくれた先生方も、命がけして施術してくれたのだ。

結局、母親は最後の最後で悪運が尽きてしまったのだろう。その意味で脳外科の先生が言っていた「運がなかったですね」という言葉は至極正しいのだ。感情的には受け入れがたい言葉ではあるが。


2025年の2月中旬に入り、母親は老人ホームに入居する。ここから先はもう、書くことがあまりない。

家の中には飼い犬と俺の一匹と一人だけの暮らしとなった。更にはネズミが夜中天井をガタゴト這いずり回るものの、家の中が余りにも汚過ぎて業者も見回ることが出来ない。だから1ヶ月近く掛けて大掃除した。ゴミ収集業者には大変に料金をボラれはしたものの、何とか家の中は伽藍洞といっていいくらいに綺麗になった。だがするとまた別に虚しくなってくる。結局12年間、ビルの大家として頑張ってみたけれども何が得られたという訳でもなく日々だけが過ぎ去った。夫に先立たれて一人ぼっちになった母親を様々な場所へ連れ出したものの、それだけだ。ボケて老人ホームに入居なんてことになって欲しくなかったから、毎日毎日散歩させたのに、結局母親は80歳にして老人ホームに入居することになった。要介護度は5だから、もう戻ってこれない。戻ってこられても、俺が介護しきれない。


家は売ることにした。犬を飼えるアパートか何かをこれから借りようと思っている。33年ほど住んだ家だったが、あまりいい思い出がない。思い出されるのはいつも父親と母親とが喚きあっている姿であり、食事中も喧嘩が絶えない家庭であり、しかしそんな家庭であっても俺にとっては大切なものだった。だがそれは父や母が一緒に住んでいればこその事であり、もう俺一人になったからには、何の意味もないのだ。

家を設計した会社へ改装工事を頼んで、家の中を新築同然にしたあとで手放す。今飼っている犬は、引っ越した先で死ぬまで飼い続けてやろう。

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