9.リオン
荷台の箱の中で馬車の揺れに身を任せながら、リオンはぼんやりと空を見つめる。
空といっても蓋を閉められた四角い籠の中では、上に蓋があるのもあって視界は真っ暗で何も見えない。
前方からはイヴとジルがはしゃぐ声がしていた。
(なんでこんなことになったんだっけ?)
リオンは心中だけで首を傾げる。
そんなのは決まっている。リオンがイヴの手を掴んでしまったからだ
しかしたったそれだけのことでこんなにもすべてが変わるだなんて、リオンはちっとも知らなかったのだ。
「あなた、どうしたの? こんな所に一人で」
その日はいつもと変わらない日だった。リオンにとっては日々の変化など曖昧で、食事のパンが少しいびつだとか綺麗だとか空気が冷たいだとか暖かいだとか、その程度のものでしかなかった。
しかしその日リオンの目の前に栗色の髪を翻しながら窓を飛び越えて降り立った少女は、明確にいままでリオンが過ごしてきた日々とは隔絶した存在であった。
「どうもしない」
目が覚めるような明るい瞳だと思った。礼拝堂に飾られている女神像に埋められた黄色い石にとてもよく似た色をしている。
「そうなの? お母さんとお父さんは?」
けれどこちらの瞳の方がとてもきらきらしていると思った。リオンの視線に合わせてかがむため、ふわりと揺れるスカートのすそが視界の隅に見える。
「どっかにいる」
「……保護者の方は?」
「ほごしゃ?」
「あなたの面倒をみてくれている人のことよ」
言葉の意味が良くわからなかった。
「……お母さんから僕のことを買った人ならいる」
少女はわずかに息をのんだようだった。
「……。そう、ごめんなさいね」
「ごめんなさい、なんで?」
「つらいことを聞いてしまったから」
リオンは首をかしげる。
「つらい?」
「……ええ、そうね。つらくないのならば、それはそれでいいの」
「ふぅん」
リオンにはよくわからない。少女の表情も言葉の意味も。ただ、いままで彼女以外にリオンの隣に座ってくれる人はいなかった。だから会話を続ける気になった。
「じゃあ、あなたを買った人は?」
「ここにはいない」
「いつもいないの?」
「たまにくる」
「じゃあ、今はあなたのそばには誰がいるの?」
「あなた」
リオンが少女のことを指差して言うと、彼女は微笑ましいものをみる目で笑った。そんな表情を向けられるのは初めてだった。だってリオンは空気の幽霊なのだ。誰もリオンに話しかけないし、笑いかけない。
悪態をつかれることならば、たまに。
「わたしがいない時の話よ」
「しろい人たち」
「白い人?」
「そこにいる」
指さした先は礼拝堂だった。そこではたくさんの白い装束をした大人達が手を組んで祈りを捧げている。
「教会の人達のこと?」
こくん、とリオンは頷く。
「その人達のことは好き?」
首をかしげる。
「“すき”ってなに?」
「好きって言うのはね、嫌いじゃないものの中で、どうでもよくないもののことよ」
少女は少し困ったように笑って言った。
「とっても大切なものよ、生きていく上でね」
「じゃあ、好きじゃないかも」
リオンはぼんやりと応じる。
「けっこう、だいたい、どうでもいいから」
リオンは空気の幽霊だ。誰にも見えない存在。だって誰もリオンの姿を見ないから。話しかけることもなく、ただ食事だけは与えられた。
ここに来た当初はリオンも泣いたりわめいたりしたように思う。しかしそれも止めてしまった。だって何にもならないから。
あんまりにうるさいとどこか狭い部屋にリオンは放りこまれた。そしてそれだけだ。リオンが泣き疲れて黙ると、自然に扉の鍵が開いた。
リオンのことが見えない白い人達は、いつもせこせこと何かをしていた。
それは本を読んでいたり、掃除をしていたり、説教をしていたりしたのだが、リオンにはそんなことはよくわからなかった。
そしてそれらをしている人すべてと、目の前の人は全く違う生き物に見えた。
「あなたは何をしてる人?」
だから、ふと、知りたくなった。
「わたし? わたしはね、歌って踊る人」
いままで誰も答えてくれなかったリオンの質問にその人は答えをくれた。しかしそれは随分とへんてこな答えだ。
「うたっておどるひと」
「そう、歌って踊る人」
お互いにしばし見つめ合う
「……なんだかたのしそう」
「そうね、わりかし楽しいわね」
見てて、そういうとイヴはその場にすっくと立ち上がり、古ぼけた赤いスカートを翻してくるりと回ってみせた。
そのまま手と足を打ち鳴らし、リズムを取りながら歌を歌い、くるくると回り続ける。回るごとに手の形は変わり、それは鳥の羽ばたく様であったり、蝶が舞う姿であったりとなんらかの意味を持った姿を模したものであったが、リオンにはそれは理解できなかった。
ただ、嫌いじゃないとは思う。
自分も一緒に踊り出したいような、ずっと目を離さずに見ていたいような、そんな気持ちを美しいとか心地よいと表現することをリオンは知らなかった。
やがて歌が止み、イヴはその場でゆっくりと大げさにお辞儀をして見せる。
拍手の存在も知らないリオンは、自分の中にくすぶる感情をどう表したらよいのかがわからなかった。
「楽しそうだった?」
「……うん、たのしそうだった」
言葉に出しても、リオンの中の感情は収まらない。そのままつい、ぽとりと溢してしまった。
「ぼくも、たのしくしたい」
その言葉に自分で驚く。その時初めてリオンは自身が現状に不満を抱いていたのだということを知った。
「じゃあ、楽しくしよう」
イヴはそんなリオンの心を知ってか知らずか、手をさしのべた。
「一緒に、楽しい場所に行きましょう」
その手をとってはいけないと、リオンはその優秀な頭脳でもってなんとなくだが理解していた。しかし理性を上回る感情があるのだということも、リオンはその日生まれて初めて知ったのだ。