61.誘惑
イヴは静かな声で問う。
「あの子を生かすことが悪なの」
「ああ、そうだよ」
苦虫をかみつぶしたような表情で、勇者は肯定を示した。
しかし予想に反して、その答えに少女は晴れやかに笑った。
それはまるで春の澄み渡った快晴のような笑顔だった。
「ならわたしは悪者よ」
「………っ」
「言ったでしょう。正義の味方を目指すのは止めたの。なにも悪いことも良いこともしていない、わたしの手を取ることにも躊躇するような、そんな子どもが殺されてしまうぐらいなら、わたしは悪者になっても手をつないであげたい」
勇者は唇を噛みしめる。
交渉の決裂は目に見えていたが、こんな返事が欲しいわけではなかった。
もっと別の、何か他の道があるのではないかと期待していた。
「………世界を脅かしても、その子ども一人を取るというのか」
それならばいよいよ、勇者は目の前の少女を切り捨てなければならない。
そうなるかも知れないと覚悟はしていたが、落胆は隠せない。
そんな勇者を困ったように見つめて少女は「わたし『正義の味方』になりたかったの」とぽつりと溢した。
そんなことはもう知っている。勇者がそう返事を返すよりも早く、
「だって『正義の味方』はみんなに味方してもらえるでしょう」
と少女は言葉を紡ぐ。
そんなことはない、とは、言い切ることは出来なかった。
事実、勇者も魔王の子も特別扱いには違いないが、多少冷遇されているとはいえ勇者は居場所を追われることも、殺されることもない。
そして表面的には地位と栄誉を持ち、事情を知らない人間からは尊敬と好意を受け取っていた。
「でも今のわたしには、自分自身よりももっと守りたいものが出来たの。」
それが魔王の子のことを言っていることは、考えるまでもなかった。
「あの子を守ることが悪だというのなら、わたしは悪者でかまわないわ」
「そんなことが許されると…」
「許しなんて乞うてない」
勇者の絞り出すような声を、少女は凜とした声で遮る。
そこに葛藤はなく、あるのは吹っ切れたようなすがすがしさだけだった。
「たとえ誰に許されなくても、わたしはそれをするわ」
はっ、と勇者は苦しげに息を吐く。
それは勇者が憧れた真っ直ぐさだった。
悪者でも、少女は初めて会った時と変わらぬ瞳をしていた。
「わたしはただ、愛しているだけよ」
夜空の星のように、きらきらと輝く琥珀の瞳。
「それには善悪なんて関係ないわ」
そう言い切れる強さが、勇者は羨ましくて堪らない。
(眩しい……)
視界がちかちかと瞬いて、しっかりと踏みしめていたはずの足場が不安定になる。
勇者の足場はいつだって、他人からの評価や理想で成り立っていた。
彼女は一体どこに立っているのだろう。
どこに立てば、そんなにも真っ直ぐな姿勢を貫けるのだろうか。
背後の兵士達は魔物に対応するために剣を抜いて森へと向かって行ってしまった。
この場には勇者と少女の二人きりだ。
少女はそっと勇者に近づいた。
勇者は立っているだけで必死だ。
その頬に少女の手が添えられる。
目を彼女から離せない。
「あなた、本当にそう思ってるの? 本当は思っているんでしょう。こんなことはしたくないって」
表門で出会った時、本当に悪いと思っているのかと問いかけたあの時と同じ声音で、少女は勇者へと問いかけた。
「欲望のままに望むなら、あなたは今、何をしたい?」
その確信をはらんだ声に、勇者の足場は一層ぐらぐらと揺れる。
「本当は助けてあげたいんでしょう」
きらきらと輝く琥珀の瞳をした美しい少女。
真っ直ぐと揺るぎないその姿勢、貫かれた考え方、他者の意見に依存しないその思想。
彼女の表情、仕草、話し方、その声、そのすべてが勇者を誘惑した。
耳元に息がかかるほどに近づいて、彼女はそっと囁く。
「ねぇ、わたしと一緒に悪いことをしよう」
そう言った微笑みは毒花のように蠱惑的で艶やかで、壮絶に美しかった。
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