55.素直じゃない星人
イヴの首に爪が立てられる。
「死ね!」
「お前がな!!」
男の頭が背後から現れた足に蹴飛ばされた。
急に呼吸が解放され肺の中に酸素が流れ込んできたことに驚いて、イヴは咳き込んだ。
若干爪にひっかかれてしまったのか、地味に喉もとが痛い。
憲兵の男が壁に顔面を打ち付けられうめいていたが、あまり気にならなかった。
そんなことよりも、イヴの視線は目の前に立つ人物に釘付けだった。
だってそこには、ずっと待っていた灰色の狼が立っていたのだから。
目が涙で潤むのを溢れないようにぐっと目を見開いて、イヴは気まずそうに立つその姿に笑いかけた。
「わあ、おじさん、やっと来てくれた! わたし信じてたわ! 今日もおひげがとってもチャーミングね!」
「なんでおまえは……、くそっ」
いつもと変わらない調子で抱きついたイヴに、ジルも若干泣きそうだ。
きっとジルの頭の中では何故なじられないのか、何故責められないのかと疑問でいっぱいに違いない。
「いいの」
戸惑うジルに、イヴは抱きついたまま言った。
「あなたが選んだことなら何をしたって、わたしはいいの」
馬鹿な人だとイヴは思う。
そのまま逃げてしまったって、別にイヴは良かったのだ。
だってそこまでしてイヴの都合に付き合う理由など、ジルにはどこにもないのだ。
きっとたくさん考えたんだろう。たくさん悩んだのだろう。イヴの知らないジルの過去に関わる葛藤だって、きっとあったのだ。
それでも来てくれた。
イヴに会いに来てくれた。
そんな気がしていた。だってジルはいつだってそうやってイヴのことを助けてくれた。馬鹿な人だった。
それだけでいいと思った。
それだけが大事で、それだけが欲しかった。
イヴのその感情には正義はなかった。
抱きついたまま離れないイヴを、ジルは無言で見下ろした。
おもむろに懐を漁ると何かを取り出す。
イヴのことを丁寧な仕草で自分の身体から引きはがし立たせると、逆に自身はひざまづいた。
イヴはきょとんとその姿を見下ろす。
それを見つめ返してジルは苦笑した。
「てめぇで買ったものでなくてわりいな」
そうしてイヴの首筋に手を伸ばすと、手に持っていた物をイヴの首元につけた。
しゃらん、と涼やかな音が鳴る。
それは金色の花のネックレスだった。
イヴの胸元でその花の中央に配されたムーンストーンがきらきらと輝く。
「商人からの貰い物だ。なんとなく、お前に似合いそうだと思ったら手に取っていた。まぁ、売れば路銀の足しにもなるしな」
イヴは商人からお礼に、と装飾品を譲り受けたことを思い出す。
あの時、ジルはイヴが目線で訴えても何を貰ったのかを教えてくれなかった。
目を見張り立ち尽くすイヴに、「俺と……」と言いかけてジルは言い淀む。
わずか逡巡したように視線を泳がせ、けれど最終的にはイヴへと目を戻した。
その目は泣きそうに潤んでいた。
「ずっと一緒にいてくれ。他の誰がいなくなっても、お前だけは変わらずにそばで笑っていてくれ。……情けなくてすまねぇ」
何を謝っているのか。
本当に馬鹿な人。
あんまりにジルが馬鹿なことを言うから、イヴは思わず笑ってしまう。
「本当なら、わたしがロマンチックなシチュエーションでロマンチックな言葉をあげるはずだったのに」
イヴのその言葉にジルの口元にも笑みが浮かんだ。
「プロポーズじゃねぇよ」
今はまだ。
消え入りそうな声でそうぼそりと付け加えるジルに、イヴはますます破顔した。
なるほど、確かに。本当に情けない。
その情けなさの、なんて愛おしいことだろう!
「大丈夫よ、ジル。わたしはあなた達がそばにいてくれればずっと笑っていられるわ」
イヴはわざと“あなた達”という言葉を強調して言った。
それは暗に、ちゃんとリオンは近くに居るんだろうな、という確認も含んでいた。
ジルはまた少し気まずそうな顔になったが、すぐに誤魔化すように顔をそらすと立ち上がった。
これは何かあったな、とイヴは察する。
リオンに何か、勢いで意地悪なことでもしてしまったのだろう。
けれどこうしてイヴを迎えに来たということは、きっともうちゃんと仲直りしたのだ。
ならばもうそれは当人同士の問題だ。イヴがわざわざ口を挟むようなことではない。
やれやれとため息を溢すイヴに、「いくぞ!」と乱暴にジルはその手を掴んだ。
その気まずそうな後ろ姿に、イヴは微笑む。
一度はイヴ達のことを置いて逃げてしまったが、こんな茶番は日常茶飯事だった。だってジルはとても素直じゃない、スナオジャナイ星人だからだ。