52.ジル
そうしてその日から、ギルフォード・レインはジルになった。
ジルには過去も金もつてもなく、……ついでにいえば仕事もなかった。
あるのはイヴとの生活だけだ。
そして、それは案外悪くない生活だった。
イヴはそこそこ知られた踊り子で歌手だった。昼間は路上で踊りながら歌を歌い、夜は酒場で歌を歌っていた。
どこでも何をしていてもイヴは美しい花だった。
「おじさん、あなたの頼もしい大黒柱のお帰りよ!」
たとえ、その態度や言葉がちょっとあれでもだ。
「おじさん、お仕事を持ってきたわよ!」
得体の知れない人間に仕事を任せるのはそれなりに危険性を伴う。
手を抜かれるかも知れない、金を騙し取られるかも知れない。
それもイヴを介せば任せる気持ちになる程度には周囲の信頼も厚かった。
そうしてジルは何でも屋のような仕事を手に入れた。
世間は魔王が倒されたことで活気づいてきてもいた。
仕事があれば、金もそれなりに手に入る。
金がある程度入れば、住む場所も手に入った。
「ずっとうちにいれば良いのに」
イヴはそう言って残念がったが、いつまでも年下の少女に甘えているのも気が引けた。
土地は買ったが、家は知り合いに手伝ってもらいながら自分で立てた。
そのころにはジルも周囲にある程度馴染んでいて、直接仕事をもらえるようになっていた。
ひとつひとつ、積み上げるように生活が出来上がってきていた。
「おじさん! 勇者様が凱旋パレードをなさるんですって! 見に行きましょう!!」
そう言ってイヴに手を引かれて走る町並みは、ジルが積み上げた年月と同じ分だけ豊かに賑やかになっていた。
拓けた視界に色とりどりの紙吹雪。
豪華な馬車の上からまだ年若い勇者が手を振っていた。
がらんとしていたイヴの部屋もそれなりに賑やかになり、最初から積まれていた勇者の伝記も魔王を倒したことで完結を迎えた。
――それは何かを成し遂げることも、武勇を誇ることもない生活だった。
周囲からは勇者を讃える歓声が上がる。
――それでも、それは一からジルが紛れもなく作り上げたものだった。
勇者のように物語に出来るような、名声も何もない。
「そういえばおじさん、正道は見つけられそう?」
帰り道でイヴが尋ねる。
「………ああ、そうだな」
正道がどんなものかなど、ギルフォードにはまだわからない。
けれど今の生活が、正道ではないはずがないとも思うのだ。
なんてことのない日常を積み重ねる。
それが正道でなくて、一体なんなのだ。
にこにこと笑ってジルの返事を待つ少女がいる。
「見つかったのかも知れね ぇな」
花のように笑う少女が居てくれれば、過去をすべて忘れてこの道から足を踏み外さずに生きていけるのではないか、そんな予感がした。