変化の始まり
「すぐに対応できるはずのことだったのに。一週間もお前に苦痛を我慢させてしまった」
「いいえ、お父さま」
「手袋を外してくれ。…ああ、私の作品に…なんてことを…」
シャヘルはぎりぎりと歯噛みをしながら、長手袋を外したアリス・レッドベリルの腕を優しく撫でた。赤く腫れあがっていたその腕は一週間放置された結果、紫色へ変色している。
「治りますかしら?」
「ああ…先ほど、第二王子から仮契約鍵の取り出し許可が出た。一週間もこちらのメッセージを放置するとは…お前を軽んじているのか。あっちがレッドを復讐の道具に選んだというのに、この仕打ち!」
「お父さま…」
アリス・レッドベリルの球体関節を反転させ、術式を打ち込んで仮契約鍵を強制的に取り出す。これで、アリス・レッドベリルとイリスカルン第二王子の仮契約も解除された。
「あとは、お前の自己修復で治せるだろう」
「ありがとうございます。ですが、イリスカルンさまとの仮契約は…」
「その都度結び直すしかない。それに、前線に第二王子を出すことは、国王陛下も望んでおられない。レッド、お前の腕を犠牲にすることと、あの王子の復讐心は等価値ではないよ。私にとってはな」
「…はい」
アリス・レッドベリルから取り出した仮契約鍵を、シャヘルは彼女の目の前で金槌によって叩き壊した。魔力の失われた鍵はこうして簡単に壊すことができる。
「しばらく休んでおきなさい。お前のその腕が無くなることは私の技術を受け継ぐ者の一人が失われることを意味する。それを、あの第二王子にも教えてやらねばなるまい」
「はい、お父さま…」
アリス・レッドベリルは長手袋をはめ直すと、シャヘルの作業部屋兼執務室から出て行った。
あとに残っていたのは、執拗に仮契約鍵を金槌で崩し続けるシャヘルだけだった。
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バレットの強烈な個性と、フランケルにまつわる話に、しばらくピルケースを眺めたまま虚脱状態になっていたカルセドニーだったが、現在、この『鹿の大聖堂』に出現している赤夜光の存在を思い出してハッと顔を上げてバレットに問いかけた。
「ところで、今回の赤夜光のターゲットは誰?」
「ああ。そうでしたね。この『鹿の大聖堂』で確認された赤夜光は、1体。残念ながら、ターゲット特定には至っておりません。うちの結界に侵入されたことで気が付いたので」
「てことは、まだターゲットを絞っていない…?」
「おそらく。そこで、ですね。私か弟が囮になろうと考えていたところなのですよ。この大聖堂で事情を知っているのは、私たち姉弟だけなので」
「ん?そういえば、普通に無視しちゃったけど、どうして二人は『赤夜光』のことを知っていたの?」
「それはですねぇ。フランケルの身の危険が本格化してきた頃に、あの子、『赤夜光』に魅入られまして。それを助けてくださったのが『星見人の百合』の皆さんだったんです。元々フリデリケさまと御縁もありましたし、その流れで『鹿の大聖堂』の前上層部の摘発を依頼したんです」
「そういうことかー」
カルセドニーは合点のいった表情で頷く。それから、ちらりと兄とにこやかに話しているフランケルのほうを見やった。
ジェットは感じ取れていないのだろうが、フランケルの笑みはどこか作られたもののように思える。
「弟が何か?」
「んー。なんというか、『赤夜光』に魅入られるような弱メンタルって感じしないよね。あの子」
「あら、お気づきですか!」
バレットはフランケルと似たような笑い方をして言った。
「ん?」
「属性を書き換える前のあの子なら、あんなに毒々しい完璧な笑い方はしなかったですからね。あの違和感に気付けるのは、BL補正がかからない人だけですもの」
少しだけ、バレットの表情が曇る。それを見たカルセドニーは、彼女の抱えている何かに触れたような気がした。
おそらく、その何かは彼女の一生を左右するほどのもので、それに似たものはカルセドニーもまた知っていた。
「…君…」
「はい?」
「弟の属性書き換えたこと、後悔してるんだ?」
「…ええ。フランケルの在り方を、私はきっと歪めてしまいましたから…」
丸い眼鏡の奥で、バレットは菫色の瞳を陰らせた。
そんな一人と一体を見たフリデリケは、ハーゼと共に先に『赤夜光』の偵察をしに行こうとした。
だが、フリデリケとハーゼは、今いる『鹿の大聖堂』の最奥部へ近寄ってくる『赤夜光』の気配を感じ取り、身構える。
「ハーゼ、この気配…」
「こいつ、いつもの『赤夜光』とは違う…質量が重い…」
「ちっ。おい!!ジェット!!カルセドニー!!お出ましだぞ!!」
ゾッとしたものを感じたフリデリケは、ジェットの複製鍵を反転した球体関節へ迷うことなく差し込んだ。
それと同時に…
ぎぃいいいいいい…
大聖堂最奥の部屋の重い扉が開かれる。
「!んん??…ジェットのそっくりさんか??」
「違う。あれが噂の『オリジナル』って奴だろう」
扉を開いたのは、ジェットによく似た赤く透明な質感の異形だった。
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その日の『三つ首塔』の一室は、いつものように気だるい空気の中から始まった。暑い外気とは裏腹に、宿に魔石で巡らせた冷気が心地よい温度を保っているにもかかわらず、彼らのいる部屋は、どこかねっとりとした雰囲気が漂っている。
白いシーツの中で絡み合った筋肉質な体躯と細く薄い体躯が、同じようなタイミングで動き出した。
「んー…リディちゃん…」
「…ん。今何時くらいでしょう…」
この一週間ほどで、二人の少々爛れた生活は定着してしまっていた。
ミスティラポロの本職である情報屋の仕事や、『赤夜光』退治の仕事はきちんとこなしているが、それ以外の日常生活が、だ。
ペリドットはここ一週間、ミスティラポロの半径1メートルから離れた覚えがない。また、離された覚えもない。あの三年間、『見守られていた』という感覚の延長線のように、この子はミスティラポロにその身で守られている実感を得ていた。
「日はそんな高くないから、まだ朝じゃね?」
「アバウトですね…」
窓の外の光の具合で大まかな時間帯を言い当てようとするミスティラポロに、ペリドットは苦笑いした。
一週間、ずっとこの調子だ。
一人と一体で外へ行き仕事をし、また、ヘリオドールやジャスパーたちと鍛錬や会議をしている以外は、こうして『三つ首塔』でベッドの中で体を絡ませ合うような状態で、極端な話、シャワーやトイレですら一緒だ。それが面倒だとか嫌だとか感じる暇もなく、なし崩しにいつの間にかそれが当たり前だった。
四六時中そんな生活なものだから、箱入りで育てられていたはずのペリドットは、すっかりと彼に馴染んできてしまった。
足が伸ばせる風呂よりも、ミスティラポロとシャワー室に入って全身を洗ってもらうことのほうが幸せになっている。
困った変わりようだとは思うが、嫌悪感は一切無い。
これまでの中で、一番、満たされている。