48.幸福なうさぎ
それも今はもう昔の話だ。
イヴはもう、母の言うことを聞いていた素直な子どもではきっとない。
「『正義』と『正しいこと』って違うわよねぇ……」
つぶやきは冷たい床に凍えて落ちる。
「ねぇ、あなたもそうは思わない?」
イヴがそう尋ねた先には人影があった。
その人物は慌てず騒がず、ゆっくりとした歩みでイヴと同じ月の光の中へと姿を現した。
「『正義』というのは人間の間で共有される理想的な価値観であり、『正しさ』とは誤りがないことやきちんと整っているという現象を指す言葉です。そういう意味では確かに異なる概念でしょう」
告げる声は涼やかで優しい。
「しかし、会話の上では大した違いではありません。誰も明確な区別をつけて話していない状況下ならば、との注釈はつきますが」
そう言って現れた人物を見てイヴは大きく一つ頷いた。
「嫌いじゃないわ、ロップイヤー」
「ありがとうございます」
教会の所属であることを表す白いローブに、その中でも高位であることを示す金色の刺繍。教皇しか身につけることを許されぬ、琥珀色の女神の瞳の首飾り。
銀色の髪を美しく結い上げ、長く白いウサギ耳をその頭からたれ下げた初老の女性がそこには凜と立 っていた。
うふふ、と微笑む様はとても愛嬌があって大変可愛らしい。
歴代でもトップレベルの魔法の使い手であり、永続年数を日々新記録で塗り替えていく百年に1人の逸材といわれる今代の教皇、エリザベス・ローランドは何を隠そう、ウサギの獣人であった。
「はじめまして、可愛らしいお嬢さん。私はエリザベス・ローランド。エリーでもリジーでもベスでも、どうぞお好きなようにお呼びになって」
「はじめまして、エリー様。わたしはイヴ。姓はないわ。それ以外に呼ばれたい名前はないから、どうかイヴって呼んでちょうだい」
牢屋の鉄格子越しに二人はにっこりと微笑み合う。
昼間いた看守は随分と前に姿をくらませていて、そこには小さな椅子しかなかった。
「ここに掛けても?」と上品に尋ねる教皇に、イヴは「どうぞ」と微笑むと
「エリー様はこんな時間にこんなところへ何のご用事? 忙しくないの?」と問いかけた。
「ええ、もちろん私は忙しいわ。けれどその忙しさの中でも一番の重要事項を果たしにきたの」
「重要事項?」
「ええ、告解を受けに」
にっこりと、ウサギ耳の銀の瞳が細められる。
「あなたの罪を、許しに参りました」
地べたに座るイヴは、椅子に腰掛けた教皇を必然的に見上げることになった。
「女神の神話はご存じですか」
教皇は、そう口火を切った。
「かつて我々人類は弱者でした。獣にはなんとか火と道具を手に打ち勝つことが出来ましたが、魔物とその頂点に君臨する魔王には敵わず、不遇の時代を過ごしたのです」
その声は朗々としてよどみない。
「しかし、女神は我々人類を見捨てませんでした。女神は力のない我々人類を哀れんで、魔法という力を授けられたのです。そうして人類は魔王を倒し、生きる力を得たのです」
「知っているわ、わたしも信徒だもの」
この国の、否、女神信仰を行っている国の人間ならば誰もが知っている。有名な神話だ
「けれどわからないわ。ねぇ、エリー様、少し質問があるの、良いかしら?」
「ええ、もちろん。教会の門戸はすべての人に開かれています。教義の理解を促し、真理を説くのも立派なお務めです」
「女神様は慈悲深いお方だわ。けれどどうして女神様は魔王を助けてはくれないの? みんなによってたかって傷つけられる魔王は可哀想ではないのかしら」
神話の魔王は孤立無援だ。
もちろん魔物は魔王の仲間だ。
しかしそれ以外のすべての生き物。人間も、他の動物も、そして女神も。
皆々敵なのだ。
それはひどい事ではないのだろうか。
イヴのその質問に、教皇はしたりと頷いた。
その態度は堂々としていて揺るぎない。
「確かにこのお話だけを聞くと、一見魔王が可哀想に思えるかも知れません。しかしこのお話には前のお話があり、そこで魔王はとてもひどい凶行を行い、人間だけではなくすべての動植物に被害を与えるのです。魔王は多くを傷つけすぎました。争いを起こす者を女神は救いません」
「じゃあ人間もいつか殺されてしまうのかしら」
イヴは首をかしげる。
「人間は争ってばかりだわ」
「ええ、その通り」
それに教皇は深く頷いた。
絶対的な確信が、その口調にはあった。
「今は猶予期間なのです。神は人間が本当に悪い生き物なのか、見定めようとなさっています。今、人類は岐路に立たされています。争いを止めなければ、いずれ貴方のおっしゃるように女神に見放されてしまうでしょう」
彼女は目をつらそうに伏せると、両手を胸の前で組んで祈る姿勢を捧げた。
おそらく何年も毎日のように同じ姿勢で、同じ祈りを捧げてきたのであろうその彼女の祈りは非常に整っていて、費やした年月分の清廉さと重みを感じ取ることができた。
「貴方にも、選択の時が迫っています」
伏せていた目線を上げて、教皇の瞳がひたりとイヴのことを見据える。
「今すぐに改心し、このたびの争いを収めるために魔王の子の保護を願い出るのならば、神は貴方のその意思を受け入れこれまでの過ちを許すでしょう」
彼女はその鋼のように冷たい瞳を細める。
「むろん、貴方には教会に勤めてもらうなり生涯罪を悔い改め、贖罪のための奉仕をしてもらう必要があります」
そう話す声は穏やかだが強い力をもっていた。
「しかし、我を押し通し争いを続けるというのならば、貴方には天罰が下ることになる」
教皇は椅子から立ち上がるとイヴと同じように床に腰をつけ、イヴの手をぎゅっと握った。
二人の目と目がしっかりと絡み合う。
「改めるならば、今です」
それは懇願であり、脅迫であり、救いたいという善意であり、自らの信じるものを唱える布教でもあった。
イヴは、目の前の人の目を真っ直ぐに見つめる。
それは鏡のようだった。
過去の自分が目の前にいる。そんな錯覚をイヴは覚える。
自分も、こんなにも真っ直ぐで迷いのない目をしていたのだろうか。
リオンを連れ出した時、ジルを巻き込んだ時、盗賊を捕らえた時には。
今のイヴにはもう、これほどまでに歪みも戸惑いもなく、自分の中の正義を信じ抜くことは出来なかった。
彼女の言葉も信念も揺るぎなく、とても美しくきらきらと輝いていた。
だからその彼女の唱える正義もとても美しく輝いて見えた。
とても眩しい。
しかしそれならば、
「じゃあ、あなたも止めたらいいのに」
ぽつり、とその言葉はイヴの唇から自然と溢れた。
「あなたも争うのを止めたらいいのに」
「………何を?」
その言葉に一体何を言っているのかと教皇はきょとんと見つめ返す。
イヴは揺らぎも迷いもある瞳を、けれどしっかりとその瞳に合わせた。
「わたし達は誰とも戦ってなんていないわ。逃げているだけよ」
初めてリオンと出会ってからこれまで。その道中のいずれでも。
「戦いたいのはずっと、あなたたちのほうだわ」
イヴやジル、ましてやリオンから手を上げたことなどただの一度もないのだ。
手を上げられても、いつだって逃げることに執心してきた。国賊だと言われても、イヴには最初から相手を打ち負かして勝ちどきを上げようなどという気はみじんもなかったのだ。
最初から、それこそこれが悪い事だとはっきりと認識する前から、逃げてうやむやに誤魔化してやろうという気しかイヴにはなかった。
だから憲兵達からリオンを抱えて逃げ出した。だから逃げるためにジルを頼った。だから相手の動きは止めても、その後に危害を加えたりはしなかった。
戦えるほどの武力がなかったんだろう、と言われれば、それはごもっともだ。
しかし、たらればにはなってしまうが、武力があったところで戦うつもりなど、きっとイヴにもリオンにも、――ジルにもなかった。
「きっかけを作ったのは確かにわたし達かもしれないわ。でもわたし達からはけして争いを仕掛けたりなどしていないし、わたし達は心の底から真に、平和を希求しているわ」
火種を蒔いたイヴと、そこに油を注いだ国家と。
「これは一体、どちらが争いを起こしていることになるのかしら」
教皇は息を飲む。
そんなのは貴方達に決まっている。その一言を告げることができなかった。
喉が張り付いたようにひりついて、言いたいことはたくさんあるのに声が出ない。
教皇は争いを望んでなどはいない。それははっきりと断言できる。
本当に心の底から平和を望んでいる。
しかし争いとはどちらか一方だけでは成立しないのだ。
争う他者との協力作業によって発生し、存続するものだ。
喧嘩は一人では出来ないし、続けられない。
“始めた”のは目の前の栗色の髪の少女だ。けれどならば、――“続けている”のは一体、誰だろうか。
彼女達を“改めさせる”ことでしか、この争いは終わらないと思っていた。
しかしそれは、その考え方では、まるで………。
問いかけるイヴの瞳は降り注ぐ月明かりを反射して、その琥珀色はまるで星が瞬くようだった。
「女神様は一体、どちらに罰を下されるのかしら」
つぶやかれた言葉は重く、地面に音を立てて落ちた。
*
イヴは正義を貫くことは良いことだと思っていた。
けれど誰かのことを傷つけ振り回し、争いを生んで、それでもなお貫くべきものが本当に良いものなのか。
誰かの正義を揺るがしてまで、貫くことが正しいのか。
これはただの『正しいことをしたいという欲望』なのではないか。
イヴにはそう思えてならなかった。