中編
「例の薬、手配できてる?」
クリストハルトは離宮から王太子宮へと戻りつつ、侍従に尋ねる。
「はい、早速今夜から全ての食事に混ぜております」
「そう。流石に愛妾に子供が出来たら不味いからね。子絶やしの秘薬を使うことがバルバラを愛妾にする条件だったからなぁ。まあ、アレに子供が出来たら遊べないからちょうどいいけど」
クリストハルトはクスッと笑う。これまでバルバラには見せたことのない冷たい笑いだ。バルバラの見てきたクリストハルトは穏やかで優しいまさに王子様だった。だが、穏やかで優しいだけの王子に為政者は務まらない。クリストハルトは愛妾候補でしかなかったバルバラに己の本質は見せていない。
子絶やしの秘薬は服用していれば性交渉を持ったとしても妊娠しないようにする王家の秘薬だ。1ヶ月毎日服用すれば、以降は服用せずとも妊娠できなくなる。王族の愛妾に与えられる薬だった。
「失礼ながら、アレの何処が良かったのですか?」
「体だね。平民だけあって頑丈そうだし、欲をぶつけるにはちょうどいい。王太子妃や王妃になるフロレンツィアには無理はさせられないから、欲を満たすだけの女が必要だと思ってたんだよ。側室だと政治的な絡みもあるから面倒だし。自分の欲望に忠実で愚かなアレが都合が良かったんだよね」
実家でも欲深いアレを持て余していたみたいだし、王家と縁が持てる上に厄介払いも出来ると実家は喜んで娘を差し出したんだよね、とクリストハルトは続ける。
「フロレンツィアはアレの実家のことを考えて側室候補にできないかとあれこれ教育してたみたいだけど、それを全部苛めって変換するし、僕の側近の補佐候補に媚び売って手玉に取ろうとするし。阿婆擦れもいいところだ」
バルバラがクリストハルトの側近と認識していた伯爵家子息たちは本来のクリストハルトの側近の補佐官候補だった。本来の側近は既に学院を卒業しており、実務についている。王太子が学院に行っている間に執務の下準備をし、短時間で効率よく王太子の執務がこなせるようにしてくれている。彼らは皆名門高位貴族の令息で、公爵家か侯爵家の次男や三男だ。家を継ぐ嫡男である長男は宮廷勤めする余裕はないため、次男以降が側近となる。流石に領地経営と宮廷の高官は兼任できるほど楽な仕事ではない。
「だけど身の程を知らないにも程がある。フロレンツィアと婚約破棄しろとか解消しろとか。平民の自分が後釜に座れるとでも思ってたのかな。しかもフロレンツィアが王妃の地位狙いで、実家の権力で無理矢理婚約者に収まったとか、どういう頭してたらそんな妄想に取りつかれるんだろう」
クリストハルトとフロレンツィアの婚約は王家側が懇願して成立している。クリストハルトは王妃の子ではあるが、王妃の実家は領政の失策で困窮している。天災が続いたのは不運としか言いようがないが、その後の復興において有効な手が打てず、侯爵家とは名ばかりの貧乏貴族になってしまった。そのため、王家と侯爵家を支援できるだけの財力を持つフロレンツィアの公爵家に国王と王妃が懇願して成立した婚約なのだ。
フロレンツィアの実家は権勢欲がなく、領地領民が平和に幸せに暮らせることを第一としている。そのため、この婚約を渋っていたのだ。王妃を輩出することは公爵家にとって利はなく面倒ごとの種にしかならないと。それでも王家が困窮すればやがて国政が乱れるからと、いくつか婚約の際に条件を付けたうえで、フロレンツィアはクリストハルトの婚約者となった。
王家不利の婚約だったが、クリストハルトに不満はなかった。フロレンツィアは穏やかな性格で頭も良かった。良き王妃になると思われる少女だった。公の場では次期王太子妃として微笑みを絶やさず、ともすれば足を引っ張ろうとする貴族の社交も難なくこなす。その一方でクリストハルトや家族の前では喜怒哀楽をはっきり示し、そんなフロレンツィアにクリストハルトも王太子・王族としての顔ではなく、同じ年の少年として過ごすことが出来た。
面倒だったのは、王太子教育の中で必ず『この婚約は王家が乞うて結んだもの。フロレンツィア嬢はそれを受け入れ、次期王妃としての重責を担ってくれた。フロレンツィア嬢と公爵家への感謝を忘れず、彼らの忠心に報いる王となれ』と繰り返されたことだ。何度も言われなくても判っている! と文句を言いたくなることもあった。下手をすれば、卑屈になるような文言だ。フロレンツィアが素直に率直に愛情を示してくれて、公爵夫妻が私的な場では将来の義息子として接してくれたおかげで捻くれずに済んだが。
こうした教育を為されたのもある意味仕方ないとも思っている。曾祖父の兄がそれを理解しておらずに婚約者を冷遇し、婚約破棄して一時期王家と貴族の関係が悪化したのだ。結局曾祖父の兄は王籍剥奪の上幽閉され、曾祖父が王位を継いだ。曾祖父の在位期間は兄の後始末と貴族との関係修復に費やされた。
だから、王族教育には必ず、婚約者が出来たらどういう意図でどういう目的があって婚約が結ばれたかを定期的に確認する項目がある。祖父も父もその弟妹も己の弟妹も同じように何度も婚約の背景と意味を確認させられるのだ。
「まぁ、アレみたいな耳に優しいことばかり言う阿婆擦れに騙されるような盆暗もいるから、この教育も無意味じゃないか」
側近の補佐候補たちの為体を思い出し、クリストハルトは独り言つ。自分は騙されなかったが、自分の子孫はどうか判らない。王族教育の中に態々婚約の意味や背景を入れなければならないのは情けないとは思う。本来なら王族たるもの態々説明されなくても理解して然るべきことだ。だが、理解できない曾祖父の兄のような存在もあるのだから、仕方がない。
「さて、学院生活も残り1ヶ月か。アレに煩わされることもなくなったし、フロレンツィアとの結婚式に向けて準備もしなければね」
楽し気な足取りでクリストハルトは婚約者が待っている王太子宮へと戻ったのだった。