45.ギルフォード・レイン
ジルは降りしきる雨の滴の隙間から、イヴが地面に叩きつけられる姿が見えた。
何事かと家の中から出てきて野次馬をする平和ぼけした人々が歓声を上げる。
その群れに紛れながら、まるで美しい野の花が靴に踏みにじられたかのような姿だと思った。
ここにいるすべての人間が、この目の前の花を見捨てている。
その中にはジル自身のことも含まれていた。
しおれた花を摘まむようにイヴの華奢な体が憲兵達に引き上げられるのを、ジルは最後までは見ずにきびすを返した。
背負った荷物は片手で持つに足りる程度の物にしか過ぎないのに、なぜだかいつもよりも重く感じた。
ギルフォード・レインは裕福な人間ではなかった。
母はいわゆる娼婦というやつで、父親が客のうちの一体誰なのかすら判然とはしなかった。母は色事に奔放だった。息子のことをそれなりに可愛がったが、男の気を引くことのほうにより神経を注ぐ人間で、食事を忘れられることもしばしばあった。
幼いうちはごみを漁って食べていた。しかし体が成長して自らの身体能力を知り、魔法が使えるようになるにつれ、狩りで獣や魚を捕ったほうが新鮮で美味しいものが食べられることを知った。
そうして14の時に転機が訪れる。
たまたま町はずれの林にまで足を伸ばし、食べ物を取ろうとしていたところで、ある商団が魔物に襲われている所に居合わせたのだ。
あっさりと魔物を一人で倒してみせたギルフォードに、その商団の護衛についていた者が騎士団につてがあると推薦してくれた。
こうして平民以下の存在であったギルフォードは帝都に移り住み、誉れ高い騎士の仲間入りを果たすことになる。
そこから先はその実力でとんとん拍子に出世を重ね、ギルフォードの人生は登り調子であった。
――母が、やっかいな盗賊の男に囚われるまでは。
「あんた、馬鹿だねぇ……。あたしのことなんて捨てっちまえば良かったのに」
母親の命が惜しければ、城内に入るための手引きをしろ。
そういう盗賊の男の取引に従ったギルフォードに、囚われた母親は笑って言った。
「……それができりゃあ、ここにはいねぇよ」
本当に馬鹿だねぇ、と笑う母親は、随分と小さくて痩せた体をしているのだということに気がついた。
豊満だった胸はやせ、頬のはりはなく、どんなに化粧をしてもごまかせぬ老いがにじみ出ていた。
「おい、ぼさっとしてねぇで運び出すの手伝えよ」
「約束は城内に入る手引きだけのはずだ」
「おいおいおい、何言ってんだ。おまえ、もう俺たちと一緒だろ」
にやり、と男は歯の抜けた口でいやらしく笑んだ。
「これからもよろしく頼むぜ、兄弟」
おそらく一度で済むことではないだろうと想定していたギルフォードの思うとおりに、男は何度もギルフォードの協力を求めた。
そうして、こんな稚拙な手がいつまでも通用するわけがないという想定の通りに案の定、ギルフォードの悪事は明るみにでた。
居場所のなくなったギルフォードを盗賊団は手放したがらなかった。
ギルフォードには力があった、知恵があった、経験で培った技術があった。
おおよその騎士達や用心棒、盗賊などは相手にもならなかった。
母は相変わらず囚われの身で、ギルフォードが無理矢理力尽くで連れ出さぬようにと、ある魔法がかけられていた。
魔法の持ち主と一定以上離れると爆発する魔法だ。
母とはいつでも会うことができたが、連れ出すことだけはできなかった。
そのうちなんとなく盗賊団の連中とは馴れ合うような関係になった。
連中は岩場にひっそりと隠れ里を作り、盗賊団がまるまる家族のような村のような、そんな集合体だった。
か弱い年寄りや女子どももいて、ギルフォードの怒りや憎しみはそう長くは続かなかった。
何より娼婦をしていた母がその集落に馴染んでいる姿を見ると、ギルフォードの中にある強い感情が穏やかになるようだった。
もちろん、何もかもを捨てて逃げ出したいという感情は決して消えることはなく、いつまでもくすぶり続けた。
それは強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、いつまでもギルフォードの心のうちで燃え続け、しかし母の姿を見ると溢れ出すことなく心の内に収まってしまった。
だが、その穏やかだが危うい均衡が保たれた日々も終わりを迎える。
ギルフォードの母が死んだ。
もう結構ないい歳だった。元々娼婦なこともありあまり健全な生活を送っていなかった。体を酷使することもままあった。
「馬鹿だねぇ、ギルフォード。おまえは馬鹿だ」
床に伏せった母親は、いつもそうするようにギルフォードをそう言ってなじった。
それはもう母の口癖のようなもので、言葉はなじっていたが話し口調はいつも諭すように優しかった。
「おまえ、あたしみたいなどうしようもない人間のために大切な人生を棒に振って……本当の馬鹿だよ」
「うるせぇよ」
そしてまた常であるように、ギルフォードは母のその言葉を聞かなかった。
「見捨てられりゃあ、ここにはいねぇよ」
母親は目を細める。
わずかな仕草や吐息から、命がこぼれ落ちていくかのようだった。
「おまえ、こんなとこにいちゃいけないよ」
母は言う。
「あたしが死んだら、連中、おまえを今度は嫁でも取らして捕まえとこうと考えてる。実際あたしが弱ってからその手の誘いがすごいだろう。けどね、ギルフォード。おまえ、いけないよ。こんなところにいちゃいけない」
あたしのように、みじめになっちゃいけないよ。そういって母は涙をこぼした。
ギルフォードは母が泣くところを、生まれて初めて見た。
母はろくでもない女だった。男にすがらないと生きていけない女だった。息子を一番には出来ない女だった。愚かで我が儘な女だった。
母は強い女だった。社会の底辺にいても自らの体を武器にして生き抜いてきた女だった。息子に日々の糧を分け与えることのできる女だった。気丈で自らの弱みをさらさない女だった。
哀れまれるくらいなら馬鹿で我が儘なふりをするような女だった。
「おまえは正道をいきなさい。誰にも馬鹿にされない、立派な道をいきなさい。それに足る能力とまともな性根がおまえにはあるんだから」
それが本当は母の歩みたい道だったのだと、ギルフォードは初めて知った。
「あたしが死んだら、連中はきっとおまえを逃がすまいと目を光らせる。それじゃあ遅すぎる。だからギルフォード。あたしが生きているうちに行きなさい」
あたしを置いて逃げなさい。妙な呪いをかけられる前に。
どうしたらよいのかわからなかった。正道などどこにあるのかも知らなかった。立派な道になど、到底たどり着けるとは思えなかった。
「筋力増強」
けれどギルフォードは駆けだした。
脅迫をしてくる盗賊の男も、多少なれ合った連中も、盗賊に捕らわれてギルフォードの成功を邪魔した母の存在も、その母の勝手な願いも。
いつまでも何も選べない自分自身も。
もう、何もかもが嫌だった。