62.悪いの誰だ
返事のできない勇者から手を離すと、少女はそっと後ろへと下がった。
背後は崖だ。
危ない、そう叫んでたぐり寄せようと伸ばした手は別の手に弾かれた。
見上げた先にはどこに潜んでいたのか、灰色の獣人がいた。
彼は右手に魔王の子を、そして左手で少女の腰を掴む。
「ばいばい」
最後に少女はそう言って笑った。
そのまま3人の姿は深い崖の底に吸い込まれるようにして消えてしまった。
兵士達が何かを叫びながら駆け寄ってくる。
何を言っているのかなど何も聞き取れないままで、勇者はふらふらとした足取りで崖ぶちに立ち下を覗きこんだ。
下には流れの速い渓流が流れており、3人の姿は影も形もなかった。
*
「――して、魔王の子の生死は?」
「こちらを」
玉座に掛けた王の前へと進み出ると、勇者は恭しく手を差し出した。
その手に乗っているのは、栗色の数本の髪の毛だ。
それは宿屋で入手し、魔王の子の追跡に使用した髪の毛だった。
「肉体の一部から相手の生死がわかる魔法の持ち主がいます。鑑定を頼んだ結果、死亡が確認されました」
その言葉に周囲から感嘆の息が漏れる。
王の御前であるためあからさまな歓声を上げる者はいなかったが、皆がこの結末に安堵していた。
魔王の子が国外に逃げのびたなど、とんでもない不祥事だ。
そうなってしまっては、その始末の収集を誰がとるかという身内同士の泥沼の戦いが始まるのは目に見えていた。
王は仰々しく頷くと「さすがは勇者、よくやってくれたねー」と褒め称えた。
「でも共謀者の死亡は確認されているのかな?」
「今下流を攫っていますが、まだ死体は発見されておりません。しかし川から這い上がった形跡はどこにもなく、そもそもあの高さから落ちて無事で済むとは思えません。……万が一生きていたとしても、重症を負って険しい山道を越えられはしないでしょう」
そう告げる勇者の言葉は低く響き、その場にいる者達皆にしっかりと伝わった。
「たどりつく前にのたれ死ぬのが関の山です」
「うんうん、素晴らしいね。さすがだねー。皆もこの勇者の忠信を見習い、讃えるように」
王の促しに揃えたように周囲から一斉に歓声が上がる。
まるで舞台のようだと勇者は思った。
劇場の舞台の真ん中で、勇者は与えられた役回りを完璧に務めたことで拍手喝采を浴びている。
まるで道化だ。
「これでまた一つ、君は功績を残したわけだね」
数年前は魔王を殺し、今回は国賊と災いの元である魔王の子を討伐した。
「本当に素晴らしいよ。さすがは我が国が誇る『英雄』」
その言葉はずっしりと勇者の両肩へとのしかかった。
*
「本当に殺したのか」
すべての茶番が終わった後で、王宮を後にしようと廊下を歩いていた勇者はそう直裁的な言葉で呼び止められた。
「本当は逃がしたのではないか?」
「そうなさりたかったのは貴殿では? 騎士団長殿」
勇者は振り返る。
そこには童顔の騎士団長が、不審げに眉をひそめて立っていた。
「なんだと……」
「ギルフォード・レインを随分と可愛がっていたようですね」
「…………過去の話だ」
「そうでしたか、それは失礼」
しかしいずれにしても、
「あの生死を確認する魔法がどれほどの精度かはよくご存じでしょう。それが真実ですよ」
そううっそりと笑うと、勇者はその場を立ち去った。