5.教皇と勇者
「お久しぶりですね、勇者殿」
会議後の回廊で、勇者は教皇に声をかけられた。振り返ると美しいほほえみをたたえた華人が窓から差し込む光に彩られて立っていた。
「全くですね、我々3人が一同にそろうなど、……なかなかない貴重な機会でした」
主におまえ達教皇と騎士団長の2人がそろわないせいでな、などとは言わずに勇者はさわやかな笑顔で返す。
教皇と騎士団長はいわゆる犬猿の仲だ。どのくらい仲が悪いかというと顔を合わせるたびに嫌みの応酬を行わなければ気が済まず、そうしてそもそも顔を合わせる機会を減らしたいがためにことあるごとに会議を欠席してサボる程度には仲が悪かった。
さすがに今回は国を通り越して世界の危機のためサボれなかったのだろうが、全くもって迷惑な話である。教皇と騎士団長が各々の言い訳で会議をサボるたびにしわ寄せがくる下っ端連中がどれほど走り回されることか。議会の決議一つにその場にいない当人のサインが必要になり、騎士団と教会を行ったり来たりさせられるのだからその苦労は忍ばれる。「申し訳ないわ、私も忙しいものだから……、皆さんにはさぞご迷惑をおかけしていることでしょう」
ちなみに欠席する回数は教皇が圧倒的に多い。彼女は女神への祈りの儀を言い訳にほとんど教会からは出てこないのだ。社会的地位の高い引きこもりにも困ったものである。
「いいえ、そのようなことは……、とても“重大で重要”なお役目でしょうから」
“重大で重要”、の部分を思わず強調してしまう勇者である。
しかし、精一杯の嫌みを「ええ、そうなのですよ。なにせ私にしか果たせない役割ですから」とさらりと躱されて不完全燃焼だ。いや、真に受けられて騒動に発展してしまっても困るのだが。
「それで、その“お忙しい教皇様”が一体僕に何用ですか。これから王命を果たすために僕は出動しなくてはならないのですが……」
さっさと立ち去ってしまいたい気持ちを隠しもせずに勇者が言うと「ええ、もちろん、そのことについてです」と教皇は柔らかく微笑んだ。
「くれぐれも、魔王の子に情けなどはかけられませぬよう」
その声音と笑っていない瞳にぎくり、とする。
空気が一瞬でぴん、と音を立てて張り詰めた心地がした。
「一体、何を……」
「いえ、先ほど見逃してやれば良いのでは、とおっしゃっていらっしゃったものですから……。まさかとは思いますが、万が一にもわざと取り逃すなどはなさらないかと心配になりまして……」
「まさか……」
「ええ、まさか、です。むろん私も本気でそう考えているわけではございませんよ。あくまでも、万が一、の忠告です」
す、と静かにいつも微笑みに細められている教皇の瞳が開く。
美しい月のような銀色の瞳が木漏れ日の暖かさとはうらはらに、ひんやりと凍っていた。
「『魔王の子』は罪悪です」
断じる声は重力を伴って、勇者の肩にのしかかってくる。
「この世で唯一の生まれながらの悪。――女神様の敵であり、すべての争いの源は絶たなくてはいけません」
「……、彼はまだ、何も罪を犯していないではありませんか」
「いいえ、犯しています。正確に言うのなら、今、犯し始めている」
彼女は女傑だった。この国で最も高潔な機関である教会の最頂点。貴族の身でありながら神に仕えるために幼くして教会へと預けられ、それからはずっと教会内部で育ち、敬虔に信奉を続けてきた生粋の純粋培養の女神信者だ。
彼女の身体には重ねた人生の年月分、女神への信仰心といわゆる“善意”が濃縮されて詰まっていた。
「現に今、彼はこの騒動を起こしています。今回の一件は彼が存在しなくては起こりえなかったこと。この騒動はあらゆる人間を巻き込んだ事態へと発展し、彼はありとあらゆる人に争いの種を植え付けることになる。取り返しのつかない事態になる前に、早々に収めなくてはなりません」
「それが、……彼自身の罪だと?」
「彼自身に悪意がなくとも、争いを起こす火種であることに間違いはない。悪意がない悪行ほど恐ろしいものはありません」
それはとても真っ直ぐで一切の惑いを含まない声音だった。
本当に心の底からの言葉なのだ。
彼女の信仰は本物だ。
本物の信仰を持った彼女の言葉は、だからとても正しく聞こえた。
「彼は永遠に外にでるべきではないのです」
「……、貴方と僕の思想がどうであれ、王命を破るほど僕は愚かではありませんよ」
「そうですね、貴方は優秀で賢明なお方。誰かの期待を裏切ることなどはできないでしょう」
しかしそうして言葉にしていただけてとても安心いたしました、と穏やかに微笑む教皇に、勇者の頬には暑くもないのに汗がつたい落ちた。
むしろ、体は芯から冷えて寒いくらいだ。
「それにしても、今日はお会いできて本当に良かったわ、騎士団長にも久方ぶりにお会いできましたし……」
ころり、と口調と空気を一転させて、教皇は手を合わせて言った。
急に変わった空気の温度に、勇者はほっと息をつく。
やっと落ち着いて呼吸ができる、そんな気持ちだった。
「ははは、それは一体なんの嫌みですか」
「本当よ。私、騎士団長のお人柄は大っ嫌いだけれど」
彼女はにこり、と年齢に見合わぬ可愛らしい笑顔を浮かべた。
「彼の容姿はとっても好みなのよ」
そんなことくっそどうでもいいわ、そう吐き捨てたいのを勇者はぐっとこらえた。