何もないこと
(頭痛…しなくなった…)
キューブを持ったペリドットは工房へ戻ってきた。玄関に転送してきたこの子は、小さく息を吐いた。
髪にはミスティラポロから撫でられた感触が残っているような気がする。そっと触れると、顔が緩んでしまいそうになる。
(優しい手…あったかい手…痛いことをしないでいてくれる手…ボクを気持ちよくしてくれる手…)
この感覚が何なのかわからない。ただ、もうすっかりと染み渡ったこの感覚を手放したくはない。
この感覚の正体を知りたくて、勉強に使用していた世界樹の一部で幾度か情報を検索したことがある。世界樹が教えてくれた情報はすべて、この子の頬を真っ赤に染めるには充分すぎるものばかりだった。
ペリドットにとって『後戻りできないようなこと』はしていないということは理解できたが、それに近いことをミスティラポロとしていることは間違いなかった。
それは多分、父であるシャヘルは嫌悪するだろう。対して、ペリドットにはそれを厭うような感情は湧いてこない。
「おかえり、ペリドット!」
「あ、姉さん。ただいま」
ぽよんっとした柔らかい感触。いわゆる『女の子』の感触がペリドットの細い腰へ無邪気に纏わりついた。
小柄な彼女がぎゅっとしてくると、あまりにも可愛らしくて微笑んでしまう。
「最近全然会ってなかったからさみしかったよぉおお」
すりすりすりすり…
お腹に頭を擦りつけてきて、甘えてくる姉が今日も可愛い。
「うん、そうだね。ボクもだよ」
可愛い可愛いアリス・リシア。ペリドットが護るべき『対の姉』。
同じ屋根の下で暮らしながら他の兄弟自動人形たちとは中々会えなくても、彼女だけは必ずペリドットと会おうとしてくれる。
例え、そのあとでシャヘルが面白くない顔をしても、ペリドットには幸せなことだった。
「今日は、どうだった?」
「見て!『赤夜光』の欠片をキューブにできたんだ!」
「すごい!すごーい!!流石、私の弟!!」
差し出したキューブを見たアリス・リシアは心の底から笑って褒めてくれた。アリス・リシアの152センチとペリドットの174センチでは身長差があるため、姉のほうからは弟の頭を撫でることはちょっとめんどくさいものがある。
そのせいか、彼女はいつも決まってペリドットの周囲をぐるぐると回りながら、謎の『凄いぞ!偉いぞ!私の弟!の舞』というダンスを踊って褒め称えてくるのであった。
「ありがとう、姉さん」
少し恥ずかしいけれど、アリス・リシアがペリドットのために踊ってくれていることはよくわかるのでお礼を言う。
「早くシャヘルのところに行こう!!今日の夜はきっとすごいお祝いごはんにしてくれるよ!!」
「…だといいな」
姉には父とのことをうまく話せたことがない。
アリス・リシアはシャヘルのことが大好きで、それはペリドットももちろん変わらない。けれども、そこにある、目に見えない父親から『姉弟』への感情の格差は、彼女に話せるようなことじゃない。
姉はいつも、ペリドットの手を引いてシャヘルの元へと連れていってくれた。
例えその先で、アリス・リシアには丁寧に伏せられた扱いの差を見せつけられるのだとしても、この子には幸せだった。
幸せだったはずだった。
でも今は、以前のように心が躍ることはなく、むしろ、シャヘルと会うこと自体が恐い。
「シャヘルぅうう!!ペリドットが成功したわ!!キューブを持って帰ってきたの!!」
ばぁああああん!
アリス・リシアが勢い良くシャヘルの仕事部屋兼私室の扉を開いた。
「リチェ。ノックをしなさい」
「はーい、ごめんなさーい」
一言の注意だけで許されるのは、アリス・リシアだからこそだ。
同じ行動をペリドットがした場合は、長々とした人格否定の言葉の羅列と共に平手が何発か飛ぶ。
ペリドットはアリス・リシアよりも前に出ると、持っているキューブをシャヘルの机の上に置いた。それをちらっと見たシャヘルはキューブを手に取る。
赤い正六面体の物質をしばらく眺めていた彼は、術式の羅列に指をしばらく這わせていたが、すべての面を確認し終えると、ペリドットのほうへ視線を寄こした。
「報告を聞こう」
「はい」
この子が『赤夜光』の欠片と戦闘を行っていたときの状況を事細かに話せば、時折アリス・リシアから称賛の声が上がった。彼女はペリドットが努力したことはなんでも褒めてくれるため嬉しいのだが、この父親の前で、となると少しだけ胃のパーツが痛む思いだった。
シャヘルはアリス・リシアに褒められるペリドットの様子を見るのも嫌いである。
「だいたい上手く事を運んだようだな」
「ありがとう、ございます…」
「気にかかるのは、結界を展開した際の頭痛か。ほかに症状は出たか?」
「息苦しさ…歌うために必要な呼吸があまりできなかったように思います」
「…負荷がかかったか。あるいは…」
戦闘開始から終了までペリドットの体に生じていた不調や誤作動について、シャヘルは考え込むような素振りを見せた。
心当たりがあるのか、ないのか。それすらもペリドットにはわからない。
「ねぇ!シャヘル!ペリドットが物凄く頑張ったんだよ!!今日はお祝いごはんだよね?!みんなで!!」
「…リチェはそうしたいのかい?」
アリス・リシアの気質とシャヘルの気質は、真っ向相容れないものであったりする。それでも、シャヘルがアリス・リシアの言い分を通すために最後には必ず折れる。どうしてなのかは誰にもわからない。
「当然よ!ペリドットは初めて私たち『楽園シリーズ』の役目を立派に果たして帰ってきたんだから!美味しいごはんで労っても罰は当たらないわ!」
「…わかった。好きなごはんをメイドに頼みなさい」
「やったぁ!」
「ちゃんと他の兄弟たちにも連絡事項として通達しておきなさい。あとで喧嘩になる」
「はーい!あ、ペリドットは何がいい?」
今晩の夕飯のリクエストを他の兄弟たちにも聞きに行こうとしたアリス・リシアが、扉に手をかけて立ち止まった。
「ボク?ボクは…」
好きなごはんなんてあったっけ?
この子はシャヘルに作られてからこれまでの数か月間、ずっと、アリス・リシアや他の兄弟たちと同じ食事を、別の場所でとってきた。だからといって、とりわけてその中で美味しかったものがあるか、というとそうでもない。
そもそも、自動人形は契約者からの魔力さえ摂取していれば機能停止までには至らない。食事は契約者側の負担を減らすためのもので、別に三食必須というわけでもない。
だから、ペリドットは父からの折檻の際には食事を頻繁に抜かれている。数週間食事を抜きにされたところで死ぬわけでもないため、問題がない。むしろデメリットはシャヘル側にあるはずなのだが、彼はそれがペリドットにとっての罰になると言う。
確かに、お腹を空かせる、という感覚よりも、心が空く感覚が嫌だったりはする。
答えに窮したペリドットは、ハッとしてシャヘルのほうを見た。イライラとしたような視線がこの子に突き刺さった。アリス・リシアがペリドットのリクエストを待つ時間がシャヘルの気に障ったようだった。
「…姉さんと同じものが食べたいかな」
「わかったわ!」
アリス・リシアは笑顔で答えると、シャヘルの部屋から出て行った。