3.第一級保護生物、魔王
「おいおいおい、なんつーもんを連れてきてくれたんだ、おまえは」
イヴを迎え入れたジルは、険しい顔をしてそう告げた。
灰色の毛並みに不機嫌そうにピンと立つ狼の耳、しっぽも随分と毛羽立って、いらいらとわずかに揺れている。紫色の眼がじろり、とイヴのことをにらんだ。
しかしそんな顔をされたって、ちっとも痛くもかゆくもないのだ。
「道に落ちていたわ」
「落ちてるわけねぇだろ、馬鹿か!」
ひっぱたかれた頭が痛い。おかげで髪の毛が乱れてしまった。いや、全力疾走した時点ですでに乱れてはいたのだが、なんかあれだ、気分の問題だ。
入室後、迫ってくる憲兵達のせいで当然腰を落ち着ける暇もなく、イヴ達はすぐさま地下につづく通路を開いた。これは隠し通路でこの家の設計図を取り寄せてもどこにも記載されておらず、地下に続く扉を閉じてしまえばその入り口は床に接着された金庫の中であるため、よくよく金庫の中を調べない限りは気づかれない。
なんでこんなものがあるのかと言えば、それはジルの性質としか言い様がない。
ジルは常に逃げ道を用意して歩いているような所のある男だった。イヴはそのことを少し気に掛けていたが、深く突っ込んだことはなかった。踏み込まれたくないのだろうということを、察していたからだ。
頭上ではわずかだが人が歩いている気配がする。今頃ジルの家は大量の憲兵に踏み荒らされていることだろう。
可能な限りは巻いてきたつもりだが、まあ実らない努力も世の中にはあるのだ。大目に見てもらいたい。
そうして地下室まで降りてきて、さて一息ついて息を整えよう、という時にイヴの懐に抱えていた布の塊から覗いたモノを見て、ジルは顔を一気に青ざめさせたのだった。
それは小さな子どもだった。
くりくりと巻いた茶色の短い癖毛にバラ色の頬、こぼれ落ちそうに大きな瞳はぶどうのように深いワインレッドだ。
とても愛らしい子どもだ。おそらくその子を見た人間の十人が十人、口元をほころばせて笑みを浮かべてしまうだろう愛くるしさだった。
もっともそれはその茶色の頭部から覗く『一対の虹色に輝く角』さえなければ、の話だが。
「それは第一級保護生物のはずだ! 教会で厳重に管理されてるんだよ!」
「ふんふん、だいいっきゅう、ほごせいぶつ」
「なんで知らねぇんだよ! ていうか盗んできたのか!!」
「盗んでないわ。わたしの歩いている道に落ちてたから拾ってきたの」
「どこを歩いてたんだよ! 立ち入り禁止区域にしかいねぇはずだぞ、そいつ!」
「立ち入り禁止区域になんて入ってないわ。ふつうの道よ」
「……参考までに聞くが、具体的にはどんな場所だ」
イヴはんー、と斜め上を見上げて首をかしげてみせた。
(どんな道と言われても……)
「そうねぇ、床が真っ白くて、壁も真っ白くて、頭上にきらきらした飾りがあって、色のついたガラスがはめてあったわ」
「ものすごい教会内部じゃねぇか、ふざけんな!」
「どこにも立ち入り禁止なんて書いてなかったわ!」
「普通は入る前に止められるんだよ、どうやって入った!」
「窓からよ!」
「なんで窓から入るんだよ!」
はぁー……と長い長い息を吐いて、ジルは頭を抱え込んだ。その様子にほんの少しかわいそうに思って指でつついてみるが、うなだれた獣人は顔を上げない。ただの考える人のようだ。
イヴは五年前この世界に来てしまった際に教会の炊き出しに助けられたこともあって、そこそこ熱心な信者だ。だから今日もいつもと同じように神父の説教を聞きに行った。その帰り道に一般の信者が通る道とは別に開いている窓が見えたから入ってみただけだ。
あんなに目につく場所の窓を開けておくほうが悪い。まるで入ってくださいとでも言っているかのようだった。――と言ったらジルが怒ること請け合いのため、そんなことは言わない。イヴは慎み深いのである。
そんな二人のやりとりを少女の懐に抱えられたままの第一級保護生物はどこか遠いものを見るように、ぼう、と見つめていた。
イヴが目を向けるとこてん、と首を傾ける。
(あ、かわい)
イヴはそのふわふわの髪の毛をよしよしとなでてあげた。
とたんにびっくりした顔で見上げられて、びっくりする。
一体何をそんなに驚いているのだろう。
「ねぇ、あなた、お名前なんていうの?」
「……リオン」
「そう、とっても素敵な名前ね、わたしはイヴっていうの」
リオンを布から出して床へと立たせる。イヴの腰辺りまでしかないリオンの体はがりがりと不健康にやせ細っていた。
「リオンはわたしの所と教会と、どっちに居たい?」
リオンの瞳が軽く見開かれる。ただでさえ大きい瞳がさらに大きくなって見えて、本当にこぼれ落ちてしまうのではないかと心配になった。
そっと頬に触れるイヴの手に、リオンはやけどでも負ったかのように大げさに首をすくめた。しかし、しばらくそのままでいると痛いものではないと気づいたのか、おずおずとイヴの手に自らの手を重ねる。
「……おねぇちゃんと一緒がいい」
「ほらね!」
イヴの手に頬をすり寄せたリオンに、イヴは誇らしげにジルのことを振り返ってみせた。
本人がイヴと一緒がいいと望んでいるのだ、これ以上に一緒にいることの正当性がこの世に存在するというのだろうか、いや、きっとないに違いない。
言葉には出さずともイヴのその無言の主張が通じたのか、ジルはうんざりとため息をついた。
「元の場所に戻してこい」
「だって、道に落ちてたわ」
そう、この子は道に落ちていた。誰に手をさしのべられるでもなく、誰もそばにはいなかった。
「いいじゃない。わたし、最後までちゃんと面倒みれるわ」
「ペットかなにかか、そいつは……」
いいか、落ち着いて良く聞け、とジルは幼い子どもに言い聞かせるようにイヴに言った。
「そいつは魔王の子だ」
「……ふんふん、まおうのこ」
「反応が薄い!」
かつて人類は魔王によって何度も滅ぼされかけた。
魔王とは魔物を自在に操り、支配できる能力を持って生まれた個体のことである。それは、魔獣であることもあれば、植物であることもあり、人間であることもあった。共通しているのは、魔王には必ず虹色の角が生えているという点だ。
魔物は普段単体であれば人間にとってさほど脅威ではない。しかし、
統率を取る者がいれば、それは別の話である。
魔王、と呼ばれる個体はかつて何度も誕生し、そのたびに大きな災いを人にもたらした。
否、人以外にも災いをもたらしたのだが、人の文化の形態上、他の生物よりも被害が甚大になってしまったのである。
今から七年前、発生した魔王は獣だった。その能力を持って人間の領土の実に三分の一は魔物によって奪われてしまったのである。もっとも、それはその三年後、つまり今から四年前に勇者によって魔王が討伐されるまでの間の話だが。
「魔王が倒されて一年後、つまり、今から三年前に発見された魔王がそいつだ。魔王と呼ぶにはあまりに幼かったんで、ついたあだ名が“魔王の子”」
つまりそいつは世界を危機に陥れるかもしれねぇ、災厄の種だ。その唇から吐かれた言葉は重々しかった。
イヴはじっと、黙ってジルの説明を聞き届けると、ふぅ、と憂鬱そうな息をついた。
「お風呂入りたい」
「話を聞け!」
「だってつまんないんだもん」
「だもん、じゃねぇよ。大事な話なんだよ! これは!」
親切に説明してくれたジルには悪いが、イヴだって当然、そんなことは知っている。
イヴは今大好評で発売されている勇者の伝記の大ファンだ。それは勇者がまだ魔王を倒す前から国民や兵士達の士気を高め、鼓舞する目的で発売されていたもので、突然イヴも魔王が倒される前から愛読している。そして今から四年前、イヴが異世界に来て一年後に勇者が魔王討伐の達成したことにより、史実に基づいて大団円を迎えた、実に第465話まで続いたベストセラーである。そこには当然、魔王がなんであるか、どういう存在であるかが詳細に語られていた。
魔王が何であるかなど、知らなかったとしたらそいつはモグリである。勇者のファンの名折れだ。大恥だ。
だから今、イヴが知りたいのはそんなことではないのだ。
「わたしが今知りたいのは、この子がどんなに『大変な存在か』なんてそんなことじゃないわ」
ひたり、と見据えるイヴの琥珀の瞳はきらきらと星を吸い込んで瞬くようだった。
「どうしたらこの子が『幸せに生きられるか』、よ」
ぐ、とジルは言葉につまる。
イヴの言いたいことがわからないわけではない。ジルは女神信仰に熱心ではないから教会には近づかないが、それでも教会に『保護』された魔王の子の待遇が一体どれほどのものであったのかなど想像に難くなかった。
しかし。
しかし、である。そんなことは――
「不可能じゃないわ。ねぇ、ジル」
イヴはいつだって真剣な時ばかり、ジルの事を「おじさん」ではなく名前で呼んだ。そうすればジルがイヴのお願いから逃れられないことを経験則で知っているからだ。
なぜジルがお願いを聞いてくれるのか、その理由まではイヴにはわからないけれど。
「お願いよ、ジル。どうかこの子と……」
イヴは真っ直ぐにジルのことを見つめた。
「わたしと一緒に、“ここ”から逃げて」
「……う」
たじろぐようにジルがうめく。
この異世界でイヴが頼れる相手は、この少し無愛想でしかし実のところイヴにたいそう甘ったるい、灰色の獣人しかいないのだ。